第4話:白銀の騎士・オデット(中)
圧倒的、美白。
圧倒的、四角。
和食界のインテリジェンスキューブ・豆腐の登場に、場の空気は一変した。
「これが……トウフ……」
光るともなく輝くともなく、ただそこに白く在る。
白磁の器にも似た豆腐の麗しさに、オデットは目を奪われていた。
「どうだ、美しかろう」
「これが話に聞いていた、あの……」
魔王を倒す旅の途中、俺は折に触れ、さながら伝道師のように和食の素晴らしさを説いてきた。
オデットが幾つかの和食に興味を持ち、その中でも特に関心を示したのが、この『豆腐』だった。
オデットが綺羅星のごとく無数に瞬く和食の中から、際立って『豆腐』に執着を示した理由。
それは俺が語って聞かせた、とある料理評論家の逸話が原因だった。
「俺もあの話を聞いたときはカナヅチで頭をぶん殴られたような衝撃だったぜ」
「……この中に複雑な七つもの味覚が潜んでいるのか。にわかには信じがたいが」
オデットが不思議がるのも無理はない。
日常的に和食を楽しむ我々ですら、豆腐の奥深さに気づいている者は少ないのだ。
唐突だが、ここで豆腐にまつわるエピソードを一つ紹介したい。
■ ■ ■
昔、豆腐の研究を重ねていた著名な料理評論家が、豆腐の味について尋ねられた時、こう答えたのだと云う。
――――豆腐には七つの味がある。
豆腐は一定の味を持たず、食するその過程で多彩に味を変化させる。
これがその評論家が出した答えであった。
この回答を聞いた俺がどれだけ衝撃を受けたか、お分かり戴けるだろうか。
そもそも俺は、料理における「味」とは不変なものである、と愚かにも勝手に思い込んでいたのだ。
例えば多くの人が「某ファーストフード店のハンバーガーの味」を連想した場合、その味にほとんど違いは見られないだろう。
その表現力によって差は生まれるだろうが、概ね出てくる味のイメージに大差はない。
しかし、ここに「冷めた」という情報を加えた場合、どうなるだろう?
固定された味のイメージは急激に劣化し、また前とは違ったイメージが導き出されるはずだ。
つまり料理とは、料理そのものが持つ味に加え、その状態によっても大きく味を変化させるのである。
何を当たり前な話を、とお思いだろう。
しかし、その事実に改めてから「豆腐」という食材に目を向けると、その奥深さに気付かされる。
「冷奴」と「湯豆腐」。
豆腐には冷暖両極端な調理法が存在しているという事実。
無論、言うまでもなく、この二つの料理はそれぞれに異なる味わいを持った料理である。
つまり、豆腐とは温度によって味の性質を変える変幻自在の食材なのである。
曰く、その変化の中に七つの味が潜んでいる、と云う。
この話を聞いた俺は早速その日の内によく冷やした豆腐を用意し、試食した。無論、醤油などは一切用いない。
口の中で転がすうち、確かにわずかな温度の変化から、味の違いを感じることが出来た。
しかし俺の凡庸な舌では、そこが限界だった。
三、よくて四。俺が感じ取れる味の変化とはその程度のものだったのだ。
もしも味覚が発達した、例えば世に食通と謳われるような優れた味覚の持ち主であれば、この微細な変化を感じ取れるのではないか。
俺が話の結びに語った仮説に、オデットは目を輝かせて飛びついてきた。
己の舌には絶対の自信を持ち、世のありとあらゆる料理を是非で切り捨ててきた批評家。
そんなオデットにしてみれば、味覚の試金石とも呼べる料理・豆腐の存在は実に興味深いものであったに違いない。
無論、そんな心のひだを的確に刺激する話を選んで話したわけだが、それにしてもオデットはまんまと俺の術中にハマってくれた。
豆腐に心奪われた女は今日という日を待ち望み、指折り数えて待っていたのだ。
オデットの中で既に神話と化した長方形。
豆腐の麗しき美食の刃がオデットの口に迫ろうとしていた。
■ ■ ■
「一応、ソースはかけてないんだが必要か?」
「いいや、私もヤマトと同じ状況で食べてみたい」
自家製醤油の入った瓶を形だけ勧めながら、思った通りに断るオデットの姿に内心、含み笑いだ。
話をした当時としては少しでも和食に興味を持ってもらおう。そんな軽いサービスのつもりだった。
しかし、事ここに至って、その布石が思わぬ価値を発揮しようとしている。
渾身の味噌汁が不発に終わってしまった今、決して失敗は許されない。
この状況下において、オデットの中で膨らんだ豆腐のイメージは思いがけぬ追い風だった。
「そうだヤマト。一つ、賭けをしないか?」
ふいに、オデットは何かイタズラでも思いついたように微笑んだ。
品行方正、公明正大な人物として知られた女だが、仲間内では時折、このように子供っぽい一面を出すことがある。
「賭ける、って。何を?」
「たしかヤマトは四つまでしか豆腐の味が分からなかったのだろう?」
「……ああ、確かに俺はそこが限界だった」
「なら、それよりも多くの味を感じ取れたら私の勝ち、出来なければお前の勝ち、というのでどうだ?」
思いがけぬ趣向に思わず唸った。
なかなか面白い事を考える。いささか不遜な物言いではあるが興味をそそられたのも事実だ。
しかし俺の返答を待たず、オデットは夢中になって続けた。
「負けた方は、その、勝った方のために毎日食事を作る、というのは、どう……?」
はにかみながら、オデットは言った端から恥ずかしがって、俺から顔を背ける。
何を恥ずかしがっているのか分からない。しかし、俺はさらに首を傾けた。
そもそも、これは賭けが成立していないんじゃないか?
「…………よし。賭けは成立だ」
そんな俺の懸念を知らず、オデットはもう賭けの了承を得たような口ぶりだった。
思い込みが激しく、時にこうして勝手に話を進めるのはオデットの悪癖だ。
だが俺は特に諌める事もせず、その暴走をあえて見守ってやることにした。
なぜなら、どちらの結果が出ても、俺にとってそう悪くない未来が見えた。
もしオデットが敗北し、毎日の食事を作るとして、ひとたび和食の味を知ってしまえば、この下賎な世界な料理など口にするに値しない事は明白である。
もしオデットが勝利したとしても、日夜、和食三昧の楽園への誘惑を断ち切れるはずもなく、前言を翻すに決まっている。
豆腐の味を、和食の味を知ってしまったオデットが、俺に毎日の「和食」を要請するのは当然の帰結であった。
どう転んでも面白い顛末になる。俺の中で和食の天使がささやいていた。
何より、オデットの中で豆腐という料理のイメージがすでに確固として築かれつつある事に、俺は愉悦した。
美食には、時として『物語』が必要になることがある。
それは市販の食品をただ漫然と食べるよりも自家栽培で手塩にかけて育てた野菜の方が美味しいように、その影響は顕著だ。
実際には豆腐に七つの味など存在しないかもしれない。
しかし、人が信じる時、時としてそこに真実以上のものを見出す事もある。
「なんだか緊張するな……!」
豆腐を前に自らの舌が試される。
そんな物語の舞台上で、果たして誰がその味を拒む事が出来るだろうか。
「いいから早く食えよ」
「では!」
豆腐に緊張するオデットに対して苦笑するフリをしながら、実際は鼓動が早鐘を打っていた。
オデットの手に握られたスプーンが静かに豆腐の均衡を崩し、その一部を突き崩す様を凝視する。
豆腐は美味い。
これは至極、当然の結論だ。
さぁ、壇上で歌え千両役者。この貧しい味覚の世界に高らかに和食の賛美歌を奏でるのだ。
そして、ついに豆腐の一部がオデットの舌先に踊った。
「…………どうだ?」
たまらず俺はオデットに問う。
どうだ。美味いだろう?
「…………」
オデットはもぐもぐ口を動かしながらも、答えない。
その表情からその内心をうかがい知ることが出来ず、ぎゅっと握った手にも汗がにじむ。
美味いだろう。美味いと言え。
俺の困惑をよそに、オデットは再びスプーンを豆腐に向かって伸ばした。
もう一口。ぱくり豆腐を頬張るその姿に、歓喜の予感が怒涛となって押し寄せていた。
そうだろう。そうだろう。思わずもう一口と食べたくなる美味さ。旨さ。
それこそが和食の本懐であり、和食の本質とも言え――――。
「……味がしない」
…………どうも、今日の俺の鼓膜は絶不調のようだった。
ありもしない言葉が聞こえ、ありえるはずのない幻聴が耳をつく。
思っていたより、俺は長い戦いの日々に疲れていたのかもしれない。
あるいは和食を再現するための研究に血道を上げすぎたのか。
そうだ。そういえば奥の棚に古の賢者・デオキシリボカクサンが調合した秘薬があったはずだ。
あの秘薬は打ち身、擦り傷によく効き、どころかキレ痔、勃起不全にも効能があるそれはそれは霊験あらたかなもので。
「なぁ、ヤマト。これ、味がしな……」
「んなワケねえだろおおおおおおおおッ!!!」
俺の怒髪が天をついた。
「えっ……」
「お前なんつった? 今、なんつった?」
この腐れポンチが。どんなイカレ舌を搭載してたら豆腐の味がしないなんて感想が出て来るんだ。
豆腐に七つもの味があるかは知れない。しかし、それでも豆腐にはそれ自体の濃厚な旨味がある。
それすらも分からない?
そんなことは、ありえない。ありえるはずがない。
「味が、しない? おかしいだろ。どうやったらそんな感想が出て来るんだ。この場面で? ええ?」
「でもいくら食べても味が……」
「だからさぁ、だからさぁ! あっ、あっ、いや待て。ちょっと落ち着こう。もう一口食べてみ?」
オデットは俺の指示通りに、再び豆腐にスプーンを伸ばす。
かろうじてテーブルをひっくり返さなかったのは、そこに豆腐があるからだ。
でなければ、こんなあばら小屋とっくに吹っ飛ばしてる。
「…………ヤマト」
豆腐を口に含んだオデットは激昂する俺を哀れむかのように言う。
毅然とした態度は、幾度となく戦場で見た凛々しき白騎士の姿だった。
「君の誇りを傷つけてしまったのなら、謝る。しかし……」
「御託はいい」
そんなクソにもならない謝罪はどうでもいい。
今、俺が聞きたい言葉はそんなもんじゃない。
今、貴様がすべき事はたった一つ。
「豆腐を食べろ」
有無を言わさぬ言葉の迫力に圧倒されたのか、オデットは不承不承、豆腐をもう一度、口に運ぶ。
唇をもにょもにょ動かしながら、和食の芸術品をその口に収めながら。
しかし、やはりその表情は冴えない。オデットは首を振った。
「……やはり、味がない」
「そんなはずがあるか。よく味わってみろ」
「しかし……」
美食家として恥ずべき失態を晒しておきながら、この女はなおも居直ろうとしてやがる。
そこで俺はかねてよりの気がかりを、とうとう口にした。
「……ひょっとしてお前、味オンチなんじゃねえの?」
「なっ……!」
やはりそうとしか思えない。
思い返してみれば、さっきの味噌汁の味もなんら問題はなかったはずだ。
家々に味噌汁の味あれど、そこに好みの違いはあれど、しかし、美味、不味の違いは明確だ。
「……ヤマト。いくらお前でもその侮辱は許……!」
「事実だろ。豆腐の味も分かんねえくせに」
生意気にも口答えしたはいいが、図星を突かれるとオデットは短くうめいて再び萎縮した。
こうなったら徹底的に味が分かるまで豆腐を食わせ続けてやる。
「おら、もう一度食ってみろ」
「もうこれ以上は……」
美味い。不味い。
料理を食った時に出る感想はこの二つだけだと思っていた。
だが言うに事欠いて「味がしない」だと?
ふざけた舌を持つのも大概にしろ。
「いいから食え」
「うぅ……」
「どうだ、美味だろ? 奥深い滋味がするだろう?」
オデットは無言で首を振る。
俺はその情けない姿に心底呆れて、溜息をついた。
「…………あのなぁ、『一匙を識る舌』さんよぉ。お前、旅の途中でさんざん俺に自慢してたよな?」
一匙を識る舌。
それは以前、オデットが塩一匙の違いを持つスープを見事に利き分けた事で得た、数ある名声の一つである。
かつてその一事を俺に語った際、恥ずかしそうに、しかしどこか自慢げであったことは記憶に新しい。
だが、今のオデットに即断即決した逸話の面影はない。
「塩の違いが分かるんでちゅねー。すごいでちゅねー。でもなんで豆腐の味が分からないんでちゅかー?」
「……豆腐には……味が……」
「まーーーだ、言ってんのか! この味音痴ッ! いいか、見てろ!」
この女、まだ塩の味が分かっても豆腐の味は分からないとぬかしやがる。
いくら煽ってもオデットはうつむいたまま、屈辱にうち震えているようだった。
俺は構わず、用意した別のスプーンを使い、豆腐をすくって食べて見せた。
「うん、美味い! なんて濃厚な味わい! 含まれているリポキシゲナーゼが良い仕事してますね!」
いや、この世界の豆にそんな成分入ってるか、知らないけども。
一息に含むと清廉な瑞々しさが舌の上で踊り、口の温度で蕩けてまろやかな舌触り。そして歯ですり潰すと、えも言われぬ味わいが舌を優しく包みこむのだ。
この味が分からないなんて、本当にこいつはどうかしてる。
「なぁ、なんでこれが分かんねえんだよ、お前」
「…………」
オデットはなおも答えない。
いつも毅然とした白騎士・オデットにあるまじき姿。
しかし、俺はこの姿に見覚えがあった。
これはオデットの癖だった。
己の名誉が傷つけられた時、己の誇りを傷つけられた時。
決まってオデットはこんな風に物言わぬ石になる事がある。
しかし、それは無抵抗の印ではなく、急激に感情を爆発させる前兆に過ぎないのだ。
以前、ガルンベ城の一件でも、この奇妙な感情の満ち引きを理解せず一歩踏み込んでしまったのが大喧嘩の発端だった。
以後、俺はオデットがこの状態になると身を引いて、互いの友情を保ってきた。
だが、それも今日までだ。
喧嘩上等。絶交上等。
相手が剣を抜いてくるなら、こっちも剣を抜く覚悟だ。
「よくも『賭け』なんて抜かせたもんだ。お前もそう思うだろ?」
「…………」
「負けたほうが勝った方の食事を毎日作る、だったか?」
「…………」
けっこう煽ったつもりなのだが、それでもまだ爆発しなかった。
オデットは思ったより辛抱強く、俺の予想していた抜剣ラインはとうに過ぎている。
そこで俺は駄目押しとばかりにオデットをなじった。
「馬鹿舌女の料理なんぞ食えるか。冗談も休み休みに言え」
そこで、オデットの気配が動いた。
来る。
食卓をひっくり返し、袈裟斬りに一閃。それをすかさず躱して腹にまず一発を入れる。
俺は脳内でオデットの取る戦術を読み、その上を行こうと画策する。
オデットの戦い方は百も承知。しかしそれは相手も同じ事。この勝負、先に相手の行動を読み切った方が勝利する。
さあ、感情を爆発させてみろ。
怒りに捉われた単調な動きに見事カウンターを決めて、豆腐を侮辱した愚か者に正義の鉄槌を食らわせてやる。
「……び」
ここまで無言だったオデットが言葉を発する。
それが始まりの合図になる。
――――はずだった。
唐突だが、オデットは様々な戦場を駆け抜けながら一度として挫けぬ勇姿を称えられ、『鋼鉄の戦乙女』と呼ばれた事もある。
事実、厳しい戦いを幾度となく経験しながら、仲間が絶望する中でも一人、周囲を鼓舞し、奮い立たせてきたものだった。
「――――びえええええん!」
その『鋼鉄の戦乙女』が、泣いた。