死告の王女
数刻前のこと。
うとうとと眠りに落ちていた冬の耳元で跳ねる子らがいた。小さな小さな細菌たちだった。どの生物よりも昔から生きていて、どの生物よりも未熟な子。他の生物たちには見えないほどに小さい子らは、声にならない声を冬の頭の中に響かせた。多くの地殻変動、自然災害を乗り越え、余程のことでなければ早々慌てやしない彼らの声が、どことなく揺れている。
それはいつだって、緊急事態の合図だった。
(起きて、王女さま!)
(おきて!アーキアたちの仲間が、殺されてしまったわ)
(花姫さまが、アスガルドたちを殺してしまった)
「春が?不穏なことを言うじゃないか」
(花姫さまは、<終焉>に至る途を歩いている)
(<獣>が、花姫さまを喰らおうとしている)
「……へえ」
鋭い緋色の眼光が、真白い睫毛の隙間からこぼれだす。その光の中に、冬は傷ついた春の姿を視た。
傷つけたくない、傷つけたくないと泣き叫ぶことすら忘れ、一歩を踏み出すたびに心底愛しているはずの草花をやすやすと枯らし、時折もがくように跳ねては乾いた大地に罅を入れる。正真正銘、血染めの春だ。血のように赤い瞳に映るのは、この世の末路。帝王のときは、それでも彼の意思が垣間見えたが、花姫にはそれがない。
まるで<獣>の傀儡だ。
「<終焉>となり果てていないのが不思議なくらいだね。一体全体、どうして踏みこたえることができているのか」
(花姫さまの胸元で、あの日の生き残りの子が悲鳴を上げているのです、王女さま)
(王女さまの世界で唯一生きたあの子は、花姫さまの命の中で、永らえております)
唯一の生き残り。
冬の世界が春の襲来により滅びた際、冬と共に生きていた白い獣のほぼ全てが、環境に適応できずに死んでいった。亡くなった母の胎から救い出された、形をもたない唯一匹を除いては。
その子供は、春と共に生きることを決め、春と共に幾千の時を過ごしていた。
しかし、その獣は、冬が統べたいつかの世界に生きていた生き物であり、今、この星に生きるものではない。
「そうか。…いつかの僕の世に生まれたあの子は、亡霊のようなもの。今、此処に生きるはずのないもの。<獣>がどれほど花姫を侵蝕し、蹂躙したとて、その一角だけは決して穢されることがない。<獣>には決して触れられぬ領域だ。かの獣の子は、この僕が守り育てた太古の命。…君が、花姫を救うのかい。母を殺した花姫を、守るのか」
(王女さま、花姫さまを憾んでおいでですか)
(騙されたとはいえ、花姫さまは王女さまの愛しい全てを殺してしまわれたから…)
アーキアの悲痛な声に、冬は存外柔らかな声で答える。
「そうだね。…あの日、花姫は、僕の愛しいこどもたちを殺しつくした。…けれど、物事には順番がある。…僕は、みぃに、あの子たちを殺させた者を憾んでいるよ。…みぃは、あの子の母殺しだ。…だが、元をたどれば、みぃを使って、あの子の母を殺したのは、<獣>だろう。それが、たとえ正義であったにせよ。この星の繁栄の為であったにせよ。<獣>にどのような大義があったにせよ」
(王女さま…)
「大義は、ぶつかり合う。僕たちにとって、僕たちが正しいのと同じように、<獣>にとっては、<獣>が正しい。みぃに残酷な真似をさせてでも、叶えなければならないものがあるのだろう。けれど、彼の行いを、僕ら四季はきっと許せないだろう。しかし、それは…」
冬はしゃがみこみ、星に触れる。冬たちが眠る場所、星の最深部でどくん、どくんと脈打つ鼓動に耳を澄ませ、細い指先で地面をなぞる。
「僕たちをよんだ、あなたの意志にそぐわぬものだろうか」
首元でしゃらり、と擦れた金色の鎖がきらきらと光を放つ。まるで、全てを委ねるとでもいうかのように。
「僕たちは、この星を愛している。水の星、特異な星よ。…僕たちは、あなたの意思の元に、廻ってきた。…しかし、今…僕は、この星の為でなく、仲間の為に、この力を使おうとしている。可哀そうなあの子を止める為に。……僕は、冬の王女としてでなく、春兎みぃの同胞として、立とうとしている。…星よ。<宇宙>よ。僕は、赦されるのか」
(<宇宙>の欠片のひとつとして、アーキアは、王女さまをゆるします)
(同じく、アスガルド。この星に生きる生命のうち一つとして、あなたをゆるします)
ちかちかと瞬く鎖を軽く握り、冬は立ち上がる。見えぬ空を仰ぎ、次の瞬間、地面を蹴り、高く高く跳ねあがった。柔らかな九尾が風にあおられ、粟立つ。いつの間にか、大きな狐の姿と化していた冬は、地中を駆ける。微かな泣き声を辿り、駆けて、駆けて、駆け続けた。
星を守る為に、愛するために生まれたはずの冬は、今、たったひとつの命を救い出そうと走っていた。
星の為でなく。
誰の為でなく。
冬自身の為に。春を喪いたくない、たったひとつの想いを胸に。ひた走る。
(なにが”かみさま”だ。こんなにも、独善的な僕が?)
死を司る冬。その胎は、再生への路に繋がっている。輪廻を抱えて生きる冬は、幾度も亡骸を見てきたし、何度でも、命を看取ってきた。時には、自分から命を摘み取ることもあった。いずれ還る命だと割り切り、新たな生を夢見て眠っていた冬が、その胎に幾千、幾万の悲哀を抱え込んでいることを、誰もしらない。
春がいればこそ、命は廻る。看取った命の生まれ変わりに、出会うことが出来る。でも、生まれ変わった命と、看取った命は決して同一ではないことを、冬は良く知っていた。
淋しいこと、悲しいこと、全て、冬には感じ得ないはずの感情だ。それでも、冬は、悲しんだ。たった一人、真夜中に、木の上で膝を抱えていた。
(この僕が、喪失を恐れるなど、それこそ傲慢というものだろうよ)
それでも、春を喪いたくなかった。
鎖でつながれた、無二の同胞。
必死に星の命を守り抜いた夏。
<獣>を追い、止めようとする秋。
皆、それぞれの力を武器に、必死に戦っている。まるで、スケールの大きな生存競争だ。星に生きる全てを巻き込んだ、生存競争。
新たな種族、<獣>を迎えて多くの命を殺すか、多くの命を守る代わりに、<獣>を排除するか。星は、何もいわない。
共存はできないのか、と、冬の心の中で、春が泣く。
それは無理だと、冬は唇を噛みしめた。
春という季節の中では生きられない、白き獣たちを想い、異色の虹彩をしばたたかせる。相容れない命は、存在する。
もう少しで、地表だ。微かな話し声が聞こえてくる。
「不肖、藤の花<―ウィスタリア―>…」
白い獣の子の鳴き声が、大きくなる。冬の来訪を感じ取っているのだろう。九尾の狐は、音もなく地表に降り立った。すう、と獣の姿をとき、着物の裾を払う。振袖を風に揺らし、焦げ付いた煙を胸いっぱいに吸い込みながら、春の元へと足を踏み出す。藤の蔓が彼女の体をがんじがらめにしているのが良く見えた。瞳を潤ませた彼女は、この世の生き物ではない。恐らく、召喚された類の命だろう。やや体が透けているのをみると、正規の召喚によって引きずり出されたわけでもないらしい。この場に彼女を繋ぎとめている魔力は、秋のものによく似ていた。
「よく頑張ってくれたね、花姫の遣い。…暫し、耐えてくれるかい」
声をかけ、春の元へと歩み寄る。きゅう、と鳴く白い獣が、小さく体を震わせたのが見えるようだった。黒々と渦をまき、春を囲む黒い泥からは異臭が放たれていた。山火事のように赤い瞳は、冬を見ていない。常ならば桜色の唇は青ざめ、呪詛めいた言葉が零れ落ちるばかり。かわいそうに、頬には疵を負っている。
「随分なことをされたんだね、みぃ」
「…輪廻……すべての命を…‥‥この星が……」
「もう、楽になる頃合いだろう」
ふ、と唇を開けた冬は、やにわに彼女の唇に吸い付いた。
絶叫をものともせず、ちゅう、と吸い付くと、春の身体が跳ねた。噎せこみ、吐き出された呪詛はすべて、冬の喉元に飲み込まれ、胎の中へと落ちてゆく。春の体を蝕む激しい呪詛は、腹の中から冬を苛んだ。あまりの熱さに、冬はたまらず春の体を抱き寄せる。そうでもしなければ、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。冬の胎の中でぐるぐると暴れる漆黒を、何度も嚥下し、どうにか押し流し、尚も吐き出される汚泥を、冬は必死に呑み込み続ける。
がくり、と折れたのは、春の身体だ。さらに深く口づけ、その体を蝕む全てを喰らい尽くしてやろうと、冬は両脚を必死に踏みしめた。
「…っ、げほ、」
「……」
「……みぃ、…」
どくん、どくん。
冬の中で、何かが暴れだす。口元を覆い、冬の王女はその場に跪く。春の体を覆っていた黒々とした闇は、彼女の周りを離れ、今や冬の体を蝕んでいた。えづきながらも、冬は必死に歯を食いしばる。
ー抗うことなど、赦さない。
春を、…大切な仲間を、己の目的の為に使役するなど、赦しはしない。
血のように赤い雪を吐いた冬の身体が、黒く、赤く染まってゆく。腹の中から、作り変えられてゆくようだった。冬は、目を閉じる。このままでは、今度<反転>を強制されるのは冬だ。愛しい春を、そして四季を、星を、この手にかけるくらいなら。
冬は、拳を握りしめ、最後の理性を振り絞り、叫んだ。
「幻想召喚!皇帝を、助けにゆけ。…いつしか僕の胎に息づいた、破壊の闇王<ーノクターンー>!」
冬の身体が煌々と輝きだす。冬の胎の中で目覚めた生物は、暴れ狂っていた新参者を難なく喰らい、冬の背を裂いて生まれ出でた。ひとつの山ほど大きな体を起こし、地響きを立てて、冬を一瞥もせず、歩き出した。恐らく、皇帝の元に向かうのだ。それを目にしてから、冬は地面にぐったりと崩れ落ちた。
<……王女!>
「藤の花<ーウィスタリアー>。…しばらく時間が経てば、回復するよ」
<しかし、お身体が…!>
「平気。…それより、花姫は」
<花姫さま…>
「水乙女<ーメルツェー>。あおいちゃんの傷を、癒して」
<ひめさまも、あとでいいこいいこしましょうねえ>
「その前に、お願い、あおいちゃんを…」
ぐす、ぐす、と泣きながら、水色の妖精を従えた春が、冬の元へとよろよろ、歩いてくる。すっかり、背中の羽は消えていた。首元の鎖も、可愛らしいリボンに戻っていた。とはいえ、ところどころ焼け焦げているけれど。一歩も動けない冬の背を優しく撫でる春の手が、その傷を急速に癒してゆく。水乙女<ーメルツェー>に力を借りているのだろう。
「私、また、…また。壊しちゃ、」
壊れそうなほどか細い声で、春は泣き続けた。冬の体を抱きしめて、泣き続ける。その涙は、冬の体に染み込み、刻み込まれた苦痛を急速に癒した。
「……また、生むのが君の仕事だろう」
「…でも、ころし、て、しま、」
「……顔をお上げ。ここで立ち止まれば、もっと多くを殺してしまうよ。…嘆くのは、<獣>を止めた後でもいいだろう。…その胸に抱いた子が、君を守った、その意味が解るかい」
「この子が…」
白い獣の泣き声は、今度こそ春に届いたようだった。
「その子の母を殺したのは、みぃだよ。みぃにそれをさせたのは、<獣>だ。あの日、もう同じ絶望は繰り返すまいと、僕は誓った。みぃ、力を貸してくれ」
「……あの時、私は見守ることしかできなかった。全ては終わってしまった後だった………今度こそ。今度こそ…」
冬の体を抱きしめ、春は立ち上がる。冬の体から生まれた闇の王<ーノクターンー>の向かう先が、<獣>と皇帝が戦っているだろう場所だ。春は、頭に生えた兎の耳を大きな翼に変え、冬と共に大きな空へと飛び立った。