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第13話:不憫で不運な役人・クレス(前)

 それからどれだけの間、そうしていたのだろう。

 俺は暗がりの中、まるで彫像のように固まっていた。

 そして時折、隙間風のように渇いた笑い声を発するだけのものになっていた。


「…………へ、へへ……ひ……ひひっ」


 もはや笑うしかない。

 その姿を見れば、人はおそらくこの俺を指して狂人の類と見なすだろう。

 だが、実際に狂っているのはどちらなのか。

 

 この世界は、狂っている。

 骨身に沁みてよく分かった。この世界はおかしい。

 王侯貴族も、市井の民も、皆ひとしく狂っている。

 

 和食は美味しい。

 これはどの世界においても決して揺るぐ事のない法則だ。人智の常識だ。世界の不文律だ。

 なのに奴らときたら、どいつもこいつも。


 確かに、多少の行き違いがあった。

 それは認めよう。しかし、和食はそんなものを軽々と覆すだけの力を奥底に秘めているはずだ。

 最初は抵抗があってもあら不思議。

 口が慣れれば慣れるほど、その輝きはいや増して人の心を虜にするのである。


 ――――ヤマト、これ腐ってたよ。


 あの女の声と共に、何の罪もない納豆が無慈悲に叩きつけられる音が、再び耳にこだました。

 腐っているのは、果たしてどちらなのか。

 

 目が腐っている。頭が腐っている。舌が腐っている。

 この世界は腐敗している。

 もうどうしようもない。端から端まで腐っていたのだ。


 だいたい、何が腐っている、だ。

 そもそもこの世界にだって発酵食は存在していたはずだ。

 なのに何故、納豆の魅惑的な芳香に気が付かないのだろうか。


 フィオナは好んでかじっていた漬物の中にだって発酵食品はあったはずだ。

 ああ、そうだそうだ。思い出してきた。

 そういえばオデットのアホンダラが自慢げに語っていた。

 

 『カラック』とか言ったか。

 ヤギに似た生き物から取る乳を発酵させた、そのままチーズのような食物だ。

 やれ地方によって味が違うだの、やれ食わせた草の種類で風味が違うだの長々と講釈を垂れていたものだ。

 

 さして高級品というわけでもなく、どの街でも酒場で提供されていた事から見ても庶民の手に届かない代物ではないはずだ。

 この村でもあのヤギに似た、間の抜けた顔の畜生を見かけたはずだから、ひょっとしたらこの地域でも作っているのかもしれない。

 だとしたら納豆の良さに気づいても良さそうなものだ。まったくもって度し難い。


「……きひっ……ヒハハ……」


 もはや笑うしかない。この世界は真に狂っている。

 チーズは良くて、納豆はダメ。こんな馬鹿げた話があっていいだろうか?


 そもそもチーズだって俺の国に入ってきた時には一悶着あったという話だ。

 しかし結局は受け入れられたのだから懐が広いという他ない。今では立派な和食の食材としても生かされつつある。

 かの岡倉天心も「西洋は東洋を受け入れない」みたいな事を愚痴っていたな。

 そういえば素晴らしき納豆すらも世界では愛されていなかった。俺の元いた世界もやっぱり狂ってい――。


「――――ちょっと待て」


 今、俺は何を思った? 何を考えた?

 ――この世界は狂っている? いや。 

 ――岡倉天心? いや。

 ――チーズで一悶着……?


 思い出せ。思い出せ。

 チーズという食材が俺の国でも珍しかった頃の話だったはずだ。思い出せ。

 確かいつもブリの照り焼きを注文する客のおっさんが清酒を片手に語っていたウンチクだ。

 

 そう、それはかつてチーズが俺の国に初めてやってきた時のエピソードだったはずだ。




 ■  ■  ■



 

 当時、鎖国政策を執っていた我が国において、海外から持ち込まれる品物のほとんどは一箇所の土地に集められていた。

 他の舶来品と共に貿易船に積み込まれ、いくつもの海を渡り、遥か長き旅路の果て。ついにそれはたどり着く。

 遠い異国の地よりもたらされたその名を、チーズと云った。


 チーズを運んできた貿易商人は、どうやら新顔であったらしい。

 仲間の口利きで時の奉行に目通りが叶い、当時、我が国では稀な珍品として積荷のチーズを一部、献上した。

 しかし、これが悲劇の元となった。

 

 献上された奉行は見慣れぬチーズに上機嫌だった。

 その後、奉行は同僚たちとの酒宴のつまみとして、このチーズを振る舞った。

 ところが酒宴の最中、参加した全員が激しい嘔吐と腹痛を訴え始め、酒宴はたちまち阿鼻叫喚の巷と化した。


 酒宴の主催者であった奉行は腐ったゲテモノを食わされたと激怒し、件の貿易商を告発した。

 貿易商は抗議したが聞き入れられず、結局、打ち首こそ免れたものの国内への立ち入りを禁じられ、泣く泣く母国へと帰って行った。

 もちろん商品として運んできたチーズは全て役人の手で廃棄された。

 

 長い船旅で劣化した粗悪品を売り込もうとした欲深な商人が、因果応報で大損をこいた。

 そうした教訓を含んだ話として、この話には一応のオチを付ける事も出来なくはない。


 だが、この話には後日談がある。

 貿易商が追い出されてしばらくの後、奉行の妻が涙ながらに告白した。


 酒宴が始まる数刻ほど前の事。

 奉行の留守に妻はどうしても舶来の珍品への興味を抑えきれなくなってしまった。

 匂いにたまりかね、妻はとうとう献上品のチーズの一部を食べてしまう。

 共犯者を欲したのだろう。その場にいた数人の息子も、母の勧めで同じくチーズをこっそり口にしていた。


 しかし、その妻も、子供も、誰一人として身体に異常を来さなかった。

 滋養のある食品を口にし、かえって体調が良かったほどだったと云うのだ。


 果たして、チーズは痛んでいたのだろうか?

 疑問は尽きないが、もし食品として問題なかったのであれば、なぜ奉行とその同僚は嘔吐したのか?

 



 ■  ■  ■



 

 チーズを運んだ貿易商の姿が、なぜか自分に重なるようだった。

 俺にその話を聞かせてくれた酔っ払いは四方山話をこう結んだ。

 「日頃から食い慣れないもんなんぞ滅多に口にするもんじゃねえってこったな」と。


 ――――食い慣れないもの。

 人は先入観の生き物である、とは誰の言葉だったか。

 

 匂いに惹かれて食した。という事は、奉行の妻はチーズを「美味しいもの」と認識して食していた可能性が高い。

 不思議なことにこういった食品は女性の好みに合いやすく、あるいは抵抗も少なかったのではないかと推察される。

 同じく妻と同席してチーズを食べた子供達も同様である。

 子供は親の真似をする。親が美味しそうに食べれば、子供はそれに追従するように喜んで食べてしまうものだ。


 一方、酒宴に参加した奉行たちはどうだったか?

 みんなチーズを珍品として扱い、「食い慣れないもの」を食べようとしていた。

 事件当時の雰囲気を伝えるものは何もない。

 なので、ここからは完全な推測になってしまうが、当時その場にいた奉行たちはチーズの臭いに一種の警戒感を抱いて食したのではないだろうか。

 

 神妙な空気の中、度胸試しのようにチーズを口にする。

 初めて味わう食感や味覚、さらに酒による酩酊も加わる。

 すると、そこにありもしないはずの嘔吐感や腹痛を幻覚してしまったのではないか。


「――――そうか、そういう事か!」

 

 その天啓とも呼ぶべき示唆に、俺の頭上に雷鳴が鳴り響いたかのような衝撃が伝った。

 今になってしまえば、なぜこんな当たり前のことに今まで考えが及ばなかったのか不思議に思うほどだ。


 この世界には、和食を食べる風習がない。


 俺が初めて作ったのだから、当然だ。

 当たり前の話だった。


 食とは、文化である。

 いかなる料理にも、その裏には文明が生み出してきた歴史と価値観が存在する。

 

 しかし、この世界において和食にはそれがない。

 俺という異世界人によって唐突に生み出された食文化であり、異次元からの来訪者とも呼ぶべき未知なる料理だからだ。

 故に、馴染みがない。

 

 むろん使っているのはこの世界の食材なので、探せば似た料理はあるかもしれない。だが、少なくとも俺の見聞した範囲には見当たらなかった。

 料理の歴史とはすなわち、改良の歴史でもある。

 この世界の低俗な、料理と呼ぶにもはばかられる汚物どもと比較して、調理の技法のみで見ても和食はすでに数段飛ばしの高みにあった。

 言ってしまえばこの世界の技術から浮き出ている、オーパーツとも評するべき逸品。

 故に、馴染みがない。

 

 馴染みがなければどうなる。

 未知への好奇心。

 未知への期待感。

 ――――そして、未知への恐怖。


 俺はかつて仲間だと思っていたあの連中との旅の最中、和食を紹介するにあたってこう口述した。

 ――――この世界には存在しない、全く新しい俺の世界の料理、と。


 当時は深く考えずに発言し、ただただやつらの興味を惹くための方便であったのだが、これがマズかったのかもしれない。

 強烈に興味を惹く一方で、いたずらに不安を煽っていた可能性に、俺は気付きもしなかった。


 思い起こせば、旅の途上でオークの肉を使って試しにトンカツを作った時もだってそうだった。

 出来上がった美味そうなトンカツの試食を、なぜか奴らは揃って遠慮した。


 結局、俺とアルレンサの二人で全てを平らげる事になってしまったが、当時は何も考えず、ただオークの肉を毛嫌いしていただけだと思っていた。

 あるいは揚げ物という独特な調理法に面食らったものとばかり思い込んでいた。

 だが事実は違ったのだ。

 アルレンサがトンカツを抵抗なく食していたのは、エルフにモンスターの肉だろうがお構いなしの肉食文化があったせいかもしれない。


 文化。

 食文化。

 そうした後ろ盾があって、人は初めて抵抗なく食事を楽しめるのか。


 不意に視界に眩いものがよぎる。

 ――――朝日だ。


 気付けば不明の闇は朝の光に薙ぎ払われ、辺りの草木は穏やかな一日の始まりを告げようとしていた。

 その劇的な変化は、和食の新時代の訪れを予感させるに十分だった。


 ――――俺は、この世界に新たな食文化を打ち立てる。


 和食に対する偏見をなくし、老若男女問わず、抵抗なくそれらの料理を口にする世界を作り出す。

 この世界に、確固たる和食文化を築き上げるのだ。


 だが、どうする。

 どこかの土地に、馴染みのない和食という食文化を一から馴染ませる。

 言葉にするのは簡単だが、容易な話ではない。何から手をつけていいのかすら見当もつかない有様だ。

 

 いざ奮起して立ち上がってみたものの、ひとまず落ち着くべきかと再び椅子に腰掛けた。

 その時だった。


「…………すいません」


 涼やかな声が、朝鳥のさえずりの合間を縫って響いてきた。

 振り返ると、そこには一人の女が立っていた。


 見知らぬ女だった。

 だが女は、すがるような濡れた瞳でじっとこちらを見つめている。


 これがのちに俺の人生を左右する事になる女・クレスとの初めての出会いだった。

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