第8話 焚き火を囲んで
「よ~し、そろそろいいぞ!」
バーベキューの傍のダッチオーブンをかき回していた池が声を張り上げた。
何ごとかと鍋を覗き込んでみると、中に満たされていたのはクリーム色の液体。
芳醇なミルクの香りが漂ってくる。
「これは、チーズ?」
「ああ、チーズフォンデュ。そこのバーベキューで焼いた奴をつけて食べるんだ」
「おお」
『なるほど』と感心すると同時に『キャンプでチーズフォンデュ?』と首をかしげる。
物は試しと焼けたばかりのニンジンを串に刺してチーズの海を泳がせ、そのまま口に放り込む。
「あ、熱いから気をつけてな」
「熱ッ!?」
――言うのが遅い!
池に抗議の声をあげる余裕はない。
とろりと蕩けたチーズが口中に広がり、焼き立てのニンジンの甘味と混ざり合う。
「熱……でも美味しい」
「だろ? ほら、こっちも試してみな」
差し出された串には大振りなウィンナーが刺さっている。少し焦げた皮はプリプリで表面は油でテラテラしている。
「ありがとうございます。それじゃ早速……」
ウィンナーの先端をチーズにつけて、零れ落ちる前に口に運ぶ。
太めの肉詰めを頬張るために小さな唇を開き、口の中を火傷しないように慎重に齧り付く。
チーズのまろやかな旨味と、凝縮された肉の味が弾けて踊る。美味い。
「大きい……熱くて大きい……でも、いい。私、これ好きかも……」
美味に表情が緩み、恍惚とした光が宿る。
唇の端を伝う蕩けたチーズを指で拭って嘗めとった。
そんな遥を見て池がニヤリと笑う。
ひと口、もうひと口と食べ進めると、あっという間に極太ウィンナーはなくなってしまった。
「いい食べっぷりだ。もうひとつ行く?」
「えっと……」
ついうっかり頷きそうになって正気に返る。
打ち合わせのとおり、明日も撮影がある。食べ過ぎはいけない。
たかがウィンナー1本くらい大丈夫だろうという気はするものの、夕食はまだまだ他にも残っている。
せっかくのキャンプなのだから、ひととおり試しておきたい。
「すみません、ほかにも色々食べたいものがあるので」
「残念。食べたくなったらまた言ってくれよな」
「はい!」
うまいものを食べれば自然と顔がほころぶ。
食事の前に抱いていた池へに微妙な感情は、すっかりどこかへ行ってしまっていた。
「空野さん、こっちもできましたよ」
坂本が網の上に置かれたホイルの前で呼んでいる。
いったいどんなものを食べさせてもらえるのだろう。想像するだけで気分が上がる。
近づいて銀色の包みを開くと、
「わあっ」
白身が眩しい魚と刻んだ野菜。にんじん、玉ねぎ、シメジ。
「これって……」
「昼間に釣ったヤマメをホイル焼きにしてみました」
解説を聞きながら箸で身をほぐしていそいそと口に運ぶ。
しっとりと蒸しあがったヤマメはふんわりと柔らかく、玉ねぎの甘味とシメジがよく合っている。
川魚を口にするのは初めてだったが、いつもスーパーで買っている魚よりもずっと美味しく感じられる。
臭みなんて全く感じない。スマホで写真を1枚。
「坂本さん、お料理上手なんですね」
「いや~、ずっと自炊ばっかりだったんで」
頭の後ろを掻きながら照れる編集氏。
褒められてまんざらでもない模様。
「僕ももらおうかな」
横合いから箸を突き出してきたのは、小太りの男――芦田。
器用に玉ねぎとニンジンを避けて魚の身ときのこだけをより分けている。
何となく、その動きからは子供じみた印象を受ける。
「えっと、芦田さん、でしたっけ?」
話しかけるのはこれが初めて……だったはず。
遠目で遥の方をチラチラ窺っていたのは気づいていたが。
ちょうどいい機会なので会話を試みるも――
「ごめんね。玉ねぎとニンジンは嫌いなんだ」
口では謝っているが、特に悪いと思っているようには見受けられない。
ついでに言うならば、あまり積極的に会話を盛り上げようという気概も見えない。
「あ、いえ、別にそう言うわけでは……」
何となく引っかかるものを覚えたものの、それ以上突っ込むことはなかった。
せっかくいい雰囲気の食事会なのだから、変に場をかき乱すこともあるまい。
そう自分を納得させて遥は大人しく引き下がった。
★
その後も華やかな合同夕食会は続く。
見た目に鮮やかな生春巻きはパクチーの香りが強くて一部には不評だった(遥は美味しくいただいた)。
ナス、トマト、ズッキーニなどを炒めたラタトゥイユはかなり本格的な味わい(芦田と矢生は手を付けていない)。
スーパーで買ってきたと思われる焼き鳥は、信じられないほどおいしかった(七海は鶏肉がダメらしい)。
オリーブオイルとにんにくの香りが際立つアヒージョ(写真には映らないもののにんにくの匂いは遥的にパス。美空もスルーした)。
次々と料理が現れては皆の胃に収まっていき、ドンドンビールの空き缶が積み上がっていく。
最後まで閉じられていたダッチオーブンの中ではチーズやソーセージが燻製されていた。これもビールのあてだ。
焚き火の周りで焙られたマシュマロ、空いたオーブンで仕上げられた焼きリンゴなど、甘味も豊富。
「美味しい」
仏頂面だった深月も微笑み、
「これは罪の味だわ……」
気を許すと『甘味は別腹』と言わんばかりに手が伸びそうになる。
遥は己の欲望を堪えるのに必死だった。ほかの連中が遠慮なく食べまくっている姿を見せられると、つらい。
いつか、仕事関係なしでもう一度来たいと思えるほどにキャンプを満喫している。
「各務原さん、それ、何やってるんですか!?」
「何ってラーメン作ってるんだけど?」
バーナーの上に手鍋を置いて袋から出した乾麺を放り込んでいる。
どこからどう見てもただのインスタントラーメンなのだが……
「いえ、それはわかりますけど、今入れたのって」
「お酒」
「お酒って……」
いつの間にか手元にあった酒を鍋に注いでいたのだ。
ワンカップの安い日本酒。
「味噌ラーメンには酒。これがいいんだ」
「……適当なこと言ってません?」
「嘘じゃないって。食べてみる?」
アルコールは飛ばしてあるから大丈夫だよ。
そう言って出来上がったラーメンに遥を誘う。
各務原の態度は自身に満ち溢れている。ウソをついているようには思えない。
――ラーメンにお酒……
気にならないと言えばウソになる。
髪をかき上げて恐る恐る箸を伸ばし、音を立てないようラーメンをすすり込むと、遥の知る味噌ラーメンとは異なる味わいであった。深みがあるというか……とにかく美味しい。
「どう?」
「美味しい。家でも作りたいけど、お酒が買えませんね……」
「親に頼んでみたら?」
「『お酒が欲しい』って、それ言いにくいですよ」
「確かに」
二人で笑い合う。
他の男たちもまだ腹が満たされていないのか、めいめいにカップラーメンにお湯を注ぎ始める。
さすがに女性陣は食べない。
「みんなよく食べますね……」
「こういう所だと飯が進むもんだ」
ついでに酒も進んでいる。みんな明日が辛かろうに。
特に撮影班。各務原の希望で朝が早いのに大丈夫なのだろうか?
既に飲んでしまっている以上は、今さらではあるが。
「わかります、すごく」
思わず腹を押さえる。まだ大丈夫……のはず。
いい加減腹八分目ぐらいにはなっている。リンゴの甘酸っぱい誘惑を振り切ってウーロン茶に手を伸ばした。
★
食べに食べ、飲みに飲んだところでようやく食事会はお開きに。
食器はまとめてシンクに収められ――
「ああ、それはよくない!」
柿本の悲痛な声が響く。酒に酔っているせいか、いつもより声が大きいものの微妙に呂律が回っていない。
大男の視線を追っていくと――矢生によって運ばれたシンクはポリタンクの下に置かれ、水が注がれている。
「……ダメなんですか、あれ?」
食べ終わった食器類をシンクにまとめて水にさらす。
普段の炊事場ではよくある光景に思えた遥が尋ねると、
「こういう所の場合、まずは汚れを綺麗に拭き取って、それから水洗いにしないと」
「あまり変わらないように思えるんですが……」
むしろごみが増えてしまう分だけ手間がかかるような気もする。
「あのシンクの水をそのまま流すと汚れが溜まってしまいます。そもそも先に水を入れてしまうと洗い場まで持って行くのが大変で……」
「なるほど」
柿本はアウトドアにうるさい。遥は覚えた。
「大切な話なんですよ、かなたさん」
――言い方は悪いけど、あちらの後片付けはあちらに任せよう。
既に水に浸してしまった以上、今さら水を捨てても問題は解決しないのだから。
そんなこんなで(一部で)揉めてしまった後片付けはさておいて。撮影班、大学組が揃って焚き火を囲む。
マグカップにインスタントコーヒー。コーヒーが苦手な者はウーロン茶。
「う~ん」
「どうかしました、各務原さん?」
炎を見つめながら唸っている各務原に声をかける。
食べ過ぎで苦しいのかもしれない。
「あ、ちょうど良かった。かなちゃん、ちょっと着替えてきてくれる?」
「え?」
「焚き火を使って写真が撮りたい。柿本君、レフ板よろしく」
「は、はぁ」
遥と柿本は思わず顔を合わせてしまう。
食事の後はまったりしたいところではあるものの……
――各務原さんには昼間迷惑かけたし、ここは……素直に従っておこう。
「行きましょう、柿本さん」
「わかりました」
二人でロッジに戻る。いい写真が取れれば遥にとっても美味しい。
柿本は男性用ロッジからレフ板を持ち出し、遥は女性用ロッジで着替え。
――焚き火か……
どの水着が合うだろう?
少し考えて黒のビキニを身につける。最後まで白と迷った。
サンダルを履いて焚き火の傍に戻ると、男性陣から思いっきり歓迎された。
四方八方から視線が突き刺さる中、遥は堂々と胸を張る。見られてナンボの商売である。
誰からも見向きもされなくなった方がよほど悲しい。
「じゃ、みなさんちょっと離れて。かなちゃんは焚き火に近づいて」
「この辺ですか?」
「うん、自由にくつろぐ感じでお願い」
各務原の指示は曖昧だったが、言いたいことはわからなくもない。
キャンプ用のチェアを焚き火に寄せて腰を下ろし、炎にじっと眼差しを向ける。
ゆらゆらと揺れてひとときも形が定まらない光。その鼓動。
自然に生まれたものではないのに、どんな光よりも原始の息吹を感じさせる光。
そんな炎を間近に見つめていると、遥の胸の内からいつもとは異なる感覚が沸き上がってくる。
吸い込まれるような、それでいて思わず体を揺らしたくなるような。昔の人も同じだったのだろうか。
ときおり爆ぜる薪の音と飛び散る火の粉が産み出す非現実感に飲み込まれそうになる。
物憂げな表情、笑顔。身体を引いて背を逸らす。両腕で頭を抱くように、そして前髪をかき上げる。
昼間の撮影時に顔を魅せなかった者たちも、この突然のイベントを固唾を飲んで見守っている。
三角すわりの要領で両脚に胸を押し付けると、大きな胸の双丘が柔らかく形を変えて視線を集める。
異なる環境で生まれる異なる写真。出来栄えはわからないが期待はある。
否、撮影は各務原だ。失敗はない。面白い写真が撮れそうだ。来てよかった。
しばらくの間、夜闇に踊る炎と共にシャッターとフラッシュが連続。
そして――
「OK! いい絵が撮れたよ」
緊張から解放される観衆。力を抜く遥。
満足げな各務原に近寄ってデジカメを見やれば、『さすが各務原』と言った見事な写真が次々と現れる。
人工の明かりでは決して作ることのできない幻想的な光景がそこにある。
「う~ん、僕が決めるわけじゃないんですが、これを載せたら受けそうですね」
「いい感じね。セクシーに撮れてる」
「これは今回の目玉になるかも」
「ですね」
いきなり着替えを要求されたときはどうなるかと思ったが、これには遥も大満足。
どうせなら食べる前に言って欲しかった。思わずお腹のあたりを凝視してしまう。
少し恨めし気に各務原に視線を送ると、
「焚き火を見つめてるかなちゃんを見て思いついたんだから、仕方がない」
遥のせいにされた。納得いかないが反論もできない。
「いや、びっくりしました」
後藤教授が興奮した様子で話しかけてくる。
先ほどまでの淡白な様子とは一変している。悪い雰囲気ではない。
「正直、グラビアの撮影と言われてもピンとこなかったものですが、そちらのお嬢さんもカメラマンのあなたも素晴らしい」
「お褒めにあずかり光栄です」
「恥ずかしながら、私を含めてウチは社会に出たことがない者ばかりで……こうして第一線で活躍されている方の仕事を拝見すると、何と言いますか、こう、刺激があります」
『坂本君も、いい人たちと仕事ができているね』
既に自身の手を離れたとはいえ、教え子のことを気にかけているようだ。
教授にそう褒められた坂本はまんざらでもない模様。
それにしても、これまであまり口数が多くなかった教授がえらく饒舌である。酒のおかげか。
チラリと横に目をやると、各務原もまんざらでもない様子。
裕子が上着をかけてくれた。夏の夜、焚き火があるとはいえ、水着だけではさすがに心許ない。
明日も撮影があるのだから、体調管理には万全を期すべきだ。悪い気はしないが、男性陣の視線もあるし順当か。
その後もしばらく歓談が進み――
「それじゃ、そろそろ寝るとしようか」
「そうですね。私たちは――」
「明日、朝から撮影ね」
「ですね」
程よく酒が入った一同は解散というところで、
「あの」
ここまでほとんど押し黙っていた深月が声をあげた。
「私、ロッジの方に泊めてもらうことってできませんか?」
突然の提案だった。
この発言に顔を見合わせる遥と裕子。
「う~ん、まぁ、ベッドは空いてるけど……」
ロッジの中にベッドは3つ。
男性陣の方は埋まっているが、女性陣の方はひとつ余っている。
可能か否かと問われれば、可能である。
「すみません、さっきテントの方で休んでたんですけど、どうにも眠れなくて……」
「深月!」
教授の叱責が孫に飛ぶ。
「まあまあ教授。私たちは別に構いませんから」
「そうかい? 悪いね。孫が迷惑かけてしまって」
「いえいえ、そんなお気になさらず」
実際大した問題でもない。
了承すると、深月は女性陣のテントから荷物を抱えてやってきた。
「それでは改めて、おやすみなさい」
「「おやすみなさい」」