第15話 ひとり足りない
「メイクは擦ると服についちゃうから注意してね」
裕子が深月に施すレクチャーを横で聞きつつ、昔は自分もその辺りのことがわからなくて色々失敗したなと頷く遥。
深月は今までメイクに手を付けたことがないようで、裕子の助言をひとつひとつスマホに入力していく。
その手つきはなかなかに素早い。さすが現役の女子中学生だと感心する。そんな遥もまだ女子高生で、たったひとつ年上なだけなのだが。
「しかも服――特に白い奴にファンデがつくと落とすのが面倒で。いきなり水で洗ったりしたらダメよ」
「え、そうなんですか?」
深月が戸惑うのも無理はない。汚れたら洗えばいいなんて軽く考えていると痛い目を見ることになる。
実際えらい苦労をさせられた人生の先達がすぐ傍にいる。恥ずかしいので口にはしないが。
――私の時も裕子さんみたいな人に教えてもらえてたらなぁ……
過ぎ去った過去に思いを馳せていると、茂みがガサガサと鳴る音がする。
撮影班は広場に集結している。鑑識の方々も遥の見知った顔は全員揃っている。
つまり――音の主は、今ここに居ない誰か。
ごく自然にいまだ見つかっていない『容疑者X』の存在を想起させ、緊張に身体を強張らせる一同。
刑事である小川と、体力に自信がある柿本が前に出て構える。
しかして広場の東、湖に続く道から姿を現したのは――
「キャ―――!」
広場に響く女性陣の悲鳴に、遠くで屈みこんでいた鑑識官がすわ何事かと立ち上がる。
男たちは――目を丸くして呆れている。
森の中からやってきたのは見覚えのある人影だった。一瞬ホッとした。
矢生と芦田。いずれも名桜大学後藤ゼミに所属する男たちである。
それはいい。問題は――
「なんで服を脱いでるんですか!?」
遥の言葉どおり、二人の男は上半身が丸裸だった。半裸男s!
健康的に日焼けした矢生の引き締まった身体も、少し腹の出た矢生の白い身体も余すところなく白日の下にさらされている。
とは言え、一応下半身は隠されていたが。
下まで裸だったら、即座に警察を呼ぶところだった。否、警察ならここに居た。
どっちにせよ猥褻物陳列罪でしょっ引いてもらいたいくらいである。
矢生はあまり山歩きに向いているように見えない、ぶかぶかのズボンを履いていた。
そのポケットに突っ込んだまま、矢生は肩で風を切るように近づいてくる。なんでそんなに自信満々なのか。
その姿を目の当たりにした深月は両手で顔を覆い、裕子はわずかに頬を染めていた。眼の光が怪しいがそれは黙っておく。
「いやぁ、悪い悪い。ずっと山道を歩いていたら暑くって、つい……」
脱いだ上着を腰に巻き付けた矢生が頭を掻いて笑う。
悪びれないその表情は、どこかすでに亡くなった池を思い出させる。
芦田の方はモジモジしながら俯いていた。そんなに恥ずかしいなら服を着ろと言いたい。
見苦しいことこの上ないが、開き直っている矢生よりはマシ。
どっちにせよデリカシーがなさすぎる。ここには女性もいるというのに。
「もう汗だくで。上着なんて……ほれ、このとおり」
腰から上着を取って絞ると、汗と思しき液体がボタボタと垂れていく。
ハッキリ言って汚い。矢生の後ろで芦田も引いている。
「は、早く服を着てください!」
「はいはい、ちょっと失礼しますよっと」
絞った上着を肩にかけた矢生が先導する形で、撮影班の間を縫うように二人は自分たちのテントに入っていく。
マイペース過ぎるその後ろ姿を目で追いながら、
「あんな人たちだったなんて……」
池ばかりが目立っていたおかげで今まで気にならなかった男たちの姿に、ゲンナリとする遥だった。
名門私立として名を馳せている東桜大学のゼミ生というから、もっと知的な人柄を想像していたのに残念過ぎる。
★
「服着てないって空野さんに言われても説得力がない」
などと失礼なことを口走った先を睨む撮影班一同。
視線の圧に耐えられなくなった矢生は誤魔化すように下手な口笛を吹いた。
仕事で肌を見せているグラビアアイドルと、森で突然服を脱ぎ出す大学生を一緒にしないでほしい。
矢生たちがキャンプ地に戻って来る前の段階で、今日の撮影スケジュールは消化されていたので、遥は部屋に戻って服を着ることにした。
水着の上からチェック柄のワイシャツを羽織り、山でも歩けるように動きやすさを重視したパンツを履く。
サンダル履きを止めて靴下とスニーカーを身につける。露出が下がった分、何だか熱がこもる感じがする。
「深月……」
「お爺ちゃん……」
着替え終わって外に出てみると、化粧が施された深月を見て唸る後藤教授がいた。
傍には一緒に森に入っていたという七海の姿もある。
「変……かな?」
躊躇いがちに口を開く孫娘に、
「いや、とても似合っている。そうか、深月ももうそんな年か……」
感慨深げに溜め息をつく祖父。悪い雰囲気ではなさそうだ。
昨日から見た感じ、後藤教授はあまり堅苦しい人物ではなさそうだったから、多分怒ったりはしないだろうと予想していた。
もし深月の化粧について文句を言うようなら、途中で割って入ろうかと考えていただけに、ホッと胸をなでおろした。
「ご迷惑でしたか?」
実際にメイクしたのは裕子だが、撮影班を代表して遥が尋ねると壮年の教授は静かに首を横に振る。
「この子の両親も私もあまり気を遣ってやれなくてね。空野さんにはお世話になって……ありがとう」
感極まったように遥に握手を求めてきた。普段から孫との距離感が上手くつかめていなかったようだ。
そこまで言われるほどのことかと思わなくもないが、雰囲気を壊すつもりはなかったので皺が刻まれた手を握り返す。
個々の生徒たちについては思うところはあるものの、指導者である後藤教授とは友好な関係を築けている。
「ところで、美空君はどうした?」
教授が尋ねると、
「なんか……しばらくひとりになりたいってメッセージが」
矢生の言葉にスマートフォンを確認するゼミ組。
グループに入っていない遥には見られなかったが、傍にいた深月が見せてくれた。
――――
<名桜大学後藤ゼミ夏キャンプ>(7)
――――
矢生
『あっち~、水飲みてえ』16:09
芦田
『同じく。控えめに言って地獄』16:10
矢生
『もう戻ろうぜ?』16:11
美鈴
『ちょっと考えたいことがあるから、しばらくそっとしといて』16:14
矢生
『あいよ』16:14
芦田
『ひとりで大丈夫?』16:15
美鈴
『うるさい。こっちくんな』16:15
深月
『美鈴さん、早く帰ってきてね』16:15
矢生
『はやく帰ってこいよ』16:15
――――
「あ、ほんとだ」
離れていても容易にメッセージのやり取りができる。
現代技術の発展は偉大だ。
「でも、森の中にひとりって大丈夫なんですか?」
ただでさえ殺人犯がうろついているというのに、警戒心が足りないのではないかと指摘する。
遠回しに、美空だけでなく大学組全員に注意を促したつもりだったのだが、あまり効果はなかった模様。
後藤教授はやれやれとばかりに首を振る。
「美空君にも困ったものだ。これから大仕事が控えているというのに……」
「大仕事?」
あまり首を突っ込むつもりはなかったものの、思わずおうむ返しに尋ねてしまった。
「ああ。池君に任せるつもりだった留学の件、彼女に回すことになってね」
「あら」
初日の川で池が自慢していた件だろう。そんな話を聞いたことを思い出した。
彼が亡くなってしまったために、後任に美空が据えられたということらしい。
おそらく告げられたのは池の死体が発見された直後。
彼女の喜びを押し殺そうとして失敗していたあの笑顔にはそういう理由があった、と。
ゼミの仲間が殺されているのに不謹慎――と責める資格は遥にはない。興味本位で死体を見ようとしただけに。
「ま、美鈴さんは女王様だからね。僕らは逆らえない」
調子のよかった矢生が一転して肩をすくめた。芦田も慌ただしく頭を上下させる。
教授も美空を森に置いてきたふたりに説教するつもりはないようだ。
美空については矢生の言うとおりの扱いが常態化していると見える。
『歪な関係だな』と外部の人間である遥は無責任な感想を抱いた。
「ま、あの人も子供じゃないし。しばらくしたら帰ってくるでしょ」
「だといいんですけど……」
一抹の不安を胸に遥は頷いた。
★
程なくして駐車場の方から坂本が姿を現した。
「随分かかったんですね」
遥の声に若干の険が混じっているのも無理はない。
昼過ぎに別れてから今までずっとである。スマートフォンの時刻は『17:05』を指している。
坂本がキャンプ場を離れたのが『13:15』全後だったから、実に4時間ほど。
仕方がないとわかっていても、企画を立ち上げたT社の人間がずっと現場を離れているというのはあまり良い話ではない。
これが大物グラドルだったりしたら事務所と揉めてもおかしくはないが、『かなプロ』はそこまで立場が強くない。残念。
「すみません……皆さんの分を買い集めてたもので……」
近くのコンビニ(と言っても、ここは山の中なのでかなり距離がある)だけでは物が揃わず、遠くまで足を延ばしていたとのこと。
水だけでなくほかにも色々買い出しを頼んでいた残留組の責任でもある。坂本を責めるのは筋違いか。
「荷物がかなりあるんで、どなたか手伝っていただけませんか?」
「では自分が行きましょう」
身体を動かすことなら任せろと言わんばかりの柿本と、大学組からは矢生が教授に指名されて駐車場に戻る。
何度かの往復を経て、無事に荷物をキャンプ場に持ち込むことができた。
「は~、生き返るわ」
買ってきたばかりのミネラルウォーターをラッパ飲みした矢生の言葉は、この場にいた全員の気持ちを代弁している。
睡眠薬が投入された水はポリタンクごと警察に押収されており、飲み水に困っていたのである。
洗い場から水を汲んで煮沸するという方法もあったが、とにかく暑い。そして量が揃わない。
総勢11人の喉を潤すだけの水を確保するのは手間がかかりすぎる。燃料消費もバカにならない。
また、さすがに湖や川の水を直接飲もうとまでは思わなかった。
ようやく水にありつけた一同は、しばらくの間その潤いを堪能した。夏は真水が一番美味い。
同席していた小川刑事にも勧めてみたが、あっさり断られた。勤務時間中の『饗応』に当たるためだという。
夕方になって涼しくなってきたとはいえ、一日中スーツ姿の刑事は見ているだけで暑くなってくる。
「お疲れのところ申し訳ないんですが、そろそろ夕食の支度をしないと……」
控えめに七海が手を挙げた。スマホの時計は『17:55』を表示している。
夏だけあってまだ空は明るいが、暗くなってから作業を始めるとなると厄介だ。
「ですね。我々も始めましょう」
地面に座り込んでいた柿本が立ち上がり、
「それにしても、美空さん遅いですね」
柿本を見ながら何気なく呟いた遥の声に矢生が頷く。
美空が最後にメッセージを送って来てから、もう1時間半以上経過している。
いくらひとりになりたいからといっても、物事には限度というものがあるだろう。
「確かに、いくらなんでも遅い。ちょっとメッセージ送るわ」
スマホの液晶に指を滑らせた矢生が首を捻る。
「あれ、既読がつかない」
「……ん?」
一同が顔を見合わせる中、動揺を抑えられないのは――小川刑事。
遥はビクッと身を震わせた。まるで背筋に氷柱を差し込まれたよう。一瞬で口の中がカラカラになる。
思わず座っていた椅子から腰を浮かせかけた。
既に服を着ているというのに寒気がする。もちろん風邪などではない。冗談ではないのだ。
「君たち、確かその子と一緒にいたんだったね?」
「ええ、まあ。でも結構時間たってますよ」
「いいから案内して!」
慌ただしく矢生と芦田を急き立てつつ、小川刑事は同僚たちに指示を飛ばす。
「斎藤さんはどうしていますか?」
「一度署に戻ると言って先ほど……」
「ああ、もう、こんなときに!」
頭を掻きむしりつつスマートフォンに指を滑らせている。
斎藤にメッセージを送っているのだろう。
刑事としての勘が、ただ事ではないと告げているように見えた。
「我々はこれから森に入ります。斎藤さんが来たら……」
「私からお伝えします」
「矢生君に芦田君だったね。君らが美空君と別れたところまで案内してもらえるか?」
「教授、どうします?」
どうしたものかと教授にお伺いを立てる男ふたり。
そんな矢生と芦田の消極ぶりに業を煮やしたか、
「警察の方々に協力したまえ」
静かではあったが迫力を内包した重い声が響く。
「わかりました。それじゃ……」
「私もいっしょに行きましょう」
捜索ならば人手が多い方がいい。そう考えた柿本が動こうとすると、
「待って。柿本君はここに居て。もしここに犯人がやってきたらどうするの?」
裕子の言葉に柿本は慌てて遥の方を見やってくる。
美空のことは心配だが、『かなたプロダクション』社長にとっては一にも二にも所属グラドルである『空野 かなた』の身の安全が最優先である。
「僕もここに居るかな。森に入っても役に立ちそうにない」
各務原は居座りを表明。小川刑事と後藤教授からにらまれてもどこ吹く風。
「かなちゃんが行方不明になったら、そりゃ探しに行くけど。美空って子はそちらの問題でしょ?」
正論である。
そして各務原は暗に坂本にも『行くな』と言っている。
教授にも『坂本に命令するな』と牽制をかけている。
自分たちは動くべきではないと遥にも言い聞かせている。
柿本の優しさも、各務原の厳しさもどちらも正しい。
小川刑事は各務原の意見に反論することも、強権を発動することもなく森に入っていった。
そして遥は――
――嫌な予感がする。
それは推理作家としての勘だろうか?
沸き上がる好奇心を振り払う。これは……ごく普通の感性にすぎない。
殺人鬼が潜んでいると思われる森の中に年頃の女性がひとり。
いつまでたっても戻ってこない。明らかにおかしい。
ややあって斎藤刑事がキャンプ場に姿を現した。『18:07』
小川刑事やゼミの男子たち、鑑識の方々が美空を探して森に入ったことを告げる。
斎藤は思案し、所轄署に応援を要請。そして自分も捜索に向かう。
増員した警察がやって来てさらに時間が経過。
サイトでただ待ち続けるだけの遥たちにも緊張が重く圧し掛かる。とてもではないが夕食の準備なんて気分ではない。
小川の号令によって森に入っていった男たちは、程なくして悲報を携えて戻ってきた。
『美空 美鈴』の死体を発見した、と。
悲鳴――それは深月かあるいは七海のものだったか――が、夕暮れを迎えつつある空を切り裂いた。