どうやら変われなくなる時もあるようです【3】
今日は風が冷たい。お店から出ると一気に冷やっとする。しかし、コートを着てタローくん抱えているととても暖かい。
いつもの道のりをタローくんと一緒に上機嫌で帰っていると、ある地点で急に背筋が凍るような嫌な感じがした。
私は立ち止まるとさっと目を走らせる。
(………またこの橋?)
この橋には以前の嫌な思い出が残っている。
しかし、ここを通らなければ家には帰れない。私はため息をつくと仕方がないと諦めて歩き出す。やっぱり水が近いといろいろ集まって来やすいのだろうか。
しかし、こういうのは気にしないことが大事なのだ。
ふと橋の反対側に目を向けると黒い靄のようなものが見えたが、すぐに視線を逸らした。これもやはり見たらいけないものの類いだろう。
私はそちらから視線を逸らし足を進める。
(なんかカフェで働き始めてから、以前より見えやすくなってる気がする……でも見なければきっと大丈夫! 大丈夫なはず!!)
私は心の中で大丈夫大丈夫と念じつつ歩みを進める。少し視線を上げると目の端に黒い靄が見えた。
(げ……な、なんで……? めっちゃ近付いてきてる)
しかも黒い靄はまるで道を塞ぐようにじわじわと少しずつ横に伸びていた。私は嫌な汗が伝うのを感じながら必死に考える。
(どうしよう? やっぱり引き返すべき? でもこの道を通らないと家に帰れないし……)
そうこう悩んでいるうちに黒い靄は道幅全体まで広がってしまった。流石にここまで広がると間を通り抜けることはできない。
どこか少しでも靄が薄くなっている所はないかと黒い靄を見つめる。すると一瞬だが中に光る目のようなものが見えた気がした。
(!! やばい! 目線あっちゃった? 私が『視える』って気づかれたかも!?)
私はくるりと方向転換すると、逃げるように早歩きをする。
「あっ! そうだった〜店に忘れ物しちゃった!」
私は何も見えてませんアピールをするように、そんなことを言ってみたが、どうやら意味がなかったらしい。確実に黒い靄がこちらに迫ってきている気配がする。
(やばい! やばい! 来てる! 絶対なんか迫ってきてる……!)
私は冷や汗をぼたぼた流しながら、もはや走り出す勢いで足を動かす。
そうして必死に足を動かしていると、モゾっとタローくんが動き、腕の中から飛び降りてしまった。
逃げることに必死になっていたせいで、しっかり体を掴めていなかったようだ。
(しまった……)
タローくんは地面にひらりと着地すると、黒い靄のほうに体を向け威嚇するように「シャー!」と唸り声を上げる。
私ははっとして叫んだ。
「タローくんダメ!!」
私がタローくんを捕まえようと振り返ると、そこにはいつの間にこれほど大きくなったのか、私の背丈よりも高くなった黒い靄がニ対の光る眼で見下ろしていた。一気に緊張が走り、そこから目が離せなくなる。
目を合わしてしまった恐怖で体が固まり、ガタガタと震えだす。
(あ……あ……)
恐怖心だけが広がり、逃げなければと思うのに緊張から体を動かすこともできない。私はただ呆然とその黒い靄を見つめ続けた。
「にゃーーーーーーーー!」
その時一際大きな鳴き声と共にその場に風が吹き荒れた。
その声にびっくりしたせいか体の強張りが解けた。
私が風から身を守るように顔の前に手を交差して、なんとか風を遮ろうと目をつむる。
風がおさまり、ゆっくり目を開くと尾が二股に割れた私の背丈を越すほどの大きな猫が、私を守るかのように黒い靄との間に現れた。
(この猫って一体………)
何がなんだかわからい。しかし何故だかこの猫は安全なのだと安心感が湧く。
通常であればあり得ない大きさで、恐怖心を覚えていいはずなのに何故かその猫に恐怖心は感じなかった。
私は無意識に呟いた。
「タローくん……?」
自分でもびっくりする。あの小さくて可愛らしい猫がこんな大きくなるなんて信じられないことだ。
確かに毛並みはタローくんと同じ色合いだ。ただそれだけのことなのに何故か確信が持てた。
この猫はあのタローくんなのだと。
「にゃーー」
それまで黒い靄を威嚇して唸り声を上げていた猫が、私の声に反応して、こちらに視線を向ける。そして安心させるかのように優しげな鳴き声をあげる。まるで「心配しないで」とでも言うように。
そしてまた黒い靄のほうに向き直ると「にゃーーー!」と怒りが籠った大きな声を出した。
するとまた風が吹き荒れる。
その風はまるで鎌鼬のように黒い靄を切り刻んでいき、徐々に黒い靄の固まりが小さくなっていく。しかし、黒い靄も抵抗するように、散りじりになった靄どうしをくっつけようとしている。
タローくんは唸り声を上げると爪で大きく引っ掻いた。するとさらに強い風が吹き荒れ、黒い靄は霧散するように消えていった。
(き、消えた………?)
私はその光景に安堵の息をついた。
安心し力を抜いた時、暴風の中で舞い上がった木葉がこちらに飛んできたきのを目の端にとらえ、咄嗟に上体を逸らした。
まだこの状況で気を抜いてはいけなかったのだ。力の抜けた体はバランスを崩し、体が傾いていく。
(あっ……やばい……これ頭を橋の欄干に打ち付けるパターンだ……)
私はその瞬間をスローモーションのように感じながら、傾いていく自分の体に為す術もなく、衝撃に耐えるよう目を瞑った。
しかしその時、体が反対方向に引っ張られ、何か暖かいものに体を包まれた。手が触れたそれは表面は柔らかいのに、その奥は少し硬いような、暖かいものだった。
(なんだろう? この感触……まるで誰かに抱き込まれているような………)
私は恐る恐る目を開けると視界全面に肌色が広がる。
(………肌色??)
「い…てて…あ! 優希さん! 大丈夫!?」
馴染みのある優しげな声がとても近くから聞こえた。びっくりして顔を上に向けるとそこには二郎くんの顔が間近にあった。
その状況に頭がついていかず、しばらく呆然としていたが、次第にはっきりしてくる頭で、尻餅をついた二郎くんに抱きしめられ胸の中に抱えられていることに気づく。
「じ、じろう…くん……?」
「うん。優希さん、大丈夫?」
不安げな二郎くんの顔が目の前にある。
私はこの近すぎる距離にドキドキしながらも首を何とか縦に振る。
すると二郎くんは安心したように優しく微笑み「よかった〜」と息を吐いた。
そしてはっと目を見張ると全身を確認し、元気よく、とても嬉しそうに手を振り上げた。
「よかった!!! やっと人間になれた〜!!!」
(なれた……?)
私はその言葉に頭に疑問符を受かべ、そしてふと目線を下に下げてピシッと固まった。
二郎くんは固まった私に困惑して眉を寄せて、窺うように名前を呼ぶ。
「ゆ、優希さん……? 大丈夫? どこか痛いの? もしかしてさっき怪我しちゃった!?」
二郎くんの焦ったような声に返事も出来ず、私は全身を真っ赤に染めると、ぱっと立ち上がりすぐに自分の上着を脱いで二郎くんにかけた。
私の行動に頭を傾げた二郎くんはやっと状況を理解したのか、彼自身も全身を真っ赤に染める。
そして私のほうを見ると、今度はさっと顔色を真っ青に変え、絶望したようにこちらを見つめてきた。
「ち、違うんだ!!!」
立ち上がり説明をしようと迫ってくる二郎くんに、私は二郎くんを直視しないよう視線を外しながら、かけた上着を引っ張り、前を合わせる。
「ちょ…ちょ、ちょっと落ち着いて!! 前! 前留めて!!」
そう、何故か二郎くんは全裸だった。
二郎くんははっとして上着の前を合わせるとボタンを留める。私はその光景を横目に見ながらしみじみと思った。
(今日長めのコート着ててよかった〜〜)
そんなトンチンカンなことを考えていると、ボタンを留め終わった二郎くんが恐る恐るというようにこちらに視線を向ける。
「あのね……あの……信じて欲しいんだ! 僕もちろん裸で街中を歩き回るような趣味も無いし、違うんだよ! これはね、えっとあの…だからね、何でこの格好だったかと言うと……あの……猫がね……」
二郎くんは怯えたように視線を彷徨わせ、必死に説明をしようとしている。不思議と相手が焦っているとこちらは冷静になれるものだ。
それに冷静になると一連の出来事で、あり得ないようなことだがそうとしか考えられなくなる。
真人さんとの電話でも思ったことだ。この世界には私の知らないことが溢れている。
二郎くんがお休みになった日から突然現れたタローくん。そして何故タローくんが大きな猫になったのか。そのタローくんが消えて何故全裸の二郎くんが目の前に現れたのか。
私は二郎くんを落ち着かせるようにそっと肩に手を置き、微笑んだ。
「とりあえず、一旦カフェに戻らない?」
今の状況は誰かに見られるといろいろ面倒だ。なんと言っても二郎くんは今私のコート一枚しか着ていないのだ。
これは職質でもかけられたら完全アウトなやつだろう……
二郎くんは私の提案に気まずそうに静かに頷いた。