第12話:ただの村娘・フィオナ(後)
それからのフィオナは実に手際が良かった。
闇の中をランタンの光が小気味よく踊る。
そうして光が戻ってくると、フィオナは両手いっぱいに小屋に散らばっていた食材を担いで戻ってくるのだ。
分別作業も手馴れたもので、俺が世界各地で発見した野菜の類も多少の汚れや欠損は物ともせず、左の箱に放り込まれた。
フィオナにとって見慣れぬものも多いだろうに、軽く入れ物を覗いて口に入れられそうなものは躊躇なく食料箱へと押し込んでしまう。
その様子はとても頼もしく、やはりフィオナは俺が思っていた通りの女性だった。
いかなる食材にも偏見なく、美味となれば懐広く受け入れてしまう。
俺がその素晴らしさにひとしきり感動していると、再びフィオナが灯りを携えて戻ってくる。
すると、その手に握られていた袋には見覚えがあった。
「おい、フィオナ……」
「ん? なに?」
「お前、それがよく食べ物だと分かったな」
それは和食の肝となる、お米だった。
米と言っても炊かれてはおらず、精米されただけの生米である。
そのまま食べる事も不可能ではないが、この世界においてはやれウジだの虫だのと酷評を浴びせられてきた食材だ。
その有り様にこの世界の住人全てが嫌悪感を抱くものだと勘違いしていたが。
「ん〜、これのこと? コォーリにそっくりだったから食べ物だと思ったんだけど。違うの?」
コォーリとは、この世界における小麦に類似した食材だ。確かに同じ穀物なので米とその形状は似ている。
この世界でも粉に引いて加工し、やたらと歯ごたえのあるパンのような料理にして食するのが一般的だと思っていた。
しかし、問い詰めてみるとフィオナは思いがけない事実を明かしてくれた。
「あたしたちはそのまま煮て食べるよ。…………あの人たちはそんなもの食べないかもしれないけど」
後半に敵意をにじませた「あの人たち」とは、フィオナが何かと敵視している王侯貴族に他ならない。
つまり、俺がかつて仲間としてきた連中は元の形としてのコォーリ、つまりは小麦を知らなかった可能性がある。
様々な知識を持つソマリがその情報を知らなかった事には違和感を覚えなくもないが、そもそも酢の存在にも思い至らなかった愚か者だ。
あるいは食品関連の情報には興味を持たず、全知に思えた膨大な知識にも大きな偏りがあったのかもしれない。
かくいう俺も、この村に起居していた時期があいにくコォーリの収穫期とはずれ込んでいたせいもあってか、この事実を知らなかった。
全くもって失敗としか言いようがない。この事を知っていればもっと別の試みだって考えられたはずだ。
しかし、さらにフィオナの放った言葉は俺の脳天に土星を降り落とす勢いだった。
「そのまま湯通ししてもいいけど、挽いて粉にしても美味しそうだよね、これ」
そうか。その手もあったのか。
小麦粉に慣れ親しんでいる連中に合わせて米粉を使う。
フィオナが何気なくつぶやいた言葉は俺に新たな和食の天地を見せてくれた。
和食に馴染みがないなら、まず食文化をすり合わせ、奴らの次元にまで合わせてやる。
トンカツを好んで食していたアルレンサの例もある。すべての和食が奴らの口に合わないわけではないのだ。
そうして舌を慣れさせ旨味を理解させた上で、改めて和食を提供すれば、また違う反応だって得られたはずだ。
「……ヤマトはなんで泣いてるの?」
不思議そうな表情で俺の顔色を伺うフィオナの姿に、俺は天の使いを見た。
たまらずその手を掴むとフィオナは一瞬驚いたようだったが、手を振り払うまではしなかった。
俺はむせび泣きながらも、感謝の意を伝えねばの一心で言葉をつないだ。
「ありがとう。ありがとう……」
「うん。うん? よかったね? 何か良い事あったんだね。よかったね」
泣き崩れる俺の肩を、フィオナはあやすようにして撫でてくれた。
感動に震える背中を優しく叩いてくれる度、これまで崩れかけていた心が安らいでいくようだ。
そうしている内に涙も枯れ、気が静まってきた。
フィオナはゆっくり俺を抱き起こすと、慈母を思わせる笑みを浮かべた。
「じゃあ、行ってくるね」
そう言ってフィオナは再びランタンを手に取る。
俺が泣きやんだのを見届けて、フィオナは寝静まった赤子から離れる動作で再びランタン片手に闇の中に消えていった。
「…………」
その姿をひとしきり見送ると、俺は途端に先ほどまでの醜態が恥ずかしくなってしまっていた。
どうも、こと和食が絡むと精神虚弱というか心根が不安定になっている気がする。
ことごとく仲間に裏切られ続けたせいもあるが、たやすく気が動転してしまう。
重要な示唆も得たのだし、いま少し冷静に立ち戻り、和食の今後を考えなければならない。
以前とは異なる視点をフィオナから示してもらったおかげで新たな欲が湧いてきていた。
そしてそれは俺自身に大いに喝を入れてくれた。
和食を悲観しすぎてもいけないが、同時に入れ込みすぎるのもよろしくない。
俺は努めて客観的な視点でことを判断していかねばならないのだ。
そうしてあれこれ考えているうちに、またフィオナが戻ってきた。
ところが、その両手に抱えられているモノを見て俺の思考は固まった。
「……なんだ、あれは」
それは小屋を管理していたこの俺ですら、見覚えがないものだった。
だが、ようよう見てみると見覚えがなくて当然と言えば当然だった。
フィオナの両手に抱きとめられている謎の白い物体。
それは部屋壁に埋め込まれていた建材の残骸であり、言ってしまえば瓦礫と呼ぶべき、ただの無機質な物体だったのだ。
食料の選定に夢中になるあまり、今やっている事が小屋の清掃である事をすっかり失念していた。
フィオナは危う気のない手つきで瓦礫をゴミ用の箱へと……。
「ちょ、ちょっと待て!」
俺はたまらずフィオナを制止した。
フィオナはなぜかその瓦礫を、当然のように食料を収めるはずの箱へと放り込んでいた。
「ん、ん? なに?」
「箱を間違ってるぞ!」
フィオナはもともとあまり賢い質はなく、天然の気も否めない性格をしていた。
だがしかし、その行動はあまりに突飛すぎた。到底看過することは出来ず、俺は叫んだ。
しかし、突然怒鳴りつけられたフィオナはというと、一瞬目を丸くしたかと思えば、何がおかしいのか笑い出した。
いよいよ気狂いでも見るような俺の目つきをあざ笑うように、フィオナは言った。
「あはは! ヤマト、これが何か知らないんでしょ」
あっけらかんと答えながら、フィオナは論より証拠とばかりに瓦礫を数枚、つまみ上げた。
そして、何のためらいもなく、その無機物を口の中に放り込んだ。
「お、おお……」
それは筆舌に尽くしがたい光景だった。
よく見慣れた馴染みの村娘が、まるで煎餅でもかじるような音を響かせて瓦礫を飲み下していく。
俺はその有り様をただ唖然として眺めることしか出来なかった。
手元にあった瓦礫がなくなると、フィオナは俺に向かって微笑みかける。
「ね?」
「いや、何がだ」
ここはびっくり人間コンテストの会場かと突っ込み一つ入れたくなるが、どうもフィオナは大まじめらしい。
元からあまり賢い子ではなかったが、俺が去った後の孤独な生活で精神を病んでしまったのかと不安にもなった。
だが、そうではないようだった。
「これ、デレンって言ってね、食べられるんだよ」
明かされてみると、それは建材を兼ねた、この世界の食材だったらしい。
言われてみれば、俺が元いた世界にも壁の中に建材の一環として乾燥物を練りこんでおく文化があったはずだ。
それはいざ食料に事欠いた際に掘り起こし、飢えをしのぐための工夫だったと記憶している。
「つまり……非常食、なのか?」
「そうだよ。はい、ヤマトもお一つどうぞ」
そう言って差し出されたデレンと呼ばれる石のかけらのような代物を俺は無言で受け取った。
手触りは完全に乾いた石材の類だ。表面は粉っぽく、両手で端をひねってみると容易く割れた。
一見して鉱物に見えたが、その切断面には細かな繊維が走って見える。
思ったよりは柔らかそうだ。確かにこれなら歯で噛み砕ける。
問題は味だ。俺は躊躇なくかけらを口に放り込んだ。
「――――」
「……どう?」
「――――――――ぶえッ!」
俺は息を詰まらせ、たまらず口の中に広がったデレンの破片を吐き出しかけた。
その醜態を見て、フィオナが大口開けて笑い出す。
「あはは、はは! やっぱり最初はそうなっちゃうよね!」
「なんだこれ……味がしないかと思ったら、いきなり生臭さが口の中いっぱいに広がって……」
「分かる分かる。初めての人は、うぇっ、てなっちゃうよね」
俺はよろめきながら、丁度いい傾き加減の机の上に突っ伏した。
時として美食が人体に大きな活力を与えるのと同時に、度が過ぎた不味さというものは人体に大いに害を成す。
これだから不味いものは嫌いだ。
嗜好の範囲を飛び越えて、人の心に、その魂に著しい悪影響を及ぼす。
もしも神が何でも願いを叶えてくれるというのなら、俺は元の世界への帰還よりも「不味いもの」の消滅を願う。
ところが、そんな俺の幼稚な考えをフィオナは言葉一つで打ちのめした。
「でも、こんなものしか食べられない時だってあるからね」
「…………」
不意にこぼれたフィオナの吐露に、俺は猛省した。
朗らかに見えるフィオナの横顔にかげりが感じられたのは、ランタンの光加減によるものか。
至極当たり前の事実であるが故に忘れがちな事。
それは人間が食事を取る最大の理由が、逃れえない餓えを満たすためにあるという事。
そんな当たり前の事すら忘れて、美味いだの不味いだのと副次的な尺度で全ての食材を否定しようとした。
俺こそ度し難い、本物の大馬鹿だ。
おそらくフィオナの表情に影が差した理由は、過去、飢餓に喘いだ実体験を想起したからに違いなかった。
多くの食糧を国に奪われ、残されたわずかな食事で飢えをしのぐ日々。
食うものが何もない。
なればこんなデレンすら、ご馳走に思えてしまうはずだ。
俺は今も口の中で悪辣な風味と臭いを発するデレンを丁寧に噛み砕いた。
これは食材であると信じて、それこそがフィオナへの贖罪であると信じて。
俺は目尻に涙すら浮かべながら、何度も何度もデレンを細かく噛み砕いてから飲み下した。
「……やっぱりヤマトは優しいよね」
そんな俺の醜態を見届けて、フィオナは笑っていた。
その笑顔は今まで見たフィオナの笑顔の中でもとびきり輝いて見え、口の中に暴れる不味さが幾分、和らいだ気がした。
なんだろう。今日のフィオナには妙にドギマギさせられる。
冷静に状況を見れば、薄暗い小屋の中に男女が二人きり。
自分が置かれた状況をあらためて思い知ると、途端に気恥ずかしさが湧いて出てきた。
いやいや、そもそも一月近く、一つ屋根の下で暮らしていたじゃないか。
そうやって自分をなだめようとしても、なぜか鼓動は上ずるばかりだった。
「じゃ、じゃあ片付け、続けるね」
フィオナも妙な空気を感じ取ったのか、少しだけ頬を赤く染め、そそくさと暗闇の中へ戻ってしまった。
俺はその後ろ姿に光さえ感じながら、視線は彼女に釘付けになっていた。
「…………幸せの青い鳥」
柄にもなく、そんな言葉が思い浮かんだ。
そうか。そうだったのか。
今まで下らない回り道をしてきたが、全ては彼女の元に辿り着く為だったのか。
今日一日の、あるいはこれまでの全ての出来事が、今日この時の為の用意周到な伏線だったのか。
彼女と共に、この世界に和食を根付かせる。
フィオナはそのために欠かせざる、この上ない人生の伴侶なのか。
そうか。そうだったのか。
なぜ、俺がこうも悲惨な目に遭ってきたのか。
それも全ては彼女の元へ戻ってくる為に仕組まれた運命の糸だったのか。
ならば、悪くない。
俺はこの時、初めて己の運命に天の配剤を見た気がした。
くまなくこの世界を旅したからこそ分かった事だが、この世界にはまだまだ未知の食材が眠っている。
見つけていないわけではない。
ただ、それを食材だと認識できていないのだ。
無論、この世界の住人がそれらを一度も口にした事がない、とは言い切れない。
しかしそれでも未知の宝物は食材としては認識されず、今も野に埋もれている。
つまり、それらはこの世界の住人の口には合わなかったという事だ。
つまり、それらは調理によって新たな食材となり得る可能性を秘めていると云う事だ。
俺の手によって。和食を知る俺の手によって、人類は新たな食の源泉を発見する。
そして、それは飢餓に苦しむ人々を救う事にだって繋がるはずだ。
味覚を広げ、食の可能性を広げる。
それこそが俺がこの世界に送り込まれた真の使命だったのかもしれない。
和食にも数多くの保存食や携帯食が存在する。それらがこの世界でどれだけ役に立つ事か。
もちろん、その研究も欠かしてはいない。
いくつか再現できたものが今もこの小屋の中に散らばっているはずだ。
すぐに広がるとは思わない。
ああ、すぐに人々の口に合い、食卓に並ぶ日が来るとは思わない。
これは一人の人間が早々と成し遂げられる事業ではない。いくつもの年月を経て、そうしてようやく叶う偉業なのだ。
あるいは自分の子、その孫に悲願を託していかねばならないだろう。
その為にも、俺には伴侶が必要だ。妻となるべき女性の存在が必要不可欠なのだ。
フィオナは、その伴侶になってくれるだろうか。
思えば胸は高鳴り、宙を浮くような心地だった。
――――俺、フィオナが戻ってきたら婚約を申し込むんだ。
そんなどこかで聞いたようなセリフを胸に、待つことしばし。
フィオナの持つランタンの灯りが俺の元へ戻ってきた。
俺は大きく息を吸い込んでから、意を決して言った。
「フィオナ、ちょっと大事な話があるんだ。これからの俺たちに関わる重、大な…………」
だが、その言葉を言い終わる前に、にわかに眩暈がした。
告白が尻すぼみになったのは、あの嫌な予感が再来したからだった。
闇から覗いたフィオナは、顔をしかめていた。
それだけならまだ俺は平然としていられたかもしれない。
だが、彼女が恐る恐る手にしていたモノには見覚えがあった。
思わず唾を飲み込むと背筋に嫌な汗が伝った。
そんな俺の不安をよそに、フィオナの耳には俺の声が届いていたようで、こちらを見るフィオナの表情は打って変わって笑顔になっていた。
「ん? ヤマト、何か言った?」
その時、俺はまるで自分の急所をフィオナに握られでもしているかのような、無用な緊張を強いられていた。
いや、事実、それは俺にとっての急所だった。
俺はその食材を心から愛していながら、決してこの異世界の食卓に上げようとはしなかった。
言い訳なら、いくらでも浮かんだ。
――アルレンサの好みじゃないな。
――ソマリから見てつまらないだろう。
――アルレンサには野暮ったすぎるか。
――サラとゾラにこの味はまだ早い。
そうやってひた隠しにし、保護してきた。
もし、それが否定された時、俺の心の奥底にある大事な何かを、完膚なきまでに否定されるような気さえしたからだ。
だが、フィオナなら……。
――フィオナなら好みかもしれない。
――フィオナなら面白がってくれるかもしれない。
――フィオナなら親しんでくれるかもしれない。
――フィオナならこの味を喜んでくれるかもしれない。
フィオナはどんな食材にも偏見なく、どんな料理でも食べてくれる。
一食の重さを知る、真の意味で食を理解している素敵な女性だ。
俺は彼女を信じている。そうだ、俺がフィオナを信じなくてどうする。
確かに癖の強い食品だ。こうしてフィオナが近づいてくると一層、独特な香りが鼻をくすぐる。
一部地域では毛嫌いされる事もある。だが、それでもアレは俺にとって、米にも並び得るソウルフードだった。
大丈夫だ。大丈夫だ。
そうやって心に唱えながら平穏を祈りつつ、俺はフィオナに問うた。
「フィオナ……その手に持っているやつ。それな……」
――――それは食べ物なんだ。
そんな言葉を俺はぐっと飲み込んだ。俺は、まだ彼女を信じていたかった。
フィオナは俺の悲痛な祈りになど一切気付いていない様子で、ソレを俺の前にちらつかせた。
「ああ、これ――――」
俺の問いかけの意味を理解したのか。
フィオナは稲ワラを束ねたものをしばし見つめ、
「――――ヤマト、これ腐ってたよ」
何のためらいもなく、『納豆』をゴミ箱の中に放り投げた。
ぐちゃり、と嫌な音が穴だらけの部屋に響いた。
「…………なぁ、フィオナ」
それでも俺は彼女を信じたかった。
それでも俺は問わずにはいられなかった。
「――――それ、食べられないか?」
納豆は確かに初見では厳しい食品かも知れない。
だがしかし、何度も味わえばその魅力は人々の心を捉えて離さない、魅惑的な食品だ。
俺がこのソウルフードを再現するためにどれほど労力をかけたか。
そのための労苦は惜しまなかった。
それほどまでに、俺の体は納豆によって形作られていたのだ。
そうして作り上げた納豆は、まさに俺の魂の結晶とも呼ぶべきものだった。
出来るだけ動揺をひた隠しにしたつもりだが、声が最後にブレてしまった。
しかしフィオナはそんな些細な変化には気付かない。
彼女は満面の笑みで答えた。
「あははは! さすがのあたしも腐ったものは食べないよ!」
…………。
フィオナには、何の罪もない。
分かっていた。わかっていたつもりだった。
「…………フィオナ、一つ、大事な話がある」
「う、うん! 聞く! 聞くよ!」
ただならぬ様子に、フィオナも何か察したようだった。
彼女は頬を赤く染め、俺の次の言葉を瞳を輝かせて待ちわびている。
「フィオナ……」
「うん!」
フィオナの頬に一層、赤みが差し、瞳がいや増して輝いた。
その瞳は艶やかに輝く納豆のようだった。
俺は心の内を吐き出すようにして、言った。
「頼む……! 俺を一人にしてくれ……!」
俺の悲痛な叫びだけが、夜の闇に溶けていった。




