ドラグ・エスタシオン
<獣>は、牡鹿の瞳を見つめる。若葉のような色をした瞳には、<獣>の姿が映りこんでいた。激しく燃える焔を片手にまとい、<獣>は首を傾げる。
「<終焉>の元には行かなくていいのか。このまま置いては、この星を滅ぼすぞ」
「必要ない」
「この星を守ると、愚直に吠えるお前たちも、仲間の凶行には目をつぶるか」
「…お前がそう思うのなら、そうなんだろうな」
易い挑発には乗らないと、牡鹿は淡々と答えを返す。
「止めないのか」
「止めにきたんだ。お前を」
「俺を?俺は何もしていないだろう」
わざとらしく両手をひらひらと動かしてみせる<獣>に向かい、牡鹿は吼えた。
「花姫を<終焉>に導いておいて。何もしていないとは、どの口で言う」
「この口で」
一瞬、牡鹿の上に影が差す。何が起こったのか、考える前に、牡鹿は跳ねた。高く、高く跳躍する。見下ろせば、先ほど牡鹿と<獣>がいたはずのところに、何やら黒い巨人が飛び込んでくるのが見えた。七色の煙を噴き上げて、巨人は無造作に腕を振るう。
「馬鹿な!」
ひとつの小山が、一瞬で粉塵と化したのを見て、牡鹿は思わず其方へ駆けてゆく。あの小山に生きているはずの動物たちは、一体どうなる!
「おい、無事か!生きているか、お前たち!」
「キュー!」
牡鹿が声を上げると、小山のあった場所から、動物たちの返事が返ってきた。驚くべきことに、彼らは全員無事であるようだった。あれ程の衝撃を受けて、なぜ?
困惑し、足元を迷わせた牡鹿の前で、向かいの山まで吹き飛ばされた<獣>が瓦礫の山を吹き飛ばして起き上がる。紫色の髪をがしがしとかくと、彼は巨人に向けて右腕を上げた。<獣>の焔は四季の手に負えない。
「焼き尽くせ、焔」
「ウ、…」
「樹形図<ーデンドログラムー>!あの巨人を、閉じ込めろ!」
黒い巨人は、牡鹿の見知らぬ命であった。この星の仲間かどうかも分からぬもののため、牡鹿は撥ねた。
樹形図<ーデンドログラムー>の枝が、その呼び声に反応し、凄まじい速度で伸びてくるが、それよりも焔が巨人を包み込む方が早かった。ごう、と燃え盛る炎の中、巨人は身を震わせ、怒号を響かせた。空気を歪ませるほどの熱気の中、牡鹿は必死に巨人の元へと奔る。
「耐えてくれ、耐えろ、きっと、きっと守るから…」
巨人が腕を振り上げる。めちゃくちゃに振り回す腕の先、<獣>はけらけらと笑っていた。命に危害を加えておきながら、何故笑っていられるのか。
このままでは埒があかない、と、牡鹿は空を仰ぐ。凛々しい双角から、雷が天へと昇った。四季は<獣>の焔に抗する術を持たない。
けれど、少しでも焔を小さくすることはできるはずだ。皇帝は、両腕を上げて叫んだ。
「実りの秋、豊かなる恵み、母なる海に今、祈りを捧げん!嵐を此処に---」
響いたのは、皇帝ひとりの声だけではなかった。
「海よ、波よ、風よ、命よ!応えよ、満ちよ、打ち寄せよ!」
最早聞き慣れた、優しく低く響く音は、夏の帝王のもの。高い水の壁を作り、<獣>と巨人を引き離す。そしてーー
「水乙女<ーメルツェー>、闇の王<ーノクターンー>を、焔から守って!」
<ひめさまの、いうとおりー!>
もう一つは、春の声だった。先ほど置いてきた、血染めの姿とはまるで違う。
その腕の中には、ぐったりとした冬の身体があった。はあ、はあ、と浅く早い息を繰り返す冬の体を抱きなおした春の傍から離れた水乙女<ーメルツェー>は歌いだす。半分透けた裸体を長く艶やかな髪で隠した彼女の奏でる旋律に合わせ、冷たい雨が降り出した。ざあざあと降り注ぐ水は、巨人を包み込んだ焔をあっさりと消し止める。そのすきに、樹形図<ーデンドログラムー>の枝が闇の王<ーノクターンー>をからめとり、安全な場所へと匿った。<獣>は額に皺を寄せ、四季をねめつけた。
「帝王、休んだばかりでは…」
「お前たちがこれほど傷ついているというのに、ひとり眠ってはいられないよ」
「花姫、お前も、そんなに酷い格好で…王女に至っては、もう、」
「…」
冷たい王女の体を、抱きしめたまま、春は冷たい唇を引き結び、無理やり口の端を上げて見せた。
「…水乙女<ーメルツェー>にも助けてもらったわ。…でも、でもね。あおいちゃん、私に巣食ったものに、食い荒らされて…闇の王<ーノクターンー>が生まれるときに、身体を裂かれて、…」
「何故、そこまでして。王女は、闇の王<ーノクターンー>を呼んだんだ」
「…わからない、わからないの…」
<私が知っております>
泣きそうに俯いた春の代わりにこたえたのは、ずっと付き従っていた藤の花<ーウィスタリアー>だった。
<王女は、主様に巣食うものを、最初、冥府に送ろうとしました。…けれど、巣食うものは、王女の腹の中から王女を喰らい、王女を反転させようと企てました。王女はそれを拒み、闇の王<ーノクターンー>に、巣食うものを喰らわせたのです>
「…」
「…そうか。<獣>の呪いに抗う手段の一として…だとしても、王女はこのままでは…」
「はは。ははは、やはり。四季とて死からは逃れ得ぬらしい!」
<獣>の片目がぎらりと煌めいた。狙いは、一人では動けぬ冬だ。冬を抱きしめ、春は飛ぶ。
「そのまま、共に斃れるか?」
<させません!>
藤の花<ーウィスタリアー>が短剣を投げると、<獣>は一瞬ひるんだように肩をすくめた。その瞬間、夏が呼んだ海兎<ーラメール・ラパンー>の激しい水弾が降り注ぐ。樹形図<ーデンドログラムー>の中で体勢を立て直した闇の王<ーノクターンー>は、その枝を引きちぎり、再び<獣>の元へと歩き出す。この世の悲痛全てを集めたような声を上げ、彼は<獣>を踏みつぶした。
「あおいちゃん、お願いだから生きて…生きていて…愛しい、私たちの冬…」
四季の首元に飾られた、契約の首輪が酷く冷えてゆく。
冬の首元の鎖が、錆びつこうとしているのだ。
嗚咽しながら、春は必死に彼女の身体へと、なけなしの光を注ぎ込む。それも、一瞬で消えてしまう。冬が召喚した闇の王<ーノクターンー>に、吸い込まれていってしまうのだ。召喚した仲間たちを、この世界に留めるためには、魔が必要だ。その仲間の力が強ければ強いほど、必要な魔力は増えてゆく。普段の王女であれば、容易くまかなうことのできるだろう魔力量も、今、枯渇しかけているこの状態では、担保していられない。
「闇の王<ーノクターンー>、お願い、止まって…<獣>は私たち、頑張るから、お願いだから、止まって…」
空を必死に泳いでいた帝王が、力を失くし、とうとう、鈍い音を立てて地面へと墜落した。海兎<ーラメール・ラパンー>が、消えてゆく。春も夏も、冬も、自分の季節でなければ、十分な力を得ることができない。
帝王の体をどうにか受け止めた牡鹿も、四本足を折り、ぜえぜえと呼吸を繰り返していた。いくら秋とはいえ、猛暑のあとの秋だ。普段と勝手が違う。
帝王と皇帝の傍に降り立った花姫、そしてその腕の中で弱弱しい呼吸を繰り返す王女。
王女を真ん中に、三人は固く抱き合う。
その四季を守るように、樹形図<ーデンドログラムー>は固く、硬く枝を結び合う。
小さなスクラムの前で、剣を構えているのは、透けて消えかかっていた藤の花<ーウィスタリアー>だ。藤の花<ーウィスタリアー>に寄り添い、水乙女<ーメルツェー>は優しく歌い続ける。四季の傷を、少しでも癒そうと、
<この命に代えても、主様を、お守りいたします>
闇の王<ーノクターンー>は、咆哮を上げて<獣>を押しつぶそうと迫る。体中に火傷を負いながら、闇の王<ーノクターンー>は決して一歩を引こうとしない。
まるで、王女のようだった。四季を守るために、星を守るために、あらゆる犠牲を厭わぬ、王女によく似ていた。きっと、王女が死ぬまで、巨人は止まらない。
王女が、それを、赦さない。
「…ならば、私たちも、共に…」
春の言葉を聞いた帝王と皇帝はそっと顔を見合わせ、何も言わずに春の手を握り返した。
四季は、四人で一つだ。誰が欠けても、星を救うことなどできやしない。冬を欠き、<獣>にこの星を完膚なきまでに殺されてしまうくらいならば、たとえ死んでしまうとしても、最後まで、戦うことを選ぼう。
「皇帝、皇女」
「ああ」
「帝王」
「大丈夫だ、花姫」
「…王女」
「……」
物言わぬ王女に三者三様の口づけを贈り、三人はそっと、声を合わせた。
―星の守り手、我が奥深くに眠りし愛獣。四季龍<ードラグ・エスタシオンー>---今、此処に!
闇の王<ーノクターンー>が、<獣>の吐き出した焔に焼かれんとした刹那。
強烈な光線が、彼らの網膜を貫いた。