第3話 香澄山キャンプ場
夏休みを目前に控えた土曜の早朝、まだ日も昇らないうちから都内のT社に全員集合。車に揺られること数時間。
いまだ目覚めぬ街を越えて緑が生い茂る山に入り、休憩を挟みつつ対向車の少ない道路をひた走り、一行はようやく目的地である『香澄山キャンプ場』にたどり着いた。
車から降りた遥は大きく背伸びをして思いっきり息を吸い込む。
内側から上着を盛り上げていた豊満な胸がいっそう膨らみ、都会のそれとは全く異なる清涼な空気が体内に満たされる。
喧騒とは無縁の静謐な森は、しかし耳をすませば様々な音を奏でていることに気付かされる。
風に揺れる木の葉。遠くに聞こえる鳥のさえずり。川のせせらぎ。
余人が足を踏み入れることをためらわせるような、どこか荘厳な雰囲気に満ちている。
「ここからは歩きです」
車を運転していた坂本が降りてきて告げてくる。
彼の後ろには、老年にさしかかったひとりの男性が付き従っている。
灰色の頭髪に細身の体。顔に刻まれた皺が歩んできた人生を感じさせる。
外見とは裏腹にその歩調は確かなもの。表情は穏やかで、どことなく嬉しそうにも見える。
「そちらは?」
「私は岩崎と申します」
このキャンプ場の管理人であると続けた。
「『空野 かなた』です。このたびは撮影にご協力いただけるとうかがっております」
どうかよろしくお願いいたします。
丁寧に頭を下げると、岩崎は柔らかな笑みを浮かべた。
その表情は、世の大半の男性が遥に向けてくる下心丸出しのものと違い、どこかしら透明感がある。
山と向かい合い、森の中で暮らす。世俗と切り離されたようなこの空間に相応しい佇まいだった。
「これはこれは、どうもご丁寧に」
それではロッジまで案内しますので、ついて来てください。
車から荷物を下ろした一同は岩崎の後を追うように森に足を踏み入れる。
管理人曰く、駐車場からキャンプ場――実際にテントを張ったりするための広場まで山道を30分くらい歩くらしい。
すっかり明るくなっている今ならともかく、夜にひとりで出歩くのは危険なので控えてほしい。そう注意を付け加えた。
「かなたさん、荷物を持ちましょうか?」
遥にそう申し出てくる柿本は、一行の中で一番多くの荷物をすでに背負っている。
日頃持て余し気味の体力を存分に振るう機会を得たせいか、いつもよりも3割増しに快活な印象を与える。
幅広の額に浮かぶ汗すらきらめいて見えた。実に生き生きしている。
「いえ、自分の分は自分で持ちますから」
見回せば他のメンバーも自分の荷物は自分で背負っている。
この状況で遥だけが柿本に甘えるのは申し訳ない。
そもそも遥の荷物はそれほど多くはない。
2泊3日の衣服と撮影用の衣装(大半は水着)、あとは身の回りのものぐらい。
小説執筆は昨日までで一区切りつけているため、ノートパソコンすら持ってこなかった。
インターネットはスマートフォンがあれば事足りる。
キャンプ用のアレコレはすでに柿本の背に乗っかっているので、遥の荷物が一番少ない。
「向こうについたら撮影に入るし、かなちゃんは体力残しといた方がいいよ」
そんなことを言う各務原もそれほど荷物を抱えているわけではない。
バックパックと撮影用のカメラぐらい。足取りも軽い。
インドア派のイメージがあったが、体力はそれなりにあるようだ。
必要となる撮影機器については、一度キャンプ場についてから坂本と柿本が車に戻って持ってくることになっている。
駐車場からロッジまでは結構距離がある。徒歩で30分も山道を行くとなると実際の距離はどれくらいなのだろう?
柿本曰く、キャンプサイトに車を直付けできたるキャンプ場もあるらしい。遥にとっては初耳であった。
わざわざ荷物を運ぶ手間が省けるに越したことはないが、排気ガスをまき散らしながら大きな車を乗りつけるとなると、環境への配慮などの問題が出てくる。
様々な理由を考慮すると、どちらが優れていると言うわけでもないとのこと。
「いえいえ、これくらい……」
「まあまあ、こういう時はお世話になっときましょ」
などと言う裕子はさっさと柿本に荷物を手渡している。
柿本も特に気にした様子はない。
「ほら、かなたさんも」
そこまで言われたら、断る方が悪い気がしてくる。
背負っていたリュックを柿本に渡すと、身体が軽くなった。
申し訳ない気持ちがする一方で歩みが軽やかになるのも事実だった。
「一応道はありますけど、足元には注意してくださいね」
先頭を行く岩崎の助言に従うことにする。森のプロのお言葉である。
歩きながら森の様子を窺ってみると、背の高い木々の間から差し込む木漏れ日と微かに漂う霧が幻想的だ。
思わず感嘆のため息が漏れる。テレビで見るのと実際に歩いてみるのは大違いだ。
「かなちゃんはキャンプ経験は?」
「いえ、初めてです」
生まれも育ちも東京で、共働きの親はキャンプどころか旅行にもあまり連れて行ってくれなかった。
高遠家にとって一家揃っての遠出と言えば、それは祖父母の家への帰省を意味する。
祖父母の家は東京から遠く離れた――と言っても関西の大都市・京都の街中なので、自然がどうこうという感じではない。
高遠姉弟は生粋の都会っ子であった。
「こういう所ってどう?」
「楽しみです」
即答する。
昨夜の睡眠時間が足りていないのは、唐突に湧いた小説のアイデアのせいだけではない。
遠足前日の小学生よろしく、今日が待ち遠しくて仕方がなかったのだ。子供か。まだ15歳だ。
本屋やブティックなど街を歩き回るのも楽しいが、こういう所で自然に触れるのも同じくらいワクワクする。
「弟にものすごく羨ましがられましたよ」
「かなたちゃん、弟さんがいるんだ?」
「だったら弟君も連れてくればよかったのに」
「またまたそんな……」
今回はあくまで『空野 かなた』としての仕事。
そこに便乗して家族サービスをするなんて、公私混同も甚だしい。
「別に構わなかったですよ?」
裕子、各務原、坂本の言葉に奇妙な間が開いた。
「……柿本さん、このことは希には内緒で」
『仕事だからダメ』の一点張りで弟を置いてきた姉であった。
柿本は苦笑して頷き、
「希君も連れて、また来ましょう」
「そうですね。今回は姉として現地の下見をするということで」
★
山道を歩くこと30分ほど。道中で何度かスマホの時刻表示を確かめた。
歩くだけでも意外と消耗する。意地を張らずに柿本に荷物を渡してよかった。遥は内心で胸をなでおろした。
そしていよいよ一行の視界を遮っていた森が開けた。陽光を遮っていた緑の天井が消え、伸び気味だった足元の緑が浅くなる。
まず『広い』と感じた。目測ではあるが、遥が通っている高校の校庭くらいの面積だろうか。
広場には芝生だけでなく土が露出した場所もがあり、2棟のロッジが奥に見える。ロッジは木製の板張りで周囲によく馴染んでいる。
「へぇ~」
思わず感嘆のため息が出た。
豊かな自然が程よく人の手によって管理された、まさに遥の脳内イメージ通りの光景であった。
『大自然』といっても、テレビで目にするようなジャングル――2泊3日の間生活するだけでも大変そうな場所は御免被りたい。
まぁ、事前にホームページ等でチェックはしていたが、いざ自分の眼で現地を見ると、また特別な感慨が催してくる。
「みなさんはあちらのロッジを使ってください」
岩崎曰くロッジにはベッドだけでなくシャワー付きの風呂もあり、電気も水道も完備とのこと。
部屋割りについては特に悩むことはなかった。必然的に女二人、男三人でひとつのロッジに泊まることに。
奇しくもこの撮影班一行は全員未婚者である。不埒な真似をする者は……まぁ、いないだろうが。
「てっきりテントに泊まると思ってました」
「テント泊も楽しいけど、今回は撮影があるからね」
各務原の言わんとするところは理解できる。ちょっと残念だが仕事が第一。
ルックス命のグラビアアイドルにとってコンディションの調整は重要だ。
慣れないテント暮らしで体調を崩しては元も子もない。
そもそも着替えやメイクに苦労するような場所では企画が成り立たない。
「水場はあっちです」
ロッジから離れた場所を岩崎が指し示した。
プレハブの屋根と柱。コンクリートで固められた一画には蛇口が見える。
緑と茶色のフィールドの中にあって、やけに人工的――と言うか灰色が目立つ。
「結構離れてますね」
「ロッジの中には水道があるしね」
水場は主に広場でテントに泊まる客が使うとのこと。
遥たちが利用することはあまりなさそうだ。
「東に行くと大きな湖が、北に行くと川があります」
渓流釣りもできますよ。
岩崎の言葉に目を輝かせる柿本。
「釣りですか……」
そう呟いた遥の瞳も、キラキラと輝いていた。
本人は気づいていない。
「かなちゃん、やったことは?」
各務原の問いに遥は首を横に振る。頭の動きに合わせて髪が流れる。
とことん自然と縁のない暮らしぶりの女子高生である。
いや、別に珍しいわけではなかろう。
むしろ釣りに親しむJKの方がレアなのでは?
そんな疑問が遥の頭によぎった。
「あとでやってみますか?」
「え?」
「釣り竿の貸し出しもやっていますから」
にこやかな岩崎の話を聞いていると、仕事でここに来たことを忘れそうになる。
どうにもテンションが上がり気味な遥だった。
「渓流で釣りをするかなちゃん……面白そうだね」
各務原は釣りそのものよりも釣りをする遥に興味があるらしい。
グラビアアイドルと写真をこよなく愛する各務原らしい言葉である。
遥としても異存はない。いつもと違う体験をするためにやってきたのだから。
目新しい企画に各務原の腕前が加われば百人力。むしろドンとこいと胸を張りたい。
付け加えるならば――新しい経験は新しい発想を生む。小説のネタに使えるかもしれないから一石二鳥。
「それじゃ、みんなロッジに荷物を置いてきて。撮影の準備を始めよう」
遥はロッジの中で水着に着替えて裕子に身づくろいを整えてもらうことに。
柿本と坂本は駐車場に戻って撮影機材の準備。
各務原は撮影場所の確認。
集合は一時間後。
「自分たちは一度戻りますので、あとはよろしくお願いします」
「は~い」
「あ、それと皆さんにひとつお願いが」
色めき立つ一向に管理人からひと言。
「なんでしょう?」
「森の中に入るときはくれぐれも注意してくださいね」
道があるところ以外は危ないですから。
終始和やかだった岩崎だったが、最後だけは厳しい表情を浮かべていた。
★
キャンプ場での撮影と言う企画にあたって遥の頭を悩ませていた問題がある。
『山にあう水着とは?』
これだ。これが問題だ。
水着と言えば普通は海あるいはプールをイメージするが、今回のロケ地は山。
そびえ立つ山、木々が生い茂る薄暗い森と水着のイメージがどうしても結びつかない。
それとなく高校の友人や弟に尋ねてみたものの結果は芳しくない。
スタッフ(裕子)が用意してくれるという話は聞いていたものの、自分で何も用意していかないというのもよろしくない。何と言うか沽券にかかわる。
さんざん悩んだ末に選んだのは――
「ふ~ん、迷彩柄のバンドゥか~」
服を脱いで水着に着替えた遥を見た裕子の声。
バンドゥとはブラが横長の帯状のチューブトップ型の水着である。
遥が選んだ水着は肩紐がなく、真ん中あたりに穴が開いている。
上から見ても正面から見ても、自慢の深い胸の谷間が強調される。
ボトムスは左右で結ぶ形になっている。布面積は小さめ。
「どうですか、裕子さん?」
「ん~、バンドゥって胸が小さい子に向いてる感じだけど……」
上から下まで舐めまわすような視線を向けてきた元グラビアクイーンは、
「うん、大丈夫。エロ可愛い」
大先輩から合格点をもらってホッと胸をなでおろす。
「それじゃ髪とメイクやっちゃうから、こっち座って」
木製の椅子に腰を掛けると、裕子の手が遥の肌を這いまわる。
さして時を置くことなく、
「こんな感じでどうかな?」
「おお~」
鏡の中の遥の出来栄えは文句のつけようがないほどに素晴らしかった。
普段お世話になっているメイクさんと比べても遜色ない……どころか、裕子の方が腕前があるように見える。
「凄い……」
「持ってこれる荷物が少なかったから、メイクは軽めにしたけど……」
「あ、私いつもあまりメイクしてないんで」
「やっぱり」
「わかります?」
「ええ、かなたちゃんの写真は何度もチェックしたもの。元の素材がいいからあんまり手を加えない方がいいよね」
「お褒めにあずかり光栄です」
伊達に『ビューティフルコーディネーター』などと名乗っているわけではないらしい。
「水着、一応私の方でも何枚か用意したから、あとで合わせよう」
「はい」
かつてのグラビアクイーンがどんな水着を用意してくれたのか、いまだ駆け出し気分が抜けない遥にとっても興味がある。
何事も日々精進。偉大な先達から学べるものがあるなら、積極的に取り入れたい。
「さ、みんなが戻ってくるまでに髪もやっちゃうわよ」
「お願いします」
★
準備を整えてロッジを出るとちょうど各務原が戻ってきたところだった。
遥を見るなり口笛を吹いて容姿を褒め称える。
「いいね。さすがかなちゃん」
「裕子さんのおかげですから」
「各務原さんにOK貰えてホッとしたわ」
グラビアアイドル本人でなくとも、各務原チェックは緊張するようだ。
「裕子さんの写真集、確か各務原さんが手がけられてましたよね?」
「ええ、かれこれ10年近い付き合いになるわね」
懐かしむような眼差しで遠くを見やる裕子。
年齢を逆算するのは止めておくことにした。
「それで、撮影はどこで?」
過去の回想を振り切った裕子が尋ねると、
「とりあえずこの辺、森の中、あと川の方はどうかな?」
「森の中ですか?」
先ほどの岩崎の言葉が気になるところ。
「心配しなくても、あまり深いところには入らないよ」
「場所ごとに水着を変えた方がいいかな」
裕子が用意してくれた水着は遥の眼から見てもなるほどと唸らせられるような物ばかり。
この辺りは経験がモノを言うのだろう。未熟な若手としては格の違いを感じさせられる。
その間にも各務原は首から下げていたカメラを遥に向けて何枚かシャッターを切っている。
「こんな感じだね」
「ふむ……」
デジカメを覗き込むと、遥の白い肌に迷彩柄と森の緑が映えている。
「緑と緑が被ってますね」
「迷彩だからね」
言われてみればその通り。なぜ気が付かなかったのだろう。
迷彩柄は、もともとターゲットの視線を欺くためのカムフラージュ。
山と言われて安直に決めてしまったのは失敗だったかもしれない。
……弟が見ていたサバゲーの動画が悪い。
「でも、撮影場所を選べばむしろ肌の部分が際立つかもしれない」
「水着が見えない感じになると面白そうよね。水玉コラみたいに」
「錯覚を利用した奴?」
各務原と裕子が互いに意見を交わし合っている。息がぴったりだ。
遥は会話を拾い続けるだけでやっとの状態。カリスマカメラマンとかつてのクイーン、どちらも業界トップクラスなのだ。
「さて、あとの二人は……あ、来たわね」
「ようやくか。早く撮影を始めたいんだが……あれ?」
キャンプ場の入口の方に目をやった各務原の怪訝な声。
追いかけるように遥もそちらに目を向けると、機材を抱えた柿本と坂本――の後ろに大勢の人影が見えた。