第9話 少女たちの微睡み
程なくして焚き火が消えた。深い闇の中、懐中電灯の明かりを頼りに柿本が焼け残った薪にひとつひとつ水をかけていく。
残骸は明日の朝になってから灰捨て場に持って行くとのこと。
学生組がめんどくさがっていたが、食事のお礼と言うことで柿本が処理すると申し出ると態度を一変させた。
焚き火の処理にこれほど手間がかかるとは遥にとっても予想外であったから、大学生連中の気持ちもわからなくはない。
すっかり暗くなった広場に別れを告げて、一同は寝床に向かう。撮影組と深月はロッジへ、ほかの大学組はそれぞれのテントへ。
森の夜は深くそして暗い。真っ黒と言ってもいいほど。それでもスマホの明かりを頼りに歩みを進め、遥たちは何事もなくロッジに到着。
ドア横のスイッチをオンにすると、白い光が室内を照らす。夜闇に慣れかけた目に眩しい。
先ほどまで眺めていた焚火とは異なる、都会に住まう人間にとっておなじみの人工的な光。
室内にはベッドが3つ。床には黒いカーペットが敷かれている。
テーブルがあってソファがあって物置の棚もある。エアコンまで完備。
別室には簡単な料理が作れるキッチンだけでなく、洗面所、シャワールーム、そしてトイレも備え付けられている。
ここまでくると『キャンプ場とは?』という疑問がわかなくもないが、快適に過ごせるのは魅力的だ。
部屋の中にある3つのベッドのうち、左右を遥と裕子が占領し中央のベッドは荷物置きになっていた。
「あ、私端っこの方が……」
「了解」
真ん中のベッドから荷物をどけて遥が使うことになった。
荷物はまとめて部屋の片隅に。
ついでにバッグからクレンジング剤とタオルを取り出す。
「ん~、まずはメイクを落とさないと」
「ですよね」
裕子と互いに頷きあう。先に遥が使わせてもらうことに。
洗面台に向かい、メイクを落とす。スキンケアは日々の積み重ねだ。
年頃の女子として、ルックスを売るグラビアアイドルとして、メイクを放置して眠るなんてありえない。
間近で鏡に向かい合うと……今のところは隙なく仕上がっている。少なくとも残り2日、この状態を維持しなければならない。
鏡に映った背後では深月が開いたベッドに腰を掛け、所在なさげにしている。
「シャワー、先に浴びちゃいなさいな」
そんな深月に裕子が声をかけると、おずおずと遥の方を見つめてくる。
『自分が先でいいのか?』そう鏡ごしに目で尋ねてくる。
「深月ちゃん、お先にどうぞ」
「……わかりました。ありがとうございます」
街と比べれば涼しげなキャンプ場、あまり運動していないとは言え一日中外にいれば埃をかぶる。
さらに季節は夏。一年のうちでも最も汗が気になる頃合いである。
これまで不満の類を口にしてこなかった深月だが、同居人の許可を貰うなり早々にシャワールームに姿を消した。
さて、一方遥はというと――
――時間を掛けず、でも丁寧に……
メイク落としは面倒だが重要。それは美貌を維持するための儀式。
力を入れてはいけない。時間を掛けてはいけない。でも慌ててはいけない。
手のひらに受けたクレンジング剤を体温で温めて顔全体に伸ばす。
肌の上で指を滑らせるようにくるくるとメイクとなじませていく。
眉間やこめかみ、そして目蓋。手が行き届きにくい場所は特に要注意。時間にして1分ほど。
しかる後にぬるま湯でしっかり洗い落とす。
幾度となく繰り返してきただけあって慣れたものだが、油断するともろに肌に影響が出てしまう。
毎日のスキンケアに手は抜けない。そして失敗もできない。今日のところはOKといってよさそうだ。
ベッドに腰かけてタオルで水滴を拭っていると――
「今さらだけど、水着でしたね」
「そうね、全くもって今さらだけど」
見下ろしてみると、透きとおるような白い肌に黒のビキニ。
明かりのもとで見事なコントラストを描き出している。
各務原のオーダーの後、ずっとこの姿でいたことに今しがた気付かされた。
森の中での夏の夜。どこかしら浮かれていたのかもしれない。
深月が遥から視線を外していたのも……
「じゃ、私もメイク落としてくるから」
「は~い」
洗面所に消える裕子。シャワールームからは流れる水の音。
耳をすませば虫の鳴く声が聞けてくる。
そして、ひとり水着姿でベッドに座る遥。
「夏ねぇ……」
言い訳のように独り言ちた。
★
しばらくしてパジャマに身を包んだ深月が姿を現した。
入れ替わりに遥がシャワールームに向かう。
水着を脱いで裸になると開放感が広がる。特に胸のあたり。
蛇口をひねると室内に温かいお湯の雨が降る。
身体を流れる温水が汗や汚れを洗い落とす。
山の中でほぼ丸一日過ごした分だけ、いつもよりしっかりと。
お湯は貴重ではあるが出し惜しみはなしだ。マッサージを施すと身体の凝りが解されていく。
十分にお湯を堪能してからボディーソープで身体を洗う。しかる後に頭。
さすがにいつものように丁寧にやる余裕はない。後に裕子も待っている。
手抜かりはないように洗い流して鏡で確認。生まれたままの遥の肢体は今日も美しい。
肌を伝う水滴をタオルで拭ってから脱衣所へ。
急いだつもりではあるものの、それでも下着を身につけTシャツを着て部屋に戻ると、たっぷり30分ほど経過していた。
「お待たせしました」
「最後は私、行ってくるね」
裕子がシャワールームに向かい、遥は吸水タオルを髪にあてる。
ゴシゴシするのはNGでゆっくり手もみをするように頭皮の水分を取っていく。
絡まっている部分は手櫛で優しくほぐす。
その間、チラチラと隣のベッドから視線を感じた。
「どうかした?」
「いえ、何でもないです……」
「そう?」
――何にもないってことはないと思うけど。
心の中で思っていても口には出さない。
とりあえず今は髪の手入れが大切。髪のケアも日々の積み重ねだ。ローマは一日にして成らず。
ドライヤーをスイッチオン。調子はずれの鼻歌交じりで自慢の黒髪に温風を当てる。
髪から少し離れたところでドライヤーを振り、毛束を引っ張りながら乾かしていく。
弱温風モードに切り替えて前髪を、そして上から下へ。
最後に冷風モードで髪の残った余熱を逃がす。
「あの……」
「何?」
「その、凄く丁寧ですね」
「そうかな? うん、そうかも」
『そんなことない』と言いかけて――ストップ。訂正。
思い返してみれば、メイクにせよ髪の手入れにせよ、本腰を入れて取り組むようになったのは、遥もグラビアアイドルとして活動するようになってから。
それ以前はかなり適当に流していた記憶がある。深月は今年中学3年生とのことなので、まだあまり気にしていないのかもしれない。人それぞれである。
「えっと、その、楽しいですか?」
「ん?」
「その……あんな水着をみんなの前で着てみせたり、メイクとかにイチイチ時間を掛けたり。そういうの、私、よくわからなくって」
かなり直球な質問だった。
言わんとするところは遥にも理解できる。
だから――
「う~ん、そうね。私は楽しいかな」
「そうなんですか?」
「ええ!」
断言したのは遥ではなかった。
いつの間にかシャワールームから姿を現した裕子が仁王立ちになっている。全裸で。
これがいい歳した大人のすることか!?
「きゃっ!」
「裕子さん、前隠して!」
恥ずかしそうに目を隠す深月。咎める遥。
「あらやだ、ゴメンナサイ」
全然誠意を感じられない言葉と共にシャワールームに消えた裕子は、バスタオルを巻いて戻ってきた。
服を着て欲しかった。
「えっと、裕子さん?」
先ほどの遥と同様に髪の水分をタオルに吸い取らせている裕子。
「かなたちゃん、ドライヤー貸して」
「あ、はい」
いくらなんでもマイペースに過ぎる。
尊敬できる先輩だけど、こういう所は参考にしないでおこうと心に決める遥だった。
もちろん口には出さない。
★
「『きれい』とか『かわいい』はエネルギーなのよ!」
きょとんとした深月の前で、寝間着に着替えた裕子が力説する。ベッドの上で。
遥も白い革製のカバーを付けたスマホを弄りながら頷く。まったくもって同意である。
手元では各務原からもらった画像データを添付して弟にメッセージを送っている。
――――
<高遠 希>
――――
遥
『キャンプ場到着!』21:31
『魚釣れた!』21:31
『バーベキュー!』21:31
――――
連続して送られたメッセージにはすぐに既読がついた。
今の今まで送ることそのものを忘れていたが。
――――
希
『ちゃんと仕事やってんのかよ』21:31
――――
生意気な弟だ。そこがかわいい。
――――
遥
『やってるし。アンタこそちゃんと練習してるんでしょうね?』21:32
希
『言われなくてもやってるっつーの』21:33
――――
遥の弟、『高遠 希』は都内の中学校で野球部に所属している。
今は中学最後の大会に向けて猛練習に励んでいる頃合いだ。
――――
遥
『ご飯食べた?』21:33
希
『母さんが作ってくれた。そっちはさっさと寝ろよな』21:34
遥
『明日も朝から撮影あるし、すぐ寝るわ。おやすみ』21:34
希
『おやすみ』21:34
――――
「誰と話してんの? ひょっとして彼氏とか?」
興味深げに覗き込んでくる裕子に、
「違います。弟です」
「な~んだ」
速攻で否定された裕子は、面白くもなさそうに自分のベッドに座り込む。
「いや、それはいいとして。『かわいい』は食べ物なのよ」
「は、はあ……」
言葉の意味を理解しかねたのか、戸惑い気味に遥の方を見やる深月。
「食べ物かどうかはともかくとして……褒められるってのは凄くパワーを貰えるのね」
やる気が出るって言うか。
裕子の言葉を深月に理解しやすいように噛み砕いて説明する。
『褒められる』『認められる』『喜ばれる』『感謝される』などなど、数値化はできないもののポジティブな言動はモチベーションに大きなプラスの影響を与える。
逆にネガティブな言動はマイナスな影響を与えてくる。遥はあまりネガティブなことは口にしないようにしている。自分の言動であってもネガはしんどいから。
「褒められると嬉しい。だからもっと頑張ろうって気持ちになる」
勉強でも運動でも、ルックス磨きでもそれは全部同じ。
言葉にすると俗物感があるものの、別に悪いことではない。
「頑張って『できた』って思えると、それが自信につながるの」
そうやってモチベーションをスパイラルさせて自分を高めていく。
「まあ、見た目ってのはその中でもわかりやすい。特に周りの反応が」
「だからって……あんなえっちな格好をするのは、その……」
「その辺りは人それぞれ。性格によるかな」
「恥ずかしくなったりはしないんですか?」
「ううん、恥ずかしいよ」
答えると深月は大きく目を見開いた。
学校でも似たような質問に同じように返すと驚かれる。
「もちろん人前で服を脱ぐのは恥ずかしい。でも、みんなの視線を独り占めできると気持ちいい。この二つの感情は互いに矛盾はしないの」
少なくとも遥の中では。
それでも思春期の女子としては、異性の視線を気にするなと言うのは難しかろう。
たったひとつしか年齢は違わないけれど、遥と深月はその辺りの考え方が大きく異なっている。
根本的な性格の違い――というわけではない。遥も昔は恥ずかしさの方が大きく上回っていたし、デビュー前は自分の身体に向けられる異性の視線から逃げるようにしていたのだから。
「女として全く見られなくなるのも、それはそれで虚しくなるものよ……」
裕子の声が低く響いた。
そこに込められた感情の重みに、遥も深月も息を呑む。沈黙が重い。
これはフォローが必要か。深月に目を向けると――どう答えたらいいものかわからない模様。
ここは年長者として自分が何とかしなければなるまい。
「裕子さん、全然きれいじゃないですか」
「……ほんとに?」
――ウザ。
わざとらしく拗ねて見せてくる裕子。
遥より一回り以上年上の女性にそんな態度を取られると、遥の鉄壁の笑顔にヒビが入りそうになる。
「凄くきれいですよ。ね、深月ちゃん?」
「は、はい」
遥は秒で意見を翻した。年下の一般人である深月を巻き込んでターゲットを分散する作戦。
「そう? まだまだ私も捨てたもんじゃないわね」
まあそれはいいとして、
「私、自分に自信が持てなくて。周りは凄い人ばっかりだし。それに男子がじっと私の方見てきて恥ずかしい……」
大学教授の祖父の周りに集まる人間は、教授に見合う優秀な者ばかり。ただし、彼らは相応に年を取っている。若い深月が気にすることはないと思うが……
男子が深月に注目するのは、深月の容姿が人目を引くからだ。
年相応の幼さを感じさせるものの、顔のパーツは整った造形をしている。
物語だったら『あと何年かしたら……』などと語られるタイプ。
しかし、その辺りを説明してみても本人が納得しなければ意味がない。深月自身の『気づき』が大切なのだ。
「せっかくだから深月ちゃんも明日の撮影見学してみたら?」
いいこと思いついたと言わんばかりの裕子の提案に、深月は驚いたように目を丸くする。
「え?」
「グラビアアイドルの仕事って、普通に暮らしてるとよくわかんないだろうし」
書店で雑誌の表紙を飾っているのはしばしば目にするだろうが。
どのようにそのグラビアが生まれるのか、グラドルはどのように仕事に臨んでいるのか。
同年代の女子である遥の仕事ぶりを実際に目の当たりにすれば、何かしら考えるきっかけにはなるかもしれない。
「そうですね。『百聞は一見に如かず』って言いますし」
「え? ええ?」
「深月ちゃんが何を悩んでいるのかはわからないけど、せっかくこうして出会ったんだから……ね?」
遥と深月では思考が違う。
だから、遥には本当のところ深月が何を悩んでいるのかはわからない。ただ、想像するだけだ。
「は、はあ」
「たったひとつしか違わないけど……私の仕事が深月ちゃんにとって何かのきっかけになれば嬉しいな」
軽く微笑むと、深月は真っ赤になってうつ向いてしまった。
そして『はい』と小さく頷く。強引だったかなと思わなくもない。
後で考えれば大した問題でもないのかもしれないが、今の本人にとっては馬鹿にならない問題なのだろう。悩みなんてそんなものだ。
一応人生の先輩にあたる遥としては、見ず知らずの相手とは言え手を差し伸べることは吝かではない。
「それじゃ、明日も朝早いからそろそろ寝ましょうか」
男の前では到底見せられないような大欠伸をする裕子。
スマホを確認すると――午後10時を回ったあたり。
いつもはもう少し遅くまで起きているが、今日は身体も頭も限界を訴えてきている。
大自然の中を動き回って疲労がたまっているらしい。
他の二人も似たり寄ったりの状態の様子で頷いている。
「戸締り大丈夫です」
出入り口と窓に鍵をかけ、カーテンを閉める。
鍵はふたつ。遥と裕子が預かっている。飛び入り参加の深月の分は渡されていない。
隣りのロッジで眠る男性組の方は、3人とも1本ずつ持っているはず。
「電気は全部消す? 小さいの残す?」
「私はどっちでも」
「すみません、私は消してもらった方が……」
「んじゃ消すわよ」
裕子の声と共にロッジの中が闇に染まる。
遠くに聞こえるフクロウの鳴き声。微かにそよぐ風の音。
カーテン越しに見える満天の星空。
左右から聞こえる規則正しい寝息。
慌ただしくて騒がしく、そして楽しい一日が――終わる。
疲れていたせいだろう、すぐに遥の意識も闇に融けていった。