セクション04:レネ、乱闘開始
「あんた、今ジェシーを引っぱたいたでしょ? 今すぐ謝って!」
「さあ、何の話かしら?」
ずい、と迫ってくるレネを、ハルカは知らん顔をしてよけて再び歩き出す。
だが、レネはハルカの肩を左手で強引に掴むと、その頬に向けて容赦なく右の拳を振るった。
ばき、と乱暴な音が響き、再びヘルメットが転がり落ちる。
強烈な右ストレートを浴びたハルカは、その威力を受け止めきれずに尻餅をついてしまう。
「あっ!?」
ジェシーは思わず声を上げてしまっていた。
殴られたハルカの口元に、血が僅かに滲んでいたのだ。
「聞こえなかったの!? ならもう1回言うわ! 今すぐ謝って!」
レネが放った言葉は、宣戦布告の言葉であった。
今のは警告、自分の言う通りにしなければこれだけじゃ済まないぞ、という意味合いの。
それに対し、ハルカは口元に滲んだ血を手の甲で拭くと。
「だから、何の話か全然わからないんですけど――っ!」
地面を蹴って素早く立ち上がり、拳を握ってレネを殴り返した。
右フックが、レネの頬に直撃する。
「ああっ!」
「う――っ、そう、謝る気なんて毛頭ないって解釈で、いいのかしら?」
甲高い声を出すジェシーをよそに、レネは後ずさりしながらも踏み止まり、にやりと不敵に笑いながら問い返す。
それはまるで、殴られたことで闘志に火が付いたかのようでもあった。
一方のハルカは、殴った反動で痛めたのか、右手首を何度も振っている。
「そもそも私は謝られるような事なんて、した覚えはないの!」
「そっか、罪を犯したって自覚もなし、か……」
「だからなんで罪になる訳!?」
「いいわ。ならぶっ飛ばしたるっ!」
ハルカの言い分を全く聞かず、レネは再びハルカの懐へ踏み込んだ。
握った拳を、再び構えながら。
その拳が、再びハルカに襲い掛かる。
レネも拳を振りかざし、ハルカを迎え撃つ。
そして、2人の乱闘が始まった。
「っ!」
ジェシーは、見るに耐えられないとばかりに、両手で目を覆う。
2人の少女の言葉にならない叫びと、時々聞こえる鈍い音。
残虐さは全く感じないのだが、ジェシーにとっては充分恐怖に値する音だった。
「ふ、2人共、やめて!」
ジェシーの震える声は、2人には全く届かない。
乱闘は、ジェシーの事など忘れたかのように続く。
気が付けば、ざわざわと野次馬の声らしきものも聞こえてくるようになった。
とはいえ、乱闘が終わる様子は全くない。
ジェシーは、恐る恐る両手を下ろす。
視界に入ったのは、取っ組み合いとなっている2人の姿だった。
「暴力に訴えるなんて、レネって本当に騎士の末裔? 騎士道って言葉知らないの?」
「まさか。悪意を砕き弱者を守るのは、騎士の基本よっ!」
傷が増えて尚、鬼気迫る顔でにらみ合い、組み合ったままぐるぐると回る2人。
その末、両者は仕切り直しとばかりに離れる。
レネがちょうど、ジェシーを背後にする立ち位置になった。
息を荒くして大きく上下させているその肩を。
「もうやめてレネッ!」
ジェシーは、見てられないとばかりに無理矢理抱き寄せる。
だが。
「ううっ、邪魔よっ!」
ジェシーに見向きもしないレネは、ジェシーの腕を乱暴に振り解いてしまった。
「うわっ!」
反動であえなく倒れ込むジェシー。
それに全く気付いていないレネは、再びハルカに殴りかかっていた。
「いたた――ダ、ダメだ……完全に我を忘れてる……」
そうつぶやくジェシーの目は、僅かだが潤んでいた。
目の前で繰り広げられる子供じみた喧嘩に反して、ジェシーの目はまるで悲惨な戦場でも見ているかのように、悲しさを帯びている。
レネがハルカの腕に軍用犬のごとく噛みつく度に。
ハルカがレネの頭を金づちのごとく拳で叩く度に。
ジェシーの目に、冷たいものが溜まっていく。
「やめて……もう、俺の事で喧嘩しないで……!」
その悲痛な叫びは、やはり届かない。
遂にハルカが、レネのストレートパンチを浴びて倒れ込んだ。
完全にノックアウトだ。勝負あった。
だが。
レネはあろう事か倒れたハルカの体を背中から抱え、頭を下にする形で持ち上げたのだ。
所謂パイルドライバーの体勢。
下はコンクリート舗装だ。もし激しく頭を打ち付けようものなら、命に関わる。
「うおおおおおおっ!」
そんな事などお構いなしとばかりに、気合いを入れて逆さのハルカを持ち上げるレネ。
ハルカは身の危険を感じて手足をじたばたと振っているが、抜け出せない。
このままでは大変な事になる。
誰の目にもそれが明らかとなった時。
「もうやめてええええっ!」
ジェシーが、泣き顔のまま再び立ち上がってレネの元へ駆け出した。
レネがハルカの頭をコンクリートへ叩きつけようとした瞬間、ジェシーの素手がレネの口を塞いだ。
「む――!?」
ぴたり、とレネの動きが止まる。
途端、闘志に満ちていた目が、急に緩み始めた。
「む、うう……」
その声からも、力強さが失われていく。
目はいつしか酒に酔ったかのようにうっとりした目つきになり、ゆっくりと背後のジェシーへ肩越しに向く。
「じぇ、じぇしい……?」
声もまるで猫の鳴き声ように甘ったるく、先程までとは別人と思えるほど色っぽい。
その様子には、野次馬の兵士達も目を丸くしている。
「もういいんだ……もういいんだレネ……俺は、大丈夫だから……」
「で、でもぉ……」
「それに、これ以上レネに傷だらけになって欲しくない……」
「う、うん……」
レネは、ジェシーの言う通りに、ハルカの体を放した。
体の拘束が緩んだハルカは、とっさに地面へ手を伸ばし、逆立ち状態で着地しレネの腕から抜け出す事ができた。
レネはそんなハルカには目もくれず、まるで甘える猫のように、目を閉じてジェシーの手に頬をすり寄せる。それも、空いた両手をしっかりと添えながら。
「あったかい……じぇしぃの手、落ち着くぅ……」
夢見心地という言葉がふさわしい様子でつぶやくレネ。
そんな彼女を見てようやく安心した表情を見せたジェシーは、立ち上がったばかりのハルカに顔を向けた。
「ハルカ、大丈夫だった?」
「え? ええ、まあ……」
急に話を振られたせいなのか、戸惑って生返事をするハルカ。
「よかった――うっ!?」
そんな時、ジェシーの表情が痛みで歪んだ。
見ると、レネが口を覆うジェシーの指を、軽く噛んでいた。
ゆったりとした口の動きは物をしゃぶる赤ん坊のようで、どこか煽情的に見える。
「レ、レネ……ッ」
「はむ……んん、じぇしぃ……」
とはいえ、ジェシーは全く抵抗する様子を見せない。
困っている様子ではあるが、引き剥がそうとはしない。その痛みさえ、受け入れようとしているように。
ハルカはその様子を、しばしぽかんと見つめていたが。
「ああもう……騒々しいと思ったら、またあんた達なの?」
突如第三者の声で、現実に引き戻された。
驚いて3人が顔を向けた先には、フライトスーツ姿の女性がいた。
髪は茶髪のショートカット。年はジェシー達よりも年上に見え、大人の女性のようだ。そして肩には大尉を意味する階級章が付いている。
彼女はやれやれと言わんばかりに困った表情を浮かべ、胸の前で腕を組んでいる。
「あんばー……きょう、かん?」
レネが、甘ったるい声のまま、彼女の名を口にした。