どうやら危険なこともあるようです【3】
前之さんが来た日からしばらくたった。
あれから真人さんが出かけることはあったが、前之さんがお店に来ることもなく、平穏な日々が続いていた。
「あらら……雨降りそうだね」
二郎くんが外を見てつぶやく。
「本当だ…念のため傘持って来ててよかったよ。そうだ! 店の前に傘立て出さなきゃだよね? 私出してくるね!」
「ありがとう!」
私は傘立てを持って店の外に出ると空を見上げる。
真っ暗で今にも雨が降り出しそうだ。そう思っているとすぐポツポツと雨が降り出した。どんよりした真っ暗な空に重たい雲が広がっている。
(雨、きつくなりそうね……)
傘立てを置き、店の中に入ろうとした時、道の向こうから赤い傘を目深にさした女性がこちらに来るのが見えた。
何故かゾワッとしたものが背筋を駆け上がる。
女性は近づいて来ると店の前で立ち止まり、傘を少しあげてこちらを見た。
「あれ? 前之さんですか? オーナーに用事でしょうか?」
私が問いかけるとむっとした表情でコクリと頷く。
「申し訳ありません。今オーナーは外出しておりまして、ご用件がありましたら伺います」
私がそう言うと、前之さんははーっとため息をつく。
「直接会いたかったのに……デートに何度誘っても断られるし! せっかくこの私が誘ってあげてるのに……断るなんてあり得ない!」
(ここ最近真人さんが疲れた表情で携帯を見てたのって……もしかして前之さんからのデートのお誘いのせいだったの……?)
前之さんはイライラした様子で私にハンカチを差し出す。
「もういいや。そのハンカチ大江さんに渡しといて。この前渡しそびれたの。そっちで処分してもらって大丈夫だからって伝えて」
私に押し付けるようにハンカチを渡すと、前之さんはさっさと帰ってしまった。
私は呆気にとられながらも、とりあえず真人さんが戻るまで預かっていようとズボンのポケットにハンカチをしまった。
「お疲れ様です!」
「お疲れ様でした!」
挨拶をしてお店を出る。今日は昼からずっと雨が降っている。
(やっぱりだいぶきつく降ってきたな……雨だとじめじめするし嫌だな……)
そんなことを思いつつ、ふとズボンのポケットに触れた時、ポケットに膨らみを感じた。
「あっ! やばっ! 真人さんにハンカチ渡すの忘れてた……」
私は戻ろうか迷ったが、雨はきついし、もう少しで自宅に着く。真人さんがまだお店に居るかもわからない。
それに前之さんはもう処分していいと言っていたのだ。そんな急いで渡さなくても大丈夫だろう。
明日でいいかと考え直し、自宅付近の橋を渡ろうとした時、橋の真ん中に、この雨の中、傘もささずに俯いた男性が立っているのに気づいた。
俯いていて表情は見えないが、何かぶつぶつ呟いている気がする。
私は少し怖くなり傘を前に倒し、顔を隠すようにしながら、その男性の前を通る。
通り過ぎる時、何となく気になり、少しだけ傘を持ち上げる。
すると、先ほどまでいたはずの男性はいなくなっていた。
(え? 見間違い?)
いや、確かに先ほどまでここにいたはずだ。私は嫌な感じに鳥肌が立つ。
その時、私の背後から男性の小さな声が聞こえた。
「ずっと……一緒って……言ったのに……」
ゾワっと背筋が凍るような感覚に、ビクッと肩を揺らして振り返る。しかし、そこには誰もおらず、一気に心臓がバクバクと脈打ち始める。
急いで自宅まで帰ろうと足を踏み出してハッとする……
まるで金縛りにかかったかのように一歩も動けない。なんとか動かそうと必死に足に力を入れるがびくともしない。
すると今度は急に後ろに引っ張られ、体が勝手に動き出した。止めようとしても止まらない。
(何で!? 前に行きたいのに体が言うこと聞かない……)
緊張と恐怖から一気に汗が吹き出す。そしてふと視線を後ろに向けると六、七メートル後方に先程の男性がこちらをニヤッと見ているのが一瞬だけ見えた。
私はばっと視線を前に戻す。
(どうしよ! どうしよ! どうしよ!)
あれは見てはいけないやつだ。
私は小さい時、人には見えないものが見える時があった。そしてこの感じは決して関わってはいけないものだと知っている。
私はそれまで無意識に握り締めていた傘を放り出し、橋の欄干に掴まる。すると体が後ろに引っ張られる感じが消えた。
(なんとか……なった……?)
助かったと安堵の息をつこうとした瞬間、今度は欄干を握っていた手を引っ張られ、まるで川に引きずり込もうとでもする様に欄干の外側に引っ張られる。
川は昼からの雨で増水し、もしこんな中に落ちてしまえば泳げない私は助からない。目線の下に雨で増水し、ゴウゴウと唸りを上げる水が見える。
「や、やめて!! やめてよ!!」
雨がザアザアと降りしきり、びしょびしょに濡れながら私は悲鳴に近い声で泣き叫ぶ。どうすればいいのかわからない。
体が少しずつ橋の外側に引っ張られているのがわかる。なんとか欄干の外に引っ張られながらも足で踏ん張っていたが、力も徐々に無くなっていく。
もう少しで足が浮いてしまう……そうすればきっと水の中に引きずり込まれてしまう。
(もう……だめだ…)
ぎゅっと瞼を閉じた時、体を包み込む温かい感触を背中と手に感じた。
そして一気に橋から落ちそうになっていた体が引っ張り戻される。背後からふわりと包み込む暖かな感触と聞き馴染みのある声が聞こえる。
「優希さん。大丈夫ですか?」
背中から聞こえる声に安堵し、涙をこぼしながら振り返ると、心配そうな顔をした真人さんがいた。
雨に濡れ、肩で息をしている様子で走って助けに来てくれたのだとわかった。
私が首を何度も縦に振ると、真人さんが安心したように優しく微笑む。そして私の様子確認すると険しい表情になる。
「優希さん何かいつもと違う物や預かり物なんて持ってませんか?」
(預かり物?…………!!)
その言葉にはっとしてポケットを探ると、前之さんから預かったハンカチを取り出した。
「なるほど……これのせいでしたか……」
ハンカチを見るとなんだか気持ち悪く感じる。
そしてじっくり目を凝らして見るとハンカチから赤い糸が出ているのが見えた。
禍々しい黒い靄のような物が出ているように見える。預かった時はこんなものなかったはずなのに……
そしてその糸の先はどこかへ繋がるように橋の下に垂れていた。
私はゾッとして咄嗟にハンカチを捨ててしまおうと、手を動かすが、その前に真人さんにハンカチごと手を掴まれた。
「嫌だと思いますが、もう少しだけ持っていてもらえますか?」
そう言うと真人さんは立ち上がり、自分の腰のあたりに手を添え、まるで鞘から刀でも出すかのように、私には見えない『何か』を引き出す。
そしてすっと目を細め糸を見つめる。
「断ち切れ!!」
それと同時にその何かを斜めに振るう。
するとハンカチから伸びていた糸が切れ、黒い靄も一緒に消える。先程まで感じていた気持ち悪い何かが一気に消えた。
私が呆然とそれを見つめていると、真人さんが目の前に屈むと優しく微笑んだ。
「優希さん。よく頑張りましたね。もう大丈夫です。」
私はほっとすると止まっていた涙がまた溢れ出した。ぼろぼろと涙を流しながら泣き声をあげ、真人さんに抱きついた。
緊張感が一気抜け、涙が止まらない。
怖くて怖くてたまらなくて、真人さんに抱きついていることも忘れ、私は泣き続けた。
真人さんは私をそっと抱きとめると背中をゆっくりさすってくれた。
「もう大丈夫です。安心してください。よく頑張りましたね」
その落ち着いた優しい声を聞きながら私はしばらく真人さんにしがみついて泣いていた。