滅世の女神
次はお前たち、頼んだよ、と眠りに落ちた夏と入れ替わりに目覚めたのは、秋だった。
秋には、ふたつの姿がある。則ち、牡鹿と女鹿だ。牡鹿は皇帝、女鹿は皇女と呼ばれているが、二人が共に存在することはあり得ない。
ひとつの体にふたつの心。心に応じて変貌する体。それが彼らの正体だからだ。
変わるのは、体だけではない。牡鹿は夏と同様、戦う力を宿しているが、女鹿は戦う力を持たない。持っているのは、春に似た癒しの力ひとつだ。
だから、大地に降り立ったのは、牡鹿の姿をした皇帝だった。
夏の例を見ても、春の例を見ても、今度<獣>に仕掛けられるのは、秋に違いないと考えたからだ。もし、先手を打たれてしまうのならば、傷つくことしかできない女鹿よりも、牡鹿の方が立ち回りやすいはずだ。あれから、夏は上手に世界を回してみせた。温暖な春から自らの領分である夏まで、耐えぬいてみせた。
いつもの実に二倍を越える時を一人で支え抜くことなど、帝王の度量がなければ決して為せぬはずのものだ。戦い抜いた夏からバトンを受け継いだ秋の仕事は、尋常ではない気温にさらされ疲弊した草花、動物たちを癒すことだった。飢饉か豊作か、これも秋の双肩にかかっている。
早速仕事にとりかかろうとした秋だったが、不穏な風は、存外早く吹いてきた。
「キューイ、キュー!」
「なんだって?…草花が枯れた?近づいた鳥たち全てが戻って来ない?」
それを秋に伝えた小鹿の後ろ足も、黒く枯れ、ぼろぼろと崩れ始めていた。即座に己の体を女鹿に明け渡し、手当をしようと試みたが、女鹿はひゅう、と喉を鳴らす。
「全然効かない…だめよ。これは呪いだわ。…最大級の、呪いだわ。この子を喰い尽くすまで、止まらない…」
「キュー!」
僕のことはいいから、早く、と言わんばかりに、小鹿は秋の背を鼻でぐいぐいと押す。そうこうしているうちに足が折れ、彼はしょんぼりと大地に腰をぺたりとつけた。
「キュー!」
「…わかった、わかったけど、どうか、どうかここにいてね」
女鹿は小鹿に頬を擦り付け、再び牡鹿に体を戻す。一刻も早く、呪いを解かなければならない。
「そうか。オレじゃなかったんだな、<獣>。皇女も解けないような滅びの呪いなど、…かけられるものには、ひとりしか覚えがないよ」
―春。
四季の誰よりも、傷つけることを厭っている春にしか、できないことだ。彼女が血に染まれば、造作のないことだろう。
そんな彼女が、呪いをまき散らすなど、<獣>の仕業以外には考えられない。
「今、この星は安らかでない。花姫とオレたちが共に存在してしまうのが、その証拠だ。ならば、<幻想召喚>!頼むから、応えてくれよ!」
秋は、小鹿の足跡を追って駆けながら、木々に向かって言葉を放つ。
「四季呼んで皇帝が告ぐ!さあ、目覚めろ。幻想召喚、樹形図<ーデンドログラムー>!」
待ちくたびれたといわんばかりに打ち震え、森の木々はそれぞれに枝を絡め合わせた。その枝の上をぴょんぴょんと駆けながら、彼はさらに咆哮する。
「樹形図、お前たちは無限の可能性を秘めている!終焉の呪いを打ち払え!」
木々は枝を無限に伸ばし、硬く硬く結び合う。どこまでも続く森の中で、木の要塞ができてゆく。
「生きとし生ける全ての命!お前たちはこの木の中に隠れよ!」
無数の動物たちが我先にと木々の籠の中へと駆けてゆくのを確認してから、秋は大地へと降り立った。
目の前には、俯いた春。その後ろには、枯れ切った森の姿があった。
毒液を翅からどろどろと垂らし、虚ろな目をして春は進む。
「随分派手にやらされたなあ、花姫」
「……命を輪廻に返しましょう。この星を終焉へと導きましょう」
「花姫。春」
秋の呼び声は届かず、春は一歩を踏みしめる。樹形図を為した木々が枯れることはなかったものの、それ以外のあらゆる植物が枯れ、大地が罅割れていくのが見てとれた。
冷たい汗が秋の背に伝う。
「<獣>はどこだ」
「終わらせましょう…」
「<獣>はどこだって聞いてるの、お姫様!!」
堪らず、女鹿は春の体を抱きしめる。冷たさを知らない皇女にもわかるほど、冷たい、冷たい体だった。女鹿の涙がぼろぼろと春の身体に落ちたけれど、べたつく黒はびくともしない。
終わらせなければ、と繰り返す春の一歩を止める以外の何もできずに、女鹿は必死に首を振る。
「お姫様、ダメだよ。殺したくないって言ったのに、このままじゃ、反転しちゃうよ。本当に、完全に、殺すことしかできなくなっちゃうよ。一番やりたくないことをしなきゃいけないなんて、変だよ」
「この星はどこかで間違えてしまった…この世に生きる全ての命を輪廻に帰して…新たに始めなくては…」
「輪廻に戻せない子たちもいるんだよ。お姫様の胸で眠っている白い子だって、お姫様が反転したら、一緒に死んじゃうんだよ。その子は、王女様の世界がなくなって、帰るところももうなくて、お姫様がいないと生きてゆけないんだよ」
淋し気にきゅうん、と鳴く、白い獣の姿も、春には見えていないようだった。牡鹿はいったん目を閉じて、それから泣きそうに眦を垂らして笑った。
「花姫。オレたちは、お前を止めないといけないみたいだ」
秋は、詠唱を始める。
それは、初めての試みだった。
幻想召喚に応じる生き物は、季節によって、それぞれ変わる。
海に親和性のない秋は、夏のように海兎<ーラメール・ラパンー>を召喚することが出来ないし、木々が眠りにつく季節である冬は、秋のように樹形図<ーデンドログラムー>を召喚することが出来ない。
季節の違う草花の精だって、同様、本来ならば召喚に応じるわけがない。けれど、どこか遠く近い世界で、必死に叫んでいる命があることを、見過ごせはしなかった。
「幻想召喚・唯。藤の花<ーウィスタリアー>。君の主に代わって、この秋が呼ぶよ。おいで」
ぱあ、と橙色の光が散る。空間を捻じ曲げ、もがくように、光は収縮を繰り返す。やはり、波長が合わないのだろう。」
<はな、ひめ、さま…っ>
それでも、光は叫ぶ。春の名を。
本来彼女を使役するはずの、主に向かって、絶叫した。
<花姫さまっ!!!>
短剣を口にくわえて降り立った、少女は、藤色の袖をはためかせ、秋に向かって折り目正しい礼を見せた。
<我が姫は如何された!>
「どうやら<獣>に酷くやられたようだ。このままでは<終焉>も近いだろう」
<…く、>
どろり、どろりと流れる汚泥は、春の体を今も喰らい続けていた。藤の花<ーウィスタリアー>は、それを見て酷く唇を噛みしめた。
「オレたちは、<獣>を排他しなければなるまい。…だが、このままの花姫を此処に捨て置けば、この大地は容易く滅びてしまう。手を貸してはくれまいか」
<ああ。我が手で主を救おう。ゆけ、皇帝>
藤の花<ーウィスタリアー>の周りで、幾本もの蔦がひゅうんひゅんと空を切る。皇帝がその場を彼女に託して離れたのをしっかりと目で追ってから、ひとつ息をついた。
<ゆきますよ、姫さま>
「終わらせなければならないの…すべて…すべて‥‥…輪廻に還して…この星を原始へと…」
<不肖ウィスタリア、姫さまを、捕縛いたします。正気に戻られた際は、どうかお叱り下さい>
春は、一切の抵抗を見せなかった。藤の蔓に巻き付かれるのを、良しとした。黒々とした液体は、藤の花<ーウィスタリアー>の蔓を枯らしはしなかった。
枯らすことができるはずがないのだ。<獣>は、あくまでこの星の上に生きるもの。四季は、この星の他、多くの世界に干渉し得るもの。
そして、藤の花<ーウィスタリアー>は、この星の生き物ではない。この星に生きる藤と、彼女の世界に生きる藤とは似て非なる。
<姫さま。姫さまのご意思は此処にないのでしょう>
春が本気で反転すれば、世界は違えど近しく存在している藤の花<ーウィスタリアー>など、容易に枯らしてしまえるはずなのに、今、彼女は蔦にからめとられたまま、動きを止めていた。
それが、全てだった。蔦にがんじがらめにされても、春の顔色は変わらない。その瞳には、何も映されていなかった。
胸を突かれたような思いで、藤の花<ーウィスタリアー>は一歩、二歩と後ろによろめき、膝を折る。
皇帝らは、無事に<獣>を見つけることができたのだろうか。春は、目を覚ますのだろうか。
あの、天真爛漫な笑顔に、もう二度と会えないというのなら、彼女の召喚獣の一として、藤の花<ーウィスタリアー>がとどめを刺さねばならないのだろう。
―けれど、どうやって?
肩をひくつかせた彼女の頭に、冷気が触れる。
ダイヤモンドダストを見るのは、彼女にとって初めてのできごとだった。振り返ると、其処には見目麗しい女が立っていた。
<あなたは…あなた、は?>
「よく頑張ってくれたね、花姫の遣い。…暫し、耐えてくれるかい」
<は……はい!>
凍てついた空気のように冴え冴えとした声が、藤の花<ーウィスタリアー>の背筋をぴんと張らせた。彼女こそ、冬の王女だ。虹色の九尾を揺らし、何に驚くようでもなく、飄々と歩いた王女は、春の目の前で歩みを止めると、頬の赤い傷を撫でた。そして顎に指先を当て、くいと持ち上げた。
「随分なことをされたんだね」
「…輪廻……すべての命を…‥‥この星が……」
「もう、楽になる頃合いだろう」
<お、おやめください、王女!!!>
藤の花<ーウィスタリアー>の制止は、間に合わなかった。冬は、口を軽く開けーーー
<私の、主様を、喰らわないで!>
---絶叫を背に、色褪せた春の唇に、己の唇を優しく重ねた。