風切丸
第一部完結
“移香どの、思い切り蹴ってください”
その人形から響いたのか心のなかに直接響いたのか、移香の耳に新九郎の声が響いた。
「新九郎、お前なのか?」
“いいから早く!”
新九郎の声を聴いた移香が跳躍する。飛蝗は蟹の方向ではなく、真逆の屋敷の柱の方に飛び、その柱を蹴った反動を利用して蟹に襲いかかった。
「あいつ、無理しやがって」
移香は口元に笑みを浮かべると、蟹の胸に思い切り蹴りを叩き込んだ。
吹っ飛ばされた蟹を童子の人形ーー風切丸がさらに操る。蟹は折れた庭木に背中から落ち、胸を貫いて串刺しになった。
「ぐぁっ……こ、こんな処で…」
蟹は自分を背中から貫く木から引き抜こうともがく。しかしその途中で、上空から飛来してくる影に気が付いて息を呑んだ。
それは剣を脇構えにし、上空から急降下してくる飛蝗だった。
「ヒ、ヒィッ!」
蟹は両腕と大鋏で上半身を覆って防御しようとする。
「斬」
蟹の傍に着地ざまに、飛蝗が剣を振りぬく。一瞬の静寂の後、四本の腕ごと蟹の上半身が、ぼとりと地面に落ちた。
串刺しになった胴体を残し、蟹は両断されていた。
蟹の顔が泡を吹きながら、大垣の顔へと戻っていく。その途中、大垣は口から不神実を吐き出した。
「やれやれ、手間をかけさせやがるぜ」
移香は元の姿に戻ると、大垣の吐き出した実を拾い上げ、次いで胴体から鶴の実も物色した。移香は柱の陰に横たわる新九郎の元に近づいた。
「あの人形、お前なのか?」
移香が苦笑しながら後ろを親指で指した瞬間、童子の人形が糸がきれたように崩れ落ちた。それと同時に、新九郎が眼を開く。
「風切丸という傀儡です。人形に魂を移す、傀儡写魂之術という技を使ったのです」
痛む身体を庇いながら身を起こす新九郎に、移香は苦笑した。
「化怪流よりも、お前の技の方が驚くぜ」
移香は立ち上がろうとする新九郎を腕で引き起こしながら言った。
「移香どのーー」
「どうやらお前には、借りができたらしいな」
真顔で見つめる移香に対し、立ち上がった新九郎は足を引きずりながら声をかけた。
「不神実を集めて……どうするつもりです」
「さあ、どうするつもりだろうな」
移香は苦笑して下を向いた。
「陰野衆とは、どういう人たちですか?」
「『まつろわぬ民』」
移香は短く、それだけを言った。新九郎は問うた。
「ーーその人々、信じてよいのですか?」
「どうだかな」
真剣な眼差しで見つめる新九郎に、移香は自嘲気味に答えた。
「……俺にも判らん。誰を信じるべきか、なんてな」
移香はそう言った後、不意に空を見上げた。
「けど一つ言えることがあるぜ」
「なんです?」
「お前は悪い奴じゃない」
移香はにやりと笑ってみせた。新九郎は、何も答えなかった。
「じゃあな。ーー恐らく次に会うとしたら京だろう。その時……敵同士じゃなきゃいいがな」
移香はそう言うと、踵を返して歩き始めた。
新九郎はその背中を見つめていた。
(京ーー)
新九郎はふと、空を見上げた。
雲の隙間から、青い晴れ間が見えていた。
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