第2話:即解の賢者・ソマリ
「…………はぁ」
一通り汚れた床の掃除を終えて、俺はひとり自己嫌悪に陥っていた。
あらためて先ほどの出来事を振り返ってみると、反省すべき点がいくつかあった。
まず体調が良くないアルレンサに油っこいカツ丼を出してしまったという点。
体調が優れない状態で食べる油物はたしかにキツいものがある。
相手の不調に気付かず、嘔吐させるまで追い込んでしまったのはどう考えても俺の責任であり、そこは大いに反省すべきだった。
次にアルレンサの陰口を叩いてしまった件。
かつて共にあの戦場を駆け抜けた仲……いや、女性に対して、バカエルフはないだろう。
いくら頭に血が昇ったとはいえ、あれは言ってはいけない言葉だった。大いに反省すべきだ。
そして次に。
次に…………。
いや、そんな事があるはずはないとは思う。
しかし、万が一の可能性を考慮するならば、やはり、そこにも着目しない訳にはいかなかった。
まず世界の大前提、大原則として、『お米は美味しい』ものである。
一度食べれば繊細に散らばりながら口一杯に瑞々しさと仄かな甘味を伴って、天下万民を幸せに導いてくれる奇跡の食品。
それが『お米』だ。
だが、俺の住んでいた世界にもごくごく一部の地域に、そんなお米を好まない連中が存在していたのも事実だ。
エルフは元々、森で暮らす民族な為か、狩猟が盛んで肉食文化ばかりが栄えていたらしい。
そんな大味好みの連中にお米の偉大さが理解できなかったとしても仕方がないのではないか。
「エルフの馬鹿舌にゃあ勿体な……おっとイカン」
影で女性を貶める発言は俺の品位を損なう。気をつけよう。
いつまでも過去に捉われるべきではない。古の大賢者・デオキシリボカクサンもそう言っていた。切り替えていこう。
なに、気にする事はない。手段はいくらでもあるのだから。
和食は世界に誇るべき偉大な食文化。その包容力は桁違いであり、相手に合わせた臨機応変な対応も可能なのだ。
「やっぱ、そのまま出したのが拙かったんだな」
そこで俺は閃いた。米をそのまま出すのではなく、一手間加えるとしよう。
それはかつて俺がいた世界でも大絶賛され、世界各国をあまねく侵略した奇跡の調理法。
この料理があれば、いかなる者も和食の前にひれ伏すに違いなかった。
幸いにもアルレンサが早々に帰ってしまった為、次の客が来るまでにはまだ時間がある。
丁度よく例の料理に使う調味料も手元にあると来たら、これはもはや神の配剤であるとしか言いようがない。
「まったく。運がいいぜ、ソマリのやつ」
俺は次に訪れる幸運な客の顔を思い浮かべながら、手早く次の料理の準備に取り掛かった。
■ ■ ■
「…………どうも、ごぶさた」
目深にフードを被った少女は、覇気のない声で挨拶した。
しかし、この素っ気ない応対もいつもの事だ。相変わらずな彼女の様子に俺は苦笑した。
「久しぶりだな、ソマリ」
彼女の名はソマリ。
七山の賢者にして暁峰の三賢、さらに古の大賢者デオキリシボカクサンの血を受け継ぐというハイブリッド賢者様だ。
頭が良すぎて何を考えているのか分かりにくい奴だが、長い付き合いのお陰でなんとなくこいつがどういう奴なのかは理解しているつもりだ。
元気がないのはいつもの事。……だが、一応の確認はしておこう。
「ソマリ、体調は万全か? ひょっとして気分が悪いとか腹部に痛みを感じるとか、そういう事はないか?」
前回の失敗を踏まえて、客の体調管理も考慮しておく必要がある。
そんな俺の問いかけに、ソマリは「元気」とこれまた素っ気なく答えて、長いローブの袖先で口元を押さえた。
「訳が分からない。だから、ヤマトは面白い」
ソマリはたまらなく愉快であるかのように、クスクスと笑っていた。
深くかぶったローブの奥に、深藍色の大きな瞳が見え隠れする。
かつて、ソマリはその怜悧さ故に、頭脳が明晰でありすぎたが故に周囲の人間がみんなありきたりで下らなく、どこまでも退屈なものとして写っていたそうだ。
だから世界滅亡の危機もどこ吹く風とやらで、力はあるのに働かないというまったく困った奴だった。
それを何度も何度も説得して、拝み倒し、ようやく力を貸してもらえたというのが俺たちの面倒な馴れ初めだった。
「ふふ、ふふ」
もっとも、当人は「ヤマト個人に興味をそそられたに過ぎない」とも言っていた。
実際、何が面白いのか分からないが、こうして俺の一挙手一投足に意味不明な笑みを投げかけるのが彼女の常だった。
そこで、ふいに時が止まったようにソマリは笑い声を止めた。
「……当初の目的を忘れるところだった」
この独特なテンポもソマリ特有のものだ。
出会った当初は困惑させられたがもう慣れたものだった。
ずいと背伸びをして、俺の目をまっすぐとした視線で射抜いてくる。
「……ヤマト。私の前にアルレンサが来ていたはず」
アルレンサ。今は聞きたくもない名前に思わず歯が軋む。
そんな俺の様子をつぶさに観察するように、ソマリはじっと瞳をそらさない。
「…………」
見つめ合ったまま、しばし奇妙な間が生まれた。
微妙な俺の表情をじっと見た後で、ソマリはさっと身を翻す。
「交渉が決裂したのなら、いい……」
多くは語らずともおおまかに事態を察してくれたようだった。
言葉にはしないが、ソマリもまた自分の国に俺を招きたがっている事は理解している。
その結論を出すための食事会でもあり、当初の目的を忘れていたのは俺もまた同じだった。
「ソマリ、ひとまず飯でもどうだ」
「……うん、いただく」
まずはこの若き賢者様にご馳走を振る舞うとしよう。
込み入った話はそれからだ。
「イキのいい魚が手に入ってな。釣りたてだぜ」
「……魚。いいね」
何が可笑しいのか、ソマリはまたクスクスと笑いながら椅子に腰掛けると、暑苦しそうにフードを脱いだ。
形の良い頭のアクセントのように、忙しなくぱたつきながらソマリの猫耳が姿を現した。
普段はフードを深く被っているために分かりにくいが、ソマリの頭には獣の耳が生えている。
これは猫の賢者の血を引く為であるのだが、その耳の存在を知る者は仲間内でもごくわずかだ。
コンプレックスという訳でもないのだろうが、ソマリは心を開いた相手の前でしか頭を覆うフードを取らなかった。
何気ない仕草ではあったし、ソマリ自身に他意はない。
だが、その深い信頼の証に俺は心の中が暖かくなるのを感じていた。
おかげでアルレンサの事はひとまず忘れ、ソマリの為に美味い料理を作ってやろうと気分を切り替えることが出来た。
彼女が猫の獣人の血を引くことを知る者は少ない。
しかし、彼女が魚好きであるという事実は広く知れ渡っている程に、ソマリは魚に目がない。
そんな彼女の為に用意した料理は、当然ながら魚である。
和食に魚料理は数あれど、その代表格は「刺身」である、と俺は考える。
無論、焼いたり煮たりも好みだが、この世界には既に似た調理法が存在していた。
この世界においては前人未到の領域である和食を堪能してもらうには、やはり「刺身」しかない。
しかし、当初はソマリにもこの料理を楽しんでもらおうと考えていたが、先の失敗が引っかかっていた。
刺身とご飯というゴールデンバッテリーさながらの連携は、もはや和食の王道である。
海に囲まれた島国の魚に、大地を満たす黄金の米。この料理はまさに我が祖国を象徴する逸品といっても過言ではない。
美しい。なんて美しいマリアージュなんだ。
だが――――。
だがしかし、それでも俺は不安を拭いきれなかった。
そこで考え抜いた末に、俺はとうとう和食の最終兵器に御登場していただく事にした。
それは世界を制覇した料理。今も各国から賞賛を浴び続ける、和食の征夷大将軍。
「ああ、楽しみにしてろよ。なんたって今日出すのは『お寿司』なんだからな!」
お寿司。
新鮮な魚の切り身を一口大の酢飯の上に乗せて醤油でいただく。
かつて祖先が生み出し、今は海を越え、世界を侵略する驚異の和食リーサルウェポン。
「……オスシ。名称から形状、味覚ともに予想できない。たのしみ」
ぼそぼそ生気なく喋りながら、しかしソマリの瞳はらんらんと輝いていた。
ああ、そうだろう。なにせソマリは未だ知らぬものを見聞きするのが大好きなやつだった。
好奇心をそそられたのだろう。厨房に消える俺の背中に、期待を孕んだ視線が痛いほどに突き刺さっているのを感じる。
待ってろよ。ソマリ。
今、世界で一番美味い魚料理を食わせてやるからよ。
■ ■ ■
「出来たぜ、ソマリ! 見るがいい、これが『お寿司』だ!」
残念ながらこの世界にはマグロやサケといった魚類は存在しない。
しかし、俺は幾つもの研究を重ねた結果、それら食材とほとんど遜色ない味わいの魚類の発見、調理に成功していた。
故に、俺はこの料理をどこに出しても恥ずかしくない「お寿司」だと断言する。
唐突だが、ソマリはその聡明さから各国に「一問即答の賢者」と謳われ、敬われてきた。
実際にこの長い付き合いの中でソマリが思い悩む姿を見た事がなく、多くを語らずとも状況を察する高い知性を持ち合わせていた。
如何なる状況においてもその知性は鈍ることなく、複雑に見える諸問題もソマリは一刀両断にて切り捨ててきた。
そのソマリが、今。
「………………なにこれ」
およそ人生で初めての困惑を顔全体で表現していた。
上から眺め、横から眺め、さらにつっついて魚肉の弾力を感じ、それからソマリは改めて首をひねった。
「…………あっ」
ようやく何かを思いついたように、ソマリは手を叩く。
すると、ソマリは見慣れたいつもの仕草でクスクスと笑いだした。
「ヤマト、冗談にしては突拍子もなさすぎ」
「いや、冗談じゃないんだが……え、ていうか、何が冗談?」
俺の返事にぴたりと笑いを止め、またじっとこちらを見つめ返すソマリ。
その目に嘘がない事を感じ取ったのか、ソマリの顔から表情が消えた。
「……本気?」
「うん。てか、え? 何が?」
ソマリは無言で、卓上に並ぶ美麗で美味しそうなお寿司を指差した。
新鮮な魚肉が美しい色彩を描き、卓上に満開の花畑が広がっているようでもある。
これ以上に洗練された料理は世界広しといえど、お寿司だけなのではなかろうか。
俺がそんな美しい光景に心を奪われた瞬間だった。
「…………こんなもの、料理と言えない」
――――今、なんつった、こいつ。
気のせいだろうか。どうも今日は耳の調子がおかしい。
幻聴が聞こえてならない。
「未調理の魚肉、白い虫に似た何かの塊、そして独特の腐敗臭」
「いや、それ酢飯……」
「――――これは、およそ人間が食べるものではない」
聖剣・ブランドニルグ三連斬り返しからの局地雷撃破砕呪文。
ひるむ相手の顔面に神鳴正拳突きを叩き込み、ゆるんだ口元から無理やり顎を掴んでそのまま技でもなく力任せに放り投げる。
大地に叩きつけた後は頭部に必殺究極秘剣技・デイターンと無限完済魔法・ドエンドを交互に連発し、粉になるまで手を休めない。
俺は脳内で目の前にいる『敵』を大地の塵に返すことで、ようやく正気を保った。
落ち着け。落ち着け。
相手は初めて見る料理に興奮しているだけだ。実際に食ってみればその魅力の虜になるはずなんだ。
そうだ。現にお寿司はそうやって世界を支配してきたじゃないか。まずは俺が手本を示してやるべきだ。
そう判断した俺は努めて平静を装いながら、寿司をつかんだ。
「いやいやいやいや。ほら、こうやって食うんだよ」
醤油にちょんと漬け、放り込むように口に入れると、ネタの旨味とシャリの清々しさが口いっぱいに解けていく。
たまらず噛み締めると刺身と米の旨味がじゅわりと融和し、そこに醤油の味がアクセントとなって互いを引き立てあう。
「か〜、美味ぇ!」
このマグロに似た味わいの魚を探すのにどれだけ労を要したか。
初めての味わう異世界人向きにワサビは抜いたものの、ほぼ完璧と言っていい再現度の高さに俺はあらためて舌を巻いた。
その苦労に見合うだけの幸せが、今ここにある。
しかしこの幸せは一人味わうには大きすぎる。理解の浅い、この哀れなる同席者にも同じ幸せを味わってほしい。
「……ヤマト、ひとつ確認を取りたい」
切に願う俺の心とは裏腹に、ソマリはいっそう冷えた声で言った。
この声色には聞き覚えがある。初めてソマリと出会った時の、全てに興味が失せていた頃の彼女が発していた声だ。
「その料理がいつもヤマトの言っていた『和食』、で間違いない?」
「ん、なんだそんな事か」
いつも変な奴だが、今日に限っては改まって妙なことを聞く。
俺ははっきりと断言した。
「ああ、これが和食ってやつだ。特にこれは御馳走の部類で、貧乏だとなかなか食べられな……」
「…………チッ」
「えっ」
ソマリの不快感が最大限に表現された舌打ち。
これは初めて耳にする音だった。
「ソマリ……?」
「……私は」
「はい」
思わず気圧された俺は意味も分からず返事をしてしまう。
それがソマリの口火となった。
「かねてからヤマトに興味があった。それはひいてはその後ろにあるヤマトがやってきた異世界への興味だったと言っていい。ヤマト自身の奇妙な行動もそれなりに興味深かったが、私は何よりヤマトの語る文明社会というものにひどく憧れていた。この下らなく雑多で陳腐な世界と違い、純粋な人間種のみで構成された社会がどのような発展を遂げ、どのような文化を構築するのか。何度も想像し、何度も考察し、何度となく熟考を繰り返してもその先を行く世界というものに私は魅せられていた。この世界の文明を<層>とするなら、それを積み重ね、積み重ね、いくら想像の中で積み重ねても、それでも到達しえない未知の<領域>。ヤマトが語る情報は全てが新鮮で驚きを伴って私の中に響き、幾度となく私を魅了した。しかし私は愚かだった。愚かだったのだ。愚かにも情報の基本的性質を見落としていた。情報は時に伝達者によって誇張され、歪曲され、その品質を大きく損なうことがある。それは当人に悪意があるかどうかは問題ではなく、場合によっては善意のみであっても同様の損失は起きる。情報はひどく物質に似て、人という過程を経る毎にその性質を大きく変化させ、時には劣化し、磨耗していく。これはヤマト自身の善良性を無自覚に信頼しすぎたのが私の失敗。現に今日、ヤマトが提示した和食の実態とは私の想定する文明よりも遥か後塵を拝している。そもそも未調理の魚肉を食する危険性を考慮せず、またナイフやフォークといった食器を使用せずに手づかみで食べる様式はおよそ文明的とは言えない。ヤマトから聞かされた情報との差異は著しく、どちらの情報がより正確であるかを判断するなら、目の前にある事実を考慮しないわけにはいかない。決してヤマトが悪いわけではない。愚昧にも人の言うことをそのまま真に受けてしまった、私自身の愚かさこそが元凶と言える」
「はい……?」
早口すぎて何言ってんのか分かんねえよ。
というか、こんなによくしゃべれたんですねソマリさん。
「つまり、どういう事?」
「…………興味が失せた。帰る」
信頼の証だった猫耳を再びフードで深く覆い隠すと、あとは一瞥もくれずにソマリは去っていった。
その場に一人取り残された俺はソマリの後ろ姿を未練がましく見送ってから、食卓に残った寿司をひとつ頬張った。
「やっぱ美味いなぁ……」
やはりこれは成功作だ。
どこに出しても恥ずかしくないほどに、完全なる『寿司』である。
そのあまりの完璧さに、鼻元にほとばしるものを感じるほどだ。
その味は、涙がこぼれるほどに刺激的だった。
「なんでかな。ワサビなんて入れてないのにな……」