まもりたいせかいが、ここにあるから
太陽の光が燦燦と降り注ぐ、夏。春に託された生き物たちが、いよいよ命を輝かせる季節。
はつらつとした季節を統べる”夏”は、二本の足の代わりに、イルカのような尾ひれを持っていた。群青色の長く艶めいた髪を一つに結わえ、いつも海の底にいた。陸で過ごすことが出来ない訳ではない。鯨やイルカと一緒に泳いだり、海の底で貝と戯れてみたり。夏は、そんな風に過ごすことを何より好んでいた。それに、海の中から見つめる景色は、うつくしい。
顔を上げれば水面にはじかれ散乱した光が、彼の顔を照らす。下を向けば、真珠を抱いた貝が口を開き、小さな宝石を淡く瞬かせた。陸の話はいつだって、海鳥が教えてくれた。キュウ、と鳴いた声を聞きつけ、日の元に姿を現した夏の肩で、一羽の鴎が羽を休めた。
「…」
「そう。…ならば恵みは十分だね。直に嵐が来ることを、念のためにもうひとたび、報せて回ってくれるだろうか。俺は此処にいるから、またなにかあったら教えてくれよ」
夏は、春を知らない。自分が眠りに就いたあと、自分の愛する命を育む季節、秋のことも知らない。渡り鳥から聞く他の季節の話は興味深いものの、まるで別世界のことを話されているように感じていた。よく出来た御伽噺を聞いているようで、現実味がわかないのだ。それもそのはずだ。桜の色も、春風も、鶯の鳴き声も、すべて夏には感じ得ないものなのだから。寂しいと思ったことはない。
夏を含め、四季はいつだってそうやって巡ってきた。遥か遠い昔から、そう決められている。ひとつの季節を統べるものとして、他の季節と隔絶された時を生きてゆく。
不意に、潮風が凪いだ。
夏は、しなやかな尾で波をかき、曇天を仰いだ。みるみるうちにグレーを濃くした空から、ざあ、と音を立てて降り出した強い雨が、嵐の来訪を知らせる。夏がその手で呼んだ嵐だった。何もこの世を憎んで喚んだ訳ではない。全くの逆だ。晴天ばかりでは、生き物が生を謳歌する為に必要不可欠である水が不足してしまう。秋には嵐が頻回に訪れるというものの、それを待っていては夏の間に干からびる命が後を絶たないだろう。樹木を薙ぎ倒す程の威力を持って吹きすさぶ風の尾を掴み、掌に包んで消しながら、夏は辺りを見渡した。ほとんどの生物は海鳥の報せを聞いたのか、巣穴に隠れているようだった。しかし、逃げ遅れたのか、夏の耳を誤魔化しきれない鳴き声が、何処からか聴こえてくる。音を辿ってざぷざぷと泳ぎ、夏は陸に上がって辺りを見回した。尾ひれを蛇のように揺るがしながら、注意深く草葉をかき分けると、奥の方で小さな子うさぎが震えていた。雨足が強まり、腕の中でみるみるうちに冷えてゆく身体を胸に抱きしめ、夏は木陰に座り込んだ。大きな葉が雨粒を跳ね、1人と一匹を優しく守る。
「すまない、逃げ遅れたんだね。愛しい子、寒くはないか」
「…」
充分な水が確保できるまで、もうひととき必要だ、と、夏はその場に腰を下ろした。嵐を逃してしまうわけにはいかない。子うさぎが家族とはなればなれになるきっかけ、嵐を喚んだのは、他ならぬ夏だ。その責は、重く受け止めよう。
「初めまして、新たな命。夏は初めて?」
「…」
「ああ。俺がその、夏というものだ。この嵐も俺が喚んだ。暫し耐えてくれるか。必ず、家族の元に連れてゆくから」
濡れた瞳が細く微笑むのを見て、夏は胸をなでおろす。この子うさぎの親が去年の同じ季節に、やはり迷子になっていたことを、夏は忘れていない。彼らがどの場所に住んでいるかもすべて把握している。例えば、この子うさぎの家は、此処から少し離れた湖の近くにある。
おそらく、夏だけではない。ほかの季節も、あらゆる命の所在を解しているに決まっている。愛しい命を一つたりとも取りこぼしたりはしないだろう。
ほかの季節を知らない身でも、確信できる。これは、夏をはじめとした四季の全てに刻まれた導だ。
あらゆる命を愛し、救い、助け、この世界をあまねく慈しまん。
降り続ける雨が、川に流れを与え、湖を満たし、海に集う。
音にかき消されていたカエルの声が、水音のベール越しに聞こえるようになってゆく。ぴょん、と飛び出してきた子うさぎを追い、夏は樹木の陰から立ち上がった。先ほどの曇り空は何処へやら、青く澄んだ空が雲の隙間から顔を出している。
少し遠くから、ぴょんぴょんと駆けて来たのは、去年泣いていたうさぎだった。たった一年の間に、随分と大人らしくなったものだ、と笑い、夏は子うさぎを見送った。
「…」
「…はは。今度はお前たちに聞こえるよう、特別に鴎に言伝を頼むことにしようか。愛しい娘を、さびしがらせて悪かった」
「…」
「さびしくなかった?…いいことを教えてやろう、お前の母親も去年、同じことを宣ったよ」
ぴちゃ、ざぶ、とそこらじゅうから水浴びの音が聞こえてくる。
夏が来た、と口々にはしゃぐ動物たちの声を聞きながら、夏は地面を滑り、海へざぱんと飛び込んだ。ターコイズブルーの海藻がゆらゆらと揺れている。雨のせいかすこしだけ冷たい海が、夏の身体を包んでそよいだ。平穏な時間がいつまでも続くと思っていた夏の想いが、それからほどなくして打ち砕かれることになると、夏はまだ知らずにいた。
***
「目が覚めた、海王!」
「…お前は、鹿の女帝…」
「…ちょっと“女帝”では耐えられないかもしれない」
「………は、?」
ある日、夏が目覚めると、海の一部が蒸発して消えていた。嵐の日に夏を守った大木よりももっと大きな、大きな木の陰に寝かされているのに気づき、夏は思わず跳ね起きた。鹿の耳を持った少女が、夏を心配そうに見つめている。彼女の首には、自分の首に巻かれているチョーカーと似たようなものが巻き付けられていた。それを見て初めて、夏は、彼女こそが秋であることを理解した。見たことも、交わしたこともない季節だと言うのに、何故自分の側にいるというのか。考えるより先に世界を見回し、彼は絶句した。
森林も半分が焼け消えている。
一体何が起こったのか、と振り返ると、和服の精霊に抱きかかえられた洋装の少女が見て取れた。初めて見る姿だったものの、洋装の少女の首元にはリボン、和服の精霊の首には鎖が絡みついている。夏の目には、その柵が季節の名を表しているように見えた。洋装の彼女は春、和服の彼女は冬。
重なり合っては存在し得ないはずの自分たちが一堂に会しているとは、何事だ。
和服の少女がこちらを振り向き、視線がかち合った。彼女はすかさず声を張った。夏に届くように、凛と、中性的な響きを持って、苛烈に叫んだ。
「海の王!貴方の季節が、侵食されていたんだ!」
「ごめんなさい、私、あの獣を追えたはずなのに、私…!」
春の切り裂かれたワンピースは布切れと化して、彼女の肌をなんとか隠す程度の役割しか果たしていない。片耳は血に汚れ、どうにか翼の形を保っているもう片方も、折れていた。
和服の少女は傷こそ負っていないものの、着物が乱れている様相から、厳しい闘いを越えたかのような印象が伺える。夏が目覚めた時、夏を守っていた鹿の女帝は、皇帝の姿となって、遠くを見据えていた。
「俺が眠っている間に…」
「正確には、海王、貴方は時を止められていたんだ。季節が夏に移り変わった瞬間、主が起きぬ留守を狙って、"獣"が貴方の季節を蝕んだのだ。奴は既に冬の王女が退けたが、すまない、爪痕を残された」
「皇帝、お前…」
「仕方ないだろう、僕の体のほうがいろいろ都合がいいんだ。特に獣が絡んでいるとあっちゃあ、ね」
子うさぎたちの住処が、焼け消えている。
他にも、夏が愛した生き物たちが集っていた場所が、軒並み消えている。胸がえぐれるような痛みに耐え切れず、夏はたまらずしゃがみこむ。夏だけではない、秋も崩れ落ちるように座り込んだ。護るべき愛しい生き物を、喪った絶望に、心が飲み込まれてゆくようだった。
夏の頭上で、台風が吹き荒れる。秋が無意識に呼び出したものらしい。夏は、その台風が残された生き物たちの住処を傷つけぬように、と、その台風を包むように嵐を喚んだ。空の上で終わらせてしまう魂胆である。自分に対する嫌悪、そして悔恨の思いが、夏の双肩に重くのしかかる。
「…海王、皇帝、私、命だけは、なんとか、守ったから、居場所を、戻してあげて…」
冬の王女の腕の中で、春の精霊が声を振り絞った。彼女がそろそろと腕を広げると、眩しい光の玉が無数に現れた。命の光だ。夏と秋は目を丸くした。顔を見合わせ、すぐさま頷いた。
「…!お前たち、生きていたのか!」
「……あ、ああ、…今すぐ―――実りの秋、豊かなる恵み、母なる大地に今、祈りを捧げよう!季節の狂いは後から戻せよ、海の王!」
「任せよ!冬の王女、陸を頼む―――海よ、波よ、風よ、命よ!応えよ、満ちよ、打ち寄せよ!」
鹿の皇帝の声に合わせ、焼かれ渇ききった大地から果樹が生え、根を張り、木の葉と果実をいっぱいに抱いた枝を伸ばした。樹木の根元は苔生し、小動物の体を軽々隠すほどの草が茂る。
夏の呼び声は、途端に嵐を呼び寄せた。季節を守るための雨でなく、取り戻すための雨は苛烈だった。失くした全てを取り戻さんとばかりに海へと注ぎ、波をうねらせた。大地に向かって溢れ出した津波は、害なす波となる前に、冬の王女が扇子のひとふりで凍らせた。
失われる前と同じ風景が取り戻されたのを見てから、春は匿っていた命をそっと地面に返した。各々の住処に帰っていく魂の中で、夏のもとに飛んでいった二つの珠が、うさぎに姿を変える。夏はしゃがみ込み、自身の胸に彼らを招き入れた。温かな体温が、凍えた心を温めてゆく。
「…っ、怖かっただろうね、すまなかった、俺が間に合わなかったばかりに…」
「……ごめんなさい、海の王。私は、風景を、守れなかった…」
はっと彼女の方に向き直ると、春の体の傷は全て消えていた。先ほどの間に自分で治したのだろうか。頭を上げられない、といった様子の春の顎をくいと持ち上げ、夏は小さく微笑んだ。
「構わない。全ての命を守ってくれて、ありがとう。俺独りでは、亡くしていた。風景はまた取り戻すことができようが、命は還らないのだから」
春も漸く微笑んだ。それでも、冬の袖を握って離さない。冬は慣れている、といったようにそれを受け入れていた。秋は元通り、女帝の姿に戻って頬をほころばせている。
初めて会ったはずなのに、口から溢れるのは互いの二つ名。まるで、既に知り尽くし、知り尽くされているかのような、奇妙な心地だった。
「…さて、本題だ」
切り出したのは、冬だった。
「今回、獣が此方に侵食してきたことから、この世界は遅かれ早かれ、終焉を迎えることが予想される。数千年前の悲劇と同様に、ね」
「…」
春の顔が青ざめた。そのくずおれそうな腰を抱いて支えながら、冬も痛みを噛み殺したような顔で告げる。
「次に侵食されるとしたら、秋。今度は貴女の時が止められるか、或いは―予想もつかないタイミングで、破壊が行われるだろう」
「私…」
「正直なところ、今回、春の花姫が命を守り抜けたこと自体が奇跡だよ。此処で僕らが今まで通りに過ごしてゆくこと自体、愛しい命を危険にさらすのと同義だと、僕は考えている」
「冬、春。君たちの反応からして、君たちはこれが初めてではない。そうだね?」
秋の問いかけに、紙のように白い顔をした春が頷いた。冬も同様、首肯する。彼女の眉間のしわがさらに深くなった。
「今回が二度目だ。僕と春は、殲滅を経験した」
「私が、殲滅したのよ」
冬の、愛しい愛しい命すべてを、殺したの。
命を喪うことにこれほど臆病な春が、そして戦う術をひとつも持たない春が、どうして自ら殲滅した、などというのか、夏には度し難く思われた。しかし、春は絶望的なほどに、まっすぐな目をして、もう一度言ったのだった。明らかに冗談の類ではない。そんなに苦しそうな顔をするくらいなら言わなくても構わない、と窘めようとした夏を、冬が視線で止める。泣きそうに震えた掠れ声で、拳を必死に握りしめ、花姫ー世界に再生と誕生を齎す役を担う彼女は、押し殺すように告げた。その唇には、到底似合わない言葉だった。
「私が、冬を、殺したの」
― to be continued.