血濡れゆく海
「すまない、愛しい子。花姫の時季よりも大分暑いだろうが、どうか許してくれ。そして力を貸してくれ」
海を泳ぐ数多の魚たちを集めて詫びた夏は、彼らが仲間同士群れたのを確認すると、ひとつひとつの群れに、ある道筋を示した。魚たちは泡をぷくりと吐き出して、夏に示された方向へと泳いでゆく。小さな魚たちであっても、群れれば大きな力を持って、水の流れを変えてゆく。無論、夏がその力を持って、流れを直接変えることもできるが、夏一人の力では、ある程度の時間がかかってしまう。彼ら小魚たちの協力があれば、陸の動物たちが渇いてしまう前に雨を呼ぶことができるはずだ。そして、変化した海流は、涼しい風を連れてくる。
魚たちを見送る夏の肩に、一匹のカモメが羽を休めた。
「何か俺に伝えることがあるのかい」
「キュウ」
「西の方で風が強く吹き始めた?そうか、第一陣の魚たちはもうそこまでたどりついたか」
これで、気温をある程度コントロールすることができる。しかし、何処かを埋めようとすれば、そのしわ寄せは何処かにいくのがこの世の常だ。春なくては生きられない命の為に冷夏を求めた代償に、他の土地に更なる猛暑を引っかぶせたことを、夏はもちろん、理解している。その上で、意図的な介入を行った。
普段から暑さに慣れている南の生き物たちは、少々気温が上がったくらいのことでは動じない。気温が高いと死んでしまう、本来春を必要とする生き物たちを生かすためならばと、一層の盛夏を許容した。
この星の生き物たちは、見ず知らずの仲であっても、互いに互いを救い合って生きている。カエルたちが寒さに凍えるようなことがあれば、夏の傍で今、ぐったりと地面に伏せている動物たちは寒さを受容し、海の流れの変化をゆるしてみせるのだろう。暑さ寒さの許容量が動物たち、そして個体によって違うからこそできる芸当だ。
「皆、少しだけ耐えてくれ。海鳥がいうことには、今、空気の圧がさがってきたということだ。もうすぐ雨が降る。太陽を隠せばきっと、暑さも和らぐだろう」
夏の言う通り、少しすると、水面に波紋が浮き始めた。日差しが和らいだのに気づいたか、動物たちはいっせいに空を見上げる。本当ならば春が育てたはずの子ウサギはまだまだ小さく、親の体でできた影の中で、はあはあと息を繰り返していたが、雨粒が当たればゆるりと目を開けた。鳥たちは、夏の体の上で羽を休めている。
やがて、ざあざあと降り出した雨が、大地に潤いを与え、動物たちの火照った体を冷やしてゆく。十分身体を冷やし、水を口にしてからそれぞれの住処に戻ってゆく動物たちを見ながら、夏はひとり考える。
本来此処にいるはずだった仲間のことを。
「花姫は一体どうして、憂き目に遭わねばならなかったか…」
雨の中、独り言ちた夏に答えを返す者はない。
あの時、春に寄生していた大木には、何の意志も感じられなかった。この世界に生きる者すべてがもつ、何らかの波動や色が、一切合切存在しなかった。
命を芽吹かせる力を持つ春から育ったにしては、ひどく無機質だったように思う。まるで、命を失くした全てを継ぎ接いで作られたかのようだったが、あれは確かに春の命を糧にしていたようだった。
夏の愛する動物たちは、弱肉強食の世界で生きている。けれど、それは自身の命を食いつなぐための殺し合いであり、決して無意味に命を奪い合っているわけではなかった。しかし、あの木と言ったらどうだ。本来ならば春の命などなくても生きられよう、育つこともできようものが、無為に無益に春の命を喰らっていたのだ。
春に綻びを与えると、かの<獣>はせせら笑った。しかし、その為に行われた行為は、まさに殺戮だ。あのまま夏らが見つけなければ、春は干からびていただろう。夏の知る輪廻とは、また別の話のように思われた。
あの大樹が、春を喰らわねば育てないような生き物であったというならばまだしも、あれでは一方的に蹂躙されただけだ。ことわりに反している。
降り出した豪雨が、夏のからだに打ち付けた。ごう、と吹きすさぶ風が、嵐を呼んでいる。
「愛しい子、そのあたりで休んでいるがいいよ。その一帯は、俺が守っていよう」
無造作に広げた両腕の中、吸い込まれるようにして消えてゆく風が、夏の頬をくすぐった。あまり考えすぎるものではない、と、夏を諌めているのかもしれなかった。
風は、夏の守る小さな島を避けて吹く。遠くの木が、ゆさゆさと揺れていた。しなやかに揺れ、その力を分散させることで、身を守っているのだ。
分散させる?
夏は、いぶかし気に遠くを見つめた。春の命をしこたま吸い込んだ割にはなんの反応も見せなかった、あの大樹。
切り倒したところで、何も出てはこなかった。
それなら、春から奪ったはずのエネルギーは一体何処に消えた?
大樹の周りには、一本の花も咲いてはいなかったと記憶している。そこにいるだけで周りの命を呼び覚ます春が埋まっていたというのに。
あの大樹が、春の命を吸いとることで、利を得るのは一体誰だ。
夏の頭に浮かんだ一つの仮説が、理解し得なかったひとつひとつの行動を繋いでゆく。
「あやつ、花姫の力を奪いおったか」
確信めいた仮説を裏付ける根拠を持っているだろう星の仲間に、心当たりがある。夏は、濡れ切った土に掌を押し当てて願った。
「小さな小さな子供たち。大地の奥に潜む愛しい子。俺の声を聴いてくれ」
(アスガルド、ここに参りました)
(アーキアもここにいます、帝王さま)
夏の声に応えたのは、普段から地中で過ごしている、小さな細菌たちだ。星が生まれた時から星と共に生きてきた彼らは、この星にまだ四季がいなかった頃のことも知っている。
夏は一度彼らに問うたことがある。
「お前たちは、一体どのように生まれ、何をして生きているのか」
(星に生まれ、星を創り、共に生きています)
(遠い子孫を、愛するために)
多くの生命が、彼らないしは群れの為に生きている一方で、彼ら細菌たちは、星の為に生きると答えた。細菌たちと四季とでは、生まれ方も育ちも全く違うものの、星と共に生き、星の命を育て導くという目的は、一致していた。
細菌たちは、四季を問わず常に大地の下で静かに生きている。冬、地面に厚く氷が張っていても、夏、太陽に焦がされていたとしても、変わらぬ営みを繰り返す。彼らは、厳しい環境を幾度となく潜り抜けて今を生き、せっせとエネルギーを生み出している。彼らが産生したエネルギーを吸収して育った果樹は、その実を多くの動物たちに分け与え、動物たちは弱肉強食を繰り返し、命をなくせば土に還り、細菌たちの手でエネルギーへと変えられた。
「花姫から吸い取られたエネルギーは、一体どこに行ったのか、お前たちの中に知る者は?」
(アスガルド、知ってる。花姫さまのエネルギーは、此処にないの)
(アーキアも。花姫さまが、桜の樹に喚ばれて、いつものように上がってきたのを、災厄の獣が絡めとってしまった)
「アスガルド、アーキア。もう少し詳しく教えてくれるか」
(災厄の獣は、アスガルドたちには分解できない、この星には存在し得ないものを、花姫さまに植え付けた)
(最初は種だったけれど、みるみるうちに大きな樹になったわ)
(知らせようと思ったら、帝王さまも、皇帝様も、王女さまもいらしたの)
(花姫さまの中のエネルギーは、全部、災厄の獣に吸い込まれてしまった)
「どうしてそれがわかるのか教えてくれるか、アーキア」
歯噛みした夏に、アーキアのさざ波めいた声が届く。
(あの得体の知れないものが、災厄の獣と繋がっていたから)
「どういうことだ」
夏の疑問に答えたのは、アスガルドだ。
(アスガルドたちには、生き物の構造が、見える。あれは、災厄の獣と同じだった)
(災厄の獣は、この星のものではないから、アーキア達も、手をだせなかったの)
「…そう。…花姫の持っていたエネルギーは、<獣>の中に取り込まれた…」
(花姫さまは、エネルギーを、相手に合わせて幾らでも変化させることができるから、きっと狙われたのね)
「俺も似たようなことは出来るだろうが、それとは違うのか」
(…この星に存在し得ないものとも波長を合わせることができるの、花姫さま)
成る程、と夏は頷く。
この星に存在し得ないものにまで波長を合わせることなど、春以外の誰にもできやしない。あらゆる生命を生み出し育てることのできる春にのみ許された芸当だ。
しかし、彼らの推測が正しいのであれば、<獣>の宣言は一体どうなるのだろう。彼は、夏の手をもってあらゆる命を殺すために春を狙ったのだと言ったはずだ。
「キュウ、キューウ!」
夏の右肩で、カモメがけたたましく鳴きだした。何が起こったのか、と空を見上げた夏の目に映ったのは、狼煙だ。
いや、狼煙ではない。何かが燃える匂いがする。
動物たちが、此方に向かって逃げてくる。
「すまない、ゆかねばならないようだ」
細菌たちにおざなりな別れを告げ、夏は大きなイルカの形に変化した。一拍置いて、凄まじい速さで海の中を泳ぎ始めた夏を、空からカモメが追う。
焔を扱う生物など、<獣>以外あり得ない。
そうか、奴は。
<獣>は確かに、夏の手で、命を屠らせるつもりなのだ。
焔を用いて。気温を上げて。
<獣>は、木の上で、海を睥睨していた。
幾つもの火柱が立ち、空気を焦がしているのが良く見える。雨だけでは到底消すことの敵わない熱量だ。
雨が上がってしまえば、まぶしい太陽と焔に挟まれ熱された空気が、暑さに弱い動物たちを殺してしまうだろう。
夏が、星を統べたが為に。
さあ、どうするか。
ざぱん、と高波を引き連れ、陸に上がった夏は、獣をねめつけた。
「花姫の力を破壊に利用してくれるな」
「此処に在るものをどう使おうと自由だろう」
<獣>は愉しげに笑う。
「お前の愛した星が、お前の手で潰える気分はどうだ」
刹那。
世界が一瞬、ほんの一瞬、赤く光った。それだけではない。
夏の瞳は紅く濡れ、ひとつに結んでいた長い髪は無数の蛇となり、互いを喰らいだした。
頭の両側から生えていたイルカの尾のような形の耳は癒合し、後頭部に大きな一つの耳として垂れた。
肩のあたりには、鱗が浮き出している。
ばきん、と音を立てて砕けたのは、夏の首元で光っていたチョーカーだ。代わりに、漆黒の十字を抱いたチョーカーが夏の首に絡みつく。
「おや、形が変わるのか。流石、可塑性の高い生き物だ」
「揶揄も大概にするべきだな、<獣>」
随分と短くなった髪をがしがしと掻き、彼はこともなげに宣った。
「俺はお前を愛さない」
無造作に掲げた腕の先、灰色の雲が渦を巻き始めた。