第5話 撮影開始!
鬱蒼と生い茂る森の中、木漏れ日を頼りに固く踏み固められた道を北進すること20分ほど。
山間部独特の清涼な空気と緑の香り、そよぐ風に揺られる木々のざわめきの向こうから、清らかな水の流れる音が聞こえてくる。
視界が広がり一行の前に姿を現したのは、ゴツゴツした岩と小さな石が転がっている渓流。
程よく緑が散見されるその光景は、しばしばテレビでレポートされる『自然』そのものだった。
「うわぁ」
遥が思わず感嘆の声を口から零す。川べりに近づくと、透き通った水が纏わりつくような暑気を払う。
ゴロゴロとした石だらけの底まで遮るもののない川の流れをよくよく眺めてみると、魚らしき影がちらほらと見受けられる。
目に涼しくて耳にも涼しく、もちろん肌にも涼しい、そんな空間であった。
「うわぁ、うわぁ!」
胸の奥から溢れてくる感情のままに年頃の少女らしい姿を見せる遥。その立ち居振る舞いに一同は頬を緩ませる。
普段の遥が見せる笑みは柔らかいがどこか作り物めいているが、今の遥が見せる笑顔は違う。
自然で溌剌とした表情は、ただそれだけで絵になるほどに魅力的。おそらく、気づいていないのは本人だけだろう。
咄嗟にシャッターを切った各務原は流石である。
「あとから魚釣りにもチャレンジしてみる?」
「いいんですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます!」
遥は釣りの経験がない。
グラビアアイドルとしてデビューするまでは、そもそも海にも川にもあまり縁がない生活を送っていた。
テレビやインターネットの動画配信で見たことはある。キャンプに行くにあたって、もう一度リピートした。
面白そうだとは思っていたものの、今回はグラビア撮影の仕事。
実際に体験できるとは考えていなかったので、各務原の提案にすっかり舞い上がってしまっている。
「さて、お姫様のテンションが上がってきたところで撮影始めようか」
「は~い、よろしくお願いします」
裕子から借りていた上着を脱ぎ、軽くストレッチを始める。
各務原は柿本と坂本に指示を出して機材を設置。
裕子は休憩用のスペースを確保している。
そして5分ほど経過。程よく暖まった肢体を爽やかな風が撫でる。
「よし、それじゃ始めよう」
「よろしくお願いします!」
笑顔で一礼。木漏れ日を受けて柔らかくきらめく黒髪がサラサラと流れる。
夏の山、大自然の中での撮影が始まった。
★
どれだけ予習をしてみても、実際に撮影が始まってみないとわからないことはあるものだ。
まず、普段と異なるフィールドに慣れるのに時間がかかった。取り立てて不快と言うわけではなかったのだが、どうにもノリが悪い。
穏やか過ぎる周囲の環境に戸惑いを覚えてしまう。同じ自然でも海とはかなり感覚が異なる。
撮影班が少人数編成であることも関係しているのだろうが、とにかく静かでのどかな空間であり、人目がない。なさすぎる。
おかげで、撮影が始まってからしばらくは『もっと上げていこう』と何度も各務原から声が飛んだ。
基本的に一度言われたことはすぐに理解・対応する遥にしては珍しく、意外と苦戦している。
清水流れる川沿いを散歩するように何気なく歩き、ふいに森の奥に視線を飛ばす。
どうにもグラビア撮影という感じではない。気付かないうちに首を傾げ、自分自身でダメ出ししてしまう。
各務原も遥の不調を感じている要だが、今のところは軽い感覚でシャッターを刻んでいる。
しばらくして休憩。
「どう、調子は?」
「う~ん」
身体を冷やさないよう上着を掛けてくれる裕子に、どう答えたものか迷う。
イマイチ気分が乗ってこないというのは、傍から見ていてもバレてしまっているだろう。
しかし、弱音を吐くのは遥の矜持に関わって来る問題だ。
企画に乗ってここまで来ておいて『できません』では済まされない。
「困ったときは各務原さんに頼ればいいと思うわ」
「え?」
信じられないことを耳にした気がした。先輩の言葉に思わず問い返す。
自分で考えることを止めてしまうのは、職務放棄に繋がるのではないかという危惧があるから。
各務原は厳しい人間だという話をしばしば耳にする。遥の前ではそんな素振りは見せないが、油断して見捨てられたら……と言う不安もある。
そんな遥の内心を正確に読み取った往年のグラビアクイーンは、
「最初から全部自分でやろうと思わなくてもいいの。グラドルの気分を上げていくのもカメラマンの仕事だし」
言い方は悪いが、各務原は女性の扱いにも慣れている。その辺りはお手の物だと裕子は続ける。
「もちろん、何から何までお任せはダメよ」
「ですよね」
「ただ、誰だって常に100%のパフォーマンスを出せるわけじゃないし、そういう時はほかのスタッフに助けてもらうくらいでいいの」
「そうなんですか?」
裕子の言葉は意外な感じがした。
世にグラビアアイドルは数えきれないほど存在する。
極論してしまえば簡単に『替え』が利くわけで、やる気のない態度を見せたり、わがままを言ったりすると仕事を失いかねない。
そんな強迫観念に近い感情を胸に秘めたままデビュー以来励んできた遥には、にわかに信じられない意見だった。
とは言うものの、裕子が遥に嘘をつくメリットは何もない。
「ほら、見て」
裕子が指し示す先には――各務原の姿。
撮影が思うように進んでいない割には――
「各務原さん、別に怒ってないでしょ?」
「ええ……」
春に行われたAプロ主導の企画を思い出す。
あの時もカメラマンとして参加した各務原は、スケジュール通りに進まない現場に機嫌を害していた。
ほとんど無言で威圧するような空気を醸し出していたあの男が、今はそれほど不機嫌なようには見えない。
わざわざ遠出したうえに肝心の遥が上手くできていないというのに。
「あの人も業界長いから、その辺りのことはちゃんと心得てるってこと。ただ――」
「ただ?」
「あんなに機嫌いい各務原さん、初めて見るかも」
「え?」
「かなたちゃんのことが相当気に入ってるんじゃないかな?」
そんなことを前にも言われたような気がするが、特に各務原と何かあったわけでもない。
写真集を出すなら自分が撮りたいというようなことを口にしていた。リップサービスと言うわけではなかったのか。
各務原がなぜ自分に執着するのか、その辺りがどうにも理解しがたい。
別にグラビアアイドルは遥だけというわけでもないのに。
「ま、だからと言って調子に乗らないように」
長い指でおでこを軽く突かれた。
「肝に銘じておきます」
「よろしい。素直で賢い」
やんわりと頭を撫でられる。何と言うか年の離れた姉妹のような感覚。
高遠家は娘と息子で子供は二人。
常に長女として、年長者として扱われた来た遥にとって、姉のような存在は初めてのこと。
そう思えることが何だか嬉しかった。胸の中が少しずつ暖かくなってくる。
「早いけどお昼にしようか?」
そう声をかけてくる各務原に、
「すみません、その前にもうちょっとだけカメラお願いしていいですか?」
遥の返事にきょとんとした表情を浮かべたカメラマンは、すぐに気合の入った笑顔を浮かべた。
「ああ、もちろん!」
★
再開したあとは、当初の戸惑いが嘘のように順調に進んだ。
同じ川を歩くにしても、来たばかりの時とはひとつひとつの動作が全く違う。
手足の動きや軽やかに舞う黒髪、表情豊かな指先。素人が見てもわかるくらいに目覚ましい変化を遂げている。
好調なまま昼食を経て、午後も川沿いで撮影が続いた。そして――
「じゃあ、お待ちかねの魚釣りに行ってみようか」
用意された釣竿を手渡される。
遥の背丈よりずっと長く、そして細い竿。
見た目よりは軽く、手になじむ。
「餌はこちらになります」
柿本が差し出してきた物を見て驚く。
「これ、イクラ?」
柿本が黙ってうなずく。
小さなパックに詰め込まれているのは赤黒く色ずんだ小さな珠。
軍艦巻きの上に載っているアレだった。
高遠家では廻る寿司屋かスーパーのパック寿司でしかお目にかかることはない。
「贅沢ですね」
思わず川の中の魚に目をやりつつ本音を漏らす。
弟の希がイクラを好んでおり、寿司が出てきたときは大抵交換してやっている。
『イクラ』と『カッパ巻き』のトレードは弟に好評である。
「……虫の方が良かったですか?」
柿本の言葉で、遥の脳裏に白いぶよぶよが蠢く姿が想起されてしまう。
「いえ。いいですね、イクラ。よく釣れそうです」
即座に前言を撤回する。
年頃の乙女らしく、虫の類を触るのは嫌いだ。台所で某虫を見かけたら弟を呼んで戦わせる。ひとりの時は自室にこもる遥である。
G以外の虫もおおむね苦手だ。余計なことを口にするとロクなことになりそうにない。触るなんてもってのほか。
釣り針にイクラをつけてもらって、柿本に教わった通りに投擲。そして沈黙。
しばらく川べりで立って竿を構えていたけれど、全く魚がかかる気配がない。
これは長期戦になると考え直した遥は、そのまま腰を下ろした。
白いお尻に感じる河原特有のぬめりは苔のものだろうか。この水着の撮影はこれで最後だから、多少汚れるのは構うまい。
――ここって洗濯とかできるのかしら?
2泊3日とは言え汚れた水着や汗臭い服を放置したままというのはいかがなものか。
脳裏によぎった年頃の乙女らしい悩みは結論が出なさそうなので、後回し。
水面に差し込まれる、すんなりと伸びた長い足。その先端から涼を感じる。
――夏だなぁ。
流水のせせらぎが耳に涼しい。
差し込む陽光のもとに晒された肌を撫でる風も、足を遊ぶ川の水も心地よい。
釣りも撮影も忘れて、思考がこの特別な世界に融けていくような感覚。
「あ、椅子持ってこようか?」
不意に三上がそんなことを言う。休憩用の椅子は持ち運びも容易。
角が丸くなっているとはいえ、岩の上に座らせるのはとの思いからの提案だったようだが、
「いや、このままでしばらく」
各務原は三上を押し止め、カメラを構えてシャッターを切る。
その音を聞き咎めた遥が尋ねる。
「こんなところ写真に撮るんですか?」
何の動きもなく、ただ自然に浸りきっているだけの姿。
そんな自分が絵になるのだろうかという疑問。
「ああ、面白いだろ?」
「……お任せします」
各務原の言っていることはイマイチよくわからなかったが、ベテランカメラマンの感性を信じることにする。
しばらく竿を上下させてみるも反応はなく、一度釣り針を戻してみると餌がなくなっている。やられた。いつの間に。
餌をつけてもらって再度投下。その間も柿本と坂本は各務原の指示に従ってレフ板をあっちにやったりこっちにやったり。
静謐な森に響くシャッター音。順調(?)に撮影が続く中、何度目かのチャレンジの末――釣り竿から未知の振動を感じた。
勘違いかと思わせる程度の微かな違和感は、しかし確かに細長い釣り竿から伝わってきて。遥の胸がドキリと跳ねる。
「あ、あれ?」
「お、来た?」
慌てて掴みなおした竿の揺れに戸惑う。
魚がかかった後、どうやればいいのだろう?
釣りと言えば手元でリールをぐるぐる回す絵が思い浮かんだものの、この竿にそんなものはついていない。
初めての経験に混乱する。事前に予習していないアレコレに対する咄嗟のアドリブはあまり得意ではない。
「慌てなくていいから」
「は、はい!」
――慌てない、慌てない……
「慌てない、慌てない」
勝手に口から呪文のように唱える声が出た。すでに焦っている証拠だ。
迷彩色に覆われた大きな胸に左手を当てて、大きく息を吸って、吐く。深呼吸。
再び両手で竿を立てて、慎重に獲物を引き寄せる。興奮のあまり顔が熱気を孕んでいる。
緊張しすぎて呼吸が止まり、そして――水面が爆ぜた。
「釣れた……」
川から引き揚げられた釣り針にかかっていたのは、さほど大きくもない魚。
いや、小さくはないのだろうか? イマイチ基準が判然としない。
――これは……確かヤマメだっけ?
魚の姿なんて本やテレビで何度も見たし、スーパーで目にすることもある。
それでも今ここで自ら釣り上げた魚を目の当たりにすると、胸の内からこみあげてくるものがある。
「釣れた、釣れました!」
あふれてくる喜びのままに振り返ると、すかさずシャッター音。連続。フラッシュの嵐。
いつの間にか間近に接近していた各務原がそこにいた。もちろんカメラを構えたまま。
「いいねいいね。その自然な表情!」
「え、あ、ちょっと……」
「キャンプ場で撮影なんてどんなもんかと思ってたけど、これだけでわざわざ来た甲斐があるよ」
ひとしきり撮影を終えた各務原が満面の笑顔でそんなことを言うと、坂本が『報われた』と言わんばかりに頷く。
財布が厳しいT社が打ち出した奇策が功を奏した。各務原が満足したということは、いい写真が撮れたということだろうから。
「それで、この魚はどうすれば……」
不意打ちのような形で写真を撮られたことは――まあいい。
おかしなものにはなっていないはずだ。各務原を信じよう。
それよりも今は――
糸の先でビクビクと震える魚を見つめながら呟くと、
「針を外してこちらへ」
あらかじめ魚籠を用意してくれていた柿本が近づいてくる。
いったん釣竿を置いてヤマメの口元に手を寄せて慎重に針を外し、
「あ」
ぬめり気のある魚体が遥の白い手を滑り、そのまま川へダイビング。
「あ……ああ、あれ?」
水面に姿を消したヤマメを追いかけようと手を伸ばして川の中へ足を踏み入れ、バランスを崩す。
いつも撮影に使っているスタジオではないのだ。足場は元々あまりよろしくはない。
ゆえに、この結末は――ある意味必然。
「あ、ちょっと待って……きゃっ!」
咄嗟に身体を後ろに引くも、そのまま遥も川にダイブ。盛大に水しぶきが宙を舞う。
幸い水深はそれほどでもなく、特に怪我をすることもなかったが、釣果はゼロに、全身はずぶ濡れに。
「んもう!」
尻もちをついたまま背後に手をつき、濡れて顔に張り付いた髪を掻き上げる。
見事な凹凸を誇る艶のある肢体を幾筋もの水滴が駆け落ちる。
そこに更なるフラッシュ。
「あ、各務原さん! 駄目です。メイク崩れちゃう!」
「水に強い奴使ってるから大丈夫よ~」
暢気そうな裕子の声と絶え間ないシャッター音。
零れる笑みに森が湧いた。
本日の更新はここまでとなります。明日には死体が転がるはず!