幕間:揺蕩う憎悪
馬鹿な。
馬鹿な、馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な、そんなことがあっていいはずがない!
確かに夏は、血に濡れた。罪悪と傲慢、絶望に喰われたはずの彼奴が、どうして!
どうして、のうのうと安らかな海へと返り咲いているのだ!
血濡れた夏。もとい<血濡れた海>が破壊しつくすはずだった世界は、恐ろしいほど美しいまま在った。<獣>は、足元の春を容赦なく足蹴にした。踏みにじった。そうまでしても、春の身体から血が出ることはない。痣のひとつもない滑らかな肌は傷つかない。
秋と冬が目覚めた一時の隙につけこみ、春を手元に攫いだすのは上手くいった。しかし、本来の目的は何ら果たせてはいない。
<獣>は焦り、考え込む。
<獣>とその系譜が生きて行けるであろう環境を兼ね備えた星は、この”水の星”の他にない。四季さえなければ、この星は健やかに育ち、やがて<獣>たちに適応し得る世界の礎となるはずだ。なんとしても、四季を排除してやらなければならない。そして、この星をありのままの姿に…
そこで、<獣>は眠る春を見た。ありとあらゆる命を咲き綻ばせるものを。
血濡れた夏は、全てを飲み込み、全てを始まりに戻すだけの力があった。
ならば、春は?
血染めの春ならば。命の始まりを司る彼女なら、この星を十分に終わらせることができるのでは?
<獣>はごくりと喉を鳴らす。双角から染み出した闇色の液体が春の体の上にぼたりぼたりと落ち、べったりと絡みつく。彼女が<獣>に逆らうことのできない今が好機だと、彼は口元を高揚に歪ませた。
宵闇のような色をした、ねばつく溜まりの中で、春は眠り続ける。
本当は、起きていた。逃げたくてたまらなかった。けれど、皇女から得た癒しは、春の体をこの世に繋ぎとめるのが限界だ。悍ましいものが、春の体を喰らう。くらいついて、心の臓まで忍び寄ってくる。冷たい牙が、春の喉元を食い破るように突き立てられた瞬間、春は言葉にならない悲鳴を上げた。
やめて。やめて。
私をあなたの武器にしないで。
いつだか、冬の愛した世界を完膚なきまでに滅ぼした春の息吹を、春は忘れていない。
あの日、見送った、小さな獣たちは、いつだって春の心の中に生きていた。
やめて。やめて。
獣から溢れる瘴気に身もだえながら、春は涙をいくつも零した。はるか昔から共に生きてきたアスガルド、アーキア。
今もどこかで見ているのだろう、小さな獣。
可愛らしい、愛しい、全てのこどもたち。
いつまでも守り続けていたいのに。
残酷なほどの怒り。
感じられるはずのない苦痛。
彼らに対して抱くはずのない憎しみ。
抗いきれない身がふがいなくて、春は泣き続けた。涙は血の珠となり、地面を汚した。その場に生えていた草が、見る間に枯れてゆく。
「そうだ、それでいい。この星を、うまれたままの姿に戻そう、”血染めの春”。…それとも、<終焉>とでも呼んだ方がいいかな」
その名で呼ぶな、と喉を震わせた春を見て、<獣>は心底嬉しそうに笑って見せた。愉悦に満ちた瞳を細めて、春の体を引きずり立たせた。憎悪に支えられ、春は立つ。
ごめんね、と、渦巻く言葉はいったい誰に宛てたものだったのだろう。違和感も、徐々に消えてゆく。やがて何も考えられなくなっていった春の足元で、必死に春の名を呼んだ古細菌のこどもたちが、獣の手で瞬く間に燃やされ、灰となる。必死に春を探してきたのだろう仲間が灰となっても、春の表情は何も変わらなかった。煌々と光る烈火の双眸を細め、とぼとぼと歩く彼女の足元に、小さな死骸が降り積もる。
「すべて…終わらせましょう。愛する子供たち…いずれ来たる終焉の前に、私が…終わらせましょう。皆、輪廻に還りましょう。ここは あなたがたに相応しい…星ではない……」
「その通りだよ、愛しい春!憎々しいお前を愛しいなどと形容する日がくるとはな、反吐が出るような思いだ!はは、ははは…もっと早く、こうしておけばよかったんだ」
ごう、と吹き荒れたのは、滅びの風だ。風に吹かれたものは見る間に生気を吸われてくずおれる。
<獣>にとって、美しい世界の始まりだった。真白い灰が渦を巻き、大地には何も残らない。<獣>の望んだ世界そのものだ。
理想郷を創るために、ここからまた、新たな歴史を刻もう。
黒々と斑模様を作ったワンピースが、びりびりとやぶれてゆく。春の脚は、兎の脚のように、白い毛皮に包まれていた。
いつの間にか、背にも翅が生えている。毒蛾の持つものだ。頭から生えた翼は、血色と闇色の二色に染まり、力なく垂れている。
首元に飾られていたはずのリボンは、黒々とした螺旋を描き、春の首元をぐるんぐるんと回っていた。
完全に理性を失った血染めの春を睥睨し、<獣>は腹の底から愉悦した。
哄笑を轟かせた。
「見ていろ、これでお前たちの世界も終わりだ!」
春の頬を伝った黒い涙は、彼女の頬に、まるで火傷のような赤い筋を残した。