君在りて奇跡
「帝王、それ以上はいけない!」
星の最深部。
紅い目を見た冬は、堪らず声を上げた。その紅は、血液の赤だ。おいそれと纏っていい色ではない。特に、命を育む季節であるなら猶更だ。
己の赤髪を無意識に撫で、冬の王女は睫毛を震わせる。
この赤が何を示すのか、冬は良く知っている。
あの力を知っている。
あれは、<宇宙>が自ら四季に刻み付けたものだ。
本来であれば、星を守るための緊急手段となるべき力だ。しかし、それも理性が残っていれば、の話。
このまま見過ごせば、彼が統べてきた青い碧い海は、一瞬で血に染まるだろう。
今の彼には、<beast>しか見えていないようだ。あれだけ慈しんでいた命を視界の端に追いやっては、本末転倒だ。
その声に重なったのは、秋の声だった。声の方に振り向くと、皇帝が呆然とした様子で立っていた。
「どうして此処にいるんだ。皇帝」
「それはオレの台詞だよ、王女。オレたちは決して同じ時間を共に過ごすことができない…そのはずだろう」
「ああ、その通りだよ。…この星が、危機に瀕していなければ」
幾千万年の時を共に生きてきた四季であったが、同じ夢を見たのは、これが初めてのことだ。秋が当惑するのもうなずける。冬とて、本当のところ胸中穏やかでない。
「…このまま野放しにしておけば、奴は、きっと、星を殺すぞ」
「ああ。…完膚なきまでに<収束>させるだろうね。愛しい子らを巻き込んで。御覧、皇帝。あの紅さを。彼の腕の先を」
「…嗚呼。このままでは」
青ざめた秋の頬を指先で撫で、冬は眉根を寄せた。
あれほどの夏の変容を受けても、首元の鎖は全く反応しない。つまりはそれだけ、夏とのつながりが希薄になっているのだろう。
「<血濡れた海>。今はまだ、踏みとどまっているようだ。…だが、僕はまだ、彼を止められない」
悔しさに唇を食いしばり、冬は俯く。仲間と星が苦しんでいるというのに、体力が幾許も残っていない。秋とて同じだ。春の呪いを解くために、多くの力を使い果たしている。
声も手も届かぬ場所にいる夏は、されど届きそうな距離で、吼えた。
「<獣>、去るなら今のうちだ」
「はは。誰が逃げるものか。お前は俺に敵わない。台風など呼んで、それで焔を消すことができるとでも思うのか」
「いいや。俺はお前の焔にかなわないだろうよ。…だが、彼らなら、どうだろうね」
「彼ら?」
訝し気な顔を見せた<獣>の前で、夏は高らかにうたった。
「幻想召喚、海兎〈ラメール・ラパン〉!業火を一掃せよ!」
みるみるうちに空を覆った黒い雲から、土砂降りの雨が降り出し、海面を叩いた。荒れ出した海の中から顔を出したのは、春の耳によく似た耳を持った兎たちだった。しかし、よく見ると彼らの足は夏の足によく似た、イルカの尾でできている。
「あんな命、見たことがない」
「そりゃあそうだ。皇帝、お前にもわかるだろう。あの子たちは、この星の生き物ではないのだから」
「どうして落ち着いているんだ、王女。あれは一体何だ」
「…あれは、<血濡れた海>の中に生きる命だよ。僕たちには、3つの顔がある。星が安らかであるときの顔、星が危機にあえいでいるときの、血に染まる顔…」
「…」
「最後の一つは、<反転>。星に対する裏切りだ」
「冗長が過ぎるぞ」
咎めた秋の目を真っすぐに見据え、冬は宣う。いつかは、共有しなければならなかった知識だ。冬ひとりの体に抱えておいて良いものではない。
「今の夏は<血濡れた海>。”星の危機とあらば、血濡れることを厭うな”。僕たちを結ぶ鎖に、刻み付けられた契約だ」
「…オレも、王女も、…花姫も、皆あのようになるのか」
「なるさ。そうでもしなければ守れないのなら、そうするしかない。守るためならば、それこそ、本来ならば存在し得ない命さえ、味方につける。守れないという選択肢は、ないのだから」
「ならば、最後の顔が星に対する裏切りだというのは?…星を守ることが、裏切りになるわけはあるまい」
「無限の広がりを持つ夏にとっての<反転>は、<収束>。全てを無に帰すのさ」
「全てを?」
「そう。そこには星しか残らない。星が呼び寄せた命の全てを、失くしてしまう。それでも星は守られるだろう。その存在ひとつだけは」
秋は首を振る。冬だって、歯切れは悪い。すべての命をリセットすることが、星を守ることだなんて、本当は思っていないのだろう。それでも、鎖はそう主張する。
全ての命・あらゆる世界を砕く力が、四季の身の内に隠されているのだと。
どれほど疎んでも、その事実は変わらない。
四季は、<反転>すれば、容易にこの星の命を一掃することができる。
できてしまう。
今、<獣>の焔を消そうと波を蹴って跳ねる海兎たちが本気を出せば、この星を水没させることだってわけはないのだ。血濡れた四季が、血濡れた己から引きずり出した命がもつ影響力にはすさまじいものがある。
「星々には、それぞれの想いがある。この水の星は、その想いに準じて、僕ら四季を呼び寄せた。…この星を<獣>に支配させるか、僕たちごと全てが消えたとしても、支配を許さず、この星の想いを守り抜くか。…僕らは、後者を選ぶ」
「…その為にならば、血に濡れることを憾まず、厭わず、<反転>し、この星に生きる全てを殺めることすら許容せよ、と?」
歯噛みした秋の目の前で、冬の背に揺れる九つの尾が力なく垂れた。
「…悪い」
「ああ、いや。すまない。どうも、この尾は馬鹿に正直だ…殺めることを是とすることなどできないだろう。僕らは、どのような命も心底愛しているのだから。…だが、」
冬の視線の先で、<血濡れた海>は、表情もなく<獣>を見つめていた。あれ程燃え盛っていた焔は今や、灯火程度にしか残っていなかった。そのかわり、海面が随分と高くなっている。荒れ狂う波が、動物たちの隠れ家にざぶん、ざぶんと打ち寄せているのに、彼は気づいていないらしい。
「…血濡れてしまえば。或いは、<反転>してしまえば、僕たちは、是か非か考える間もなく、目の前の脅威に立ち向かう以外のことを、考えられなくなってしまう。…僕たちの意志は、命を守ることではなく、危機を排除することにばかり向いてしまう」
「…じゃあ、今の帝王を放っておけば、奴は命を痛めつけるのか。それも、無意識に。悲惨なことを」
「僕たちはひとたび怒りに染まれば、この星にとっての異形を生み出し、この星に生きる命に対する脅威となる。…ゆめ忘れるな、皇帝。僕たちは、いつだって、愛しい子らに、劔を向けかねない存在だ」
皇帝の頭から生えた二本の角が、凛と天を向く。それを見た冬は、わずかに頬を綻ばせた。
「止めに行くのかい」
「仲間の暴走を止めるのは、オレの役目だ」
「一人で征けると思うなよ」
「碌に力もないだろう」
「お前もそれは同じだろう」
どちらともなく口を噤み、怜悧な視線を交し合った瞬間に、帝王の静かな声が届いた。
「…怖がらせたようだね。…すまなかった」
は、と振り向いた冬と秋の目の前には、雲一つない青空と、凪いだ海が広がっていた。
いつの間にか、帝王の首元のチョーカーは青く、静かにきらめいていた。赤の残滓も残さぬサファイアの瞳は、小さなうさぎを映して優しく微笑んでいる。
すっかり晴れ上がった世界のどこにも、<獣>の姿は見当たらなかった。
海の上を飛び跳ねていた海兎たちも、一匹残らず消えてしまった。
夏の視線の先で跳ねる子うさぎの隣に、一回り大きなうさぎもちょこんと座っている。びしょぬれの体をぶるぶるとふるわせて、じっと夏を見ていた。
秋は、冬に視線をゆっくりと戻し、問うた。
「……王女。どういうことか、教えてくれ。たとえ血濡れたとしても、オレたちは、また、自分の意志で此方に帰ることができるのか」
「………いや。己の力で戻るなど、出来るわけがない。因果は、僕たちの意志を越えた場所にあるのだから。……だが、僕たちの力に因らなければ、戻れるのかもしれないね。僕も知らなかったが、いま目の前で、確かに帝王は…理性を取り戻している」
「……自分の力に因らなければ、か。…皮肉なことだ。彼奴が殺めてしまうかもしれなかった命が、彼奴を引き戻したのか」
冬は欠伸をひとつして頷いた。緊張が解け、優しい眠気が訪れたところを見ると、どうやら星は漸く安寧を取り戻したらしい。
「この星を最後に守るのは、僕たちではなく、この星に生きる命なのかもしれないね」
さあ、と吹いた風が、夏のポニーテールを優しく揺らした。