セクション05:それぞれの出港
日が水平線へ沈み始め、夕暮れに染まった静かな海へ、サングリーズが遂に出港した。
飛行甲板の周囲には、白い制服姿の水兵がずらりと並び立つ。
手を振る人々に見送られながら離岸した後、タグボートのサポートを受けて、ゆっくりと沖へ出ていく。
随伴艦となるゲイラヴォルも、同様に出港し後に続く。
次第に遠くなっていく、祖国の大地。
それを、ジェシー達は艦橋の展望台から眺めていた。真下には飛行甲板が見えるが、さすがに作業をしている人影はない。
「いい眺めですね……ねえフィリップ君」
「はい、僕もそう思います」
エリシアとフィリップは、茜色に染まる美しい風景に見入っている。
そんな中。
「3か月は、スルーズの大地とおさらばか……」
海風を頬に感じながら、ジェシーはつぶやく。
「ジェシー、寂しいの?」
「うん、まあ……」
レネの問いに、正直にうなずく。
生まれ育ち、慣れ親しんだ国を長きに渡り出る事になると、少し寂しさを感じる。いくらこの船の中は、実質スルーズという国扱いとは言っても。
ゲイラヴォルに乗るルビーとロメアも、同じ事を考えているだろうか。
「あたしは楽しみだけどなあ。だってハワイに行けるんだよ、ハワイに」
とはいえ、レネにはそういう感情は全くないようだ。
これから旅行へ行こうとしている時のように、うきうきした様子である。
「そうそう! 軍艦に乗ってやっと海軍らしい事できるなって感じ!」
シエラも、どうやら気持ちは同じようだ。
さらに彼女は、手にしているスマートフォンの画面を見下ろして続ける。
「ロメアも『さらばスルーズ! こんにちは世界!』だって! あれ、ルビーはノーコメントか……」
どうやら、普段使っているSNSを見ているらしい。
ゲイラヴォルにいる2人も、どうやらこちらと同じ事を思っているようだ。ノーコメント、つまり書き込みがないルビーについてはわからないが。
「いや、でもいろいろごたごたがあったし……」
とはいえ、この船に乗り込むまでに、もういろいろな事がありすぎている。
空軍のチヌークは、機材の都合で1機だけ。
それに怒るシーザー王子。
自分は男である事を隠し、女として振るわなければならない。
そして、不意に遭遇した謎の男の問い。
決して順風満帆とは言えないスタートである事はジェシーにもわかる。
果たしてこの特別航海は、何事もなく無事に終わるのだろうか。
そんな不安も、少しある。
「教官、本当に大丈夫ですか?」
「いやー、マジで大丈夫じゃない……酔い止め飲んどけば――うっぷ!?」
そんな時。
ハルカの隣にいたアンバーが、急に苦しそうに口を塞ぎ、ジェシー達の反対側へと大急ぎで駆け出してしまった。
間もなくして、げー、という下品な声。
アンバーは、艦橋の反対側――真下が海面になっている場所で身を大きく乗り出していた。
「きょ、教官、船酔いですか……」
「せ、正解……」
唖然とするハルカに、アンバーが力なく手をひらひらと振って答える。
サングリーズに乗ってから妙に気だるげだったのは、船酔いしていたからのようだ。とはいえ、動く前から酔ってしまうという状況はジェシーも初めて見た。
他の一同も、アンバーの様子に唖然としてしまっている。
「船が苦手なのに、酔い止め飲み忘れるという不覚……ああ……」
そのつぶやきを聞いて、ジェシーは不安にならないはずがなかった。
アンバーが船に弱い事を初めて知った事もあるが、自分達の教官がこんな調子で大丈夫なのかな、と。
「俺、何かますます不安になってきた気が……」
「多分、何とかなるんじゃない?」
レネがそう言うが、気晴らしにもならない。
「そうだといいんだけど……」
ジェシーは不安を払いきれず、そう答えるしかなかった。
ふと、海風が吹いた。
横から一同の髪を、ふわり、となびかせる。
そんな時。
「あれ? ジェシー、そのおでこ――」
指摘されて、ジェシーはシエラが自身の額を見ていた事に気付く。
海風で前髪がまくり上げられ、露わになった額には、何やら傷を縫った跡がある。
「いや、別に大したものじゃないよ」
ジェシーはとっさに前髪で額を隠し、そうごまかしていた。
* * *
その頃。
「あーもうっ! 一体どうなってるんだっ!」
飛行甲板の奥にいたシーザーは、甲板上に仰向けに寝た状態で、茜色の空に向かって嘆いていた。
「僕の一大プロジェクトで機材が少ないとか、変な奴が来るとか、どうして不安要素が付いて回るんだーっ!」
高貴な紫色のケープが汚れる事も気にせず、頭を抱え込みごろごろと左右に転がる。
「極めつけは艦長まで――」
事の発端は、少し前に遡る。
レネ・スクルドが艦に乗っている事を知ったシーザーは、すぐさまブリッジへと向かい、ウォーロック艦長へレネを降ろすよう直訴した。
だが、彼にこう反論されてしまった。
「王子、あなたはここで八つ当たりをなさる気ですかな?」
「や、八つ当たり、だと……?」
「それでは建設的な議論などできませぬ。どうか頭をお冷やしになってから、改めていらしてください」
と――
「ああ、なんで変な奴らばかりなんだっ! これでは、フローラに笑われるだけだ……ああ、こんなはずでは……っ」
胃が痛いとは、まさにこの事。
本来この艦には、スルーズ軍の顔となり得るエリートが揃うはずだった。
だが、蓋を開けてみれば、なんともずさん。
シーザーの理想は、既に音を立てて崩れ去ってしまっている。
無理をしてでも自分が全ての人選をチェックするべきだったか、と後悔しても、もはや後の祭りである。
これでは、笑いものにされるだけ。
誇るべきスルーズの軍隊も。
そして、自分の手腕も――
「シーザー様、あかん」
と。
隣から、慰める声がした。
同時に、シーザーの手に小さな手が重なる。
リューリだ。
彼女もまた、シーザーの隣で同じように仰向けで寝ていた。
「もうこうなったら、やるしかないで。嘆いとっても、何も始まらんとちゃう?」
リューリは、まるで母親のようにシーザーを優しく見つめ、諭している。
その瞳に、シーザーは吸い込まれるように見入ってしまう。
「リューリ……」
「ウチだって、不満はいっぱいあるで。せやけど、シーザー様ならきっと何とかしてくれるって信じとる」
重ねた手をそっと握るリューリ。
シーザーはその感触に僅かに動揺し、顔を逸らしてしまう。
「……っ、すまないがリューリ、その期待に応えるのは、なかなか厳しそうだ……」
だが、リューリはさらにシーザーの腕にそっと抱き着き、体を密着させる。
手でダメなら、もっと広い暖かさで包もうとしているかのように。
「前にもウチ、言ったで。シーザー様は1人じゃあらへんって。ウチはどんな事があってもシーザー様の味方やって。だから、頑張りやシーザー様。ここで負けたらあかん。こんな時こそ王子様らしく、かっこいい所見せたれよ」
目を閉じて、応援の言葉を贈るリューリ。
それを聞いただけで、心拍数に呼応するかのように熱い何かが込み上げてくる感触。
嘆きの感情が、いとも簡単に晴れていく。
なんて単純なんだ、と自分で思ってしまう。
今まで嘆いていた自分がバカみたいだ、とも。
「リューリ。やっぱり君は、僕のお気に入りだ――」
背けていた顔が、ゆっくりと戻っていく。
手が、自然とリューリの頬に伸びる。
その手が触れる感触に、あ、と声を漏らすリューリ。
シーザーは、戻した顔で間近にあるリューリの顔を真っ直ぐ見つめる。
「もっと聞かせてくれ。力が湧いてきそうだ」
「はい。何度でも応援するで。頑張りや、頑張りや、頑張りや、頑張りや――」
何度も繰り返される応援の言葉を、酔いしれるように黙って聞くシーザー。
海風が、優しく2人を包み込む。
気が付くと、リューリに握られていた手を、自然と握り返していた。




