第1話:金色の美姫・アルレンサ
かつてこの世界に大いなる災厄が襲った。
魔王・ルシフェルサタンとその配下・極限三魔大将の元に集った十大激烈魔将麾下、三十二魔団長が率いる666の魔物たち。
迫り来る脅威に対し、人々はあまりにも無力だった。
国は乱れ、悲劇は世界各地に伝播し、戦士は倒れ、守るべきものは蹂躙される。
まさに世界は滅亡の危機に瀕し、力なき人々は日々日々、涙を流しながら天に救いの御手を乞うた。
アミ歴401年。果たして神はこの地に救世主を遣わす。
異世界より現れた少年は各地に蔓延る魔物と奮戦し、仲間を増やしながら旅を続け、ついには魔王の封印に成功する。
かくして世界に平和は訪れ、救世主の旅は終わった。
少年の名は鷲敷大和。
これは全ての使命を終え、己の夢のために新たな戦いへと赴く、一人の少年の物語である。
■ ■ ■
まだ夜も明け切らぬ薄暗い一室。
俺はランプのわずかな灯りを頼りに手際よく作業を続けていた。
「ふん、ふん、ふっふーん」
思わず鼻歌など口ずさんでしまったが、本当ならばここで小躍りの一つでも披露したい気分なので勘弁してもらいたい。
何しろ、とうとう長年の悲願が今日この日に実を結ぶのだ。鼻歌の一つくらい歌ってもバチは当たるまい。
この世界に連れてこられた当初は、そりゃあもう、辛い事が沢山あった。
一介の学生であるこの俺が唐突に異世界へと連れてこられ、薄気味悪い魔物どもと戦う使命を背負わされたのだ。
神と自らの人生を呪い、己に課せられた使命というやつを心の底から憎み、恨んだ時もあった。
しかし、それらは既に過去の出来事に過ぎない。
多くのかけがえのない仲間たちに囲まれ、俺は幸せ者だ。真実そう思う。
元の世界に二度と帰れないと知った時は落ち込みもしたが、仲間たちに支えられて俺は立ち直った。
この世界は本当に素晴らしい。
人々はみな純朴で優しく、得体の知れないガキだった俺を温かく迎え入れてくれた。
旅先で人々から受けた恩を、俺は決して忘れないだろう。
この世界を救う事が出来て本当に良かった。本心からそう思う。
だが、たった一つ。
たった一つだけ、この世界には我慢できない事があった。
これは俺のワガママであり、この世界に住まう人々にはなんの落ち度もない。
しかし、それでも俺は我慢ならなかったのだ。
世界各地を巡るうち、俺はとうとう気付いてしまった。
この世界には、『和食』が存在しなかった。
和食。故郷の味。魂の拠り所。
定食屋の息子だった俺にとって、和食とは生きる基盤とでも呼ぶべき掛け替えのないものだった。
碗に盛られた白米。暖かな味噌汁。濃すぎない味付けの惣菜。
その全てが俺の血肉となり、今の俺を形作っている。
和食が好きとか嫌いとかそんな次元ではない。
愛している。
俺は和食を愛している。
たまに夕食の献立が和食だと知った時に浮かれる程度の嗜好ではない。
年がら年中、それこそ首から上までも和食漬けになりたいくらい、偏執的とまで陰口を叩かれたほどにこの俺の愛は深い。
そんなこの俺が、和食が存在しない世界を生きていく苦悩を、果たして何人が理解できるだろうか。
元の世界で毎日あの味を堪能していた身にとって、どこへ行ってもパンに似た穀物や肉を得体の知れないソースで味付けされた料理の数々にはうんざりさせられた。
無論、味が悪いという訳ではなく、慣れればそれなりに美味しいし、世情を鑑みれば腹一杯食べられるだけでもありがたい。
それでもやはり和食と比較するなら、この世界の料理は足元にも及ばないと言わざるを得なかった。
これまでは有事という事で我慢もしてきたが、使命を果たして世界が平和を取り戻したからには、もうこれ以上我慢の必要はない。
実はかねてから魔王を倒す旅の途中で、和食に使えそうな類似食品の数々に目星をつけてきていたのだ。
その食材を元に研究を重ね、ついに俺はこの世界に和食を生み出すことに成功した。
今日、その成功を祝うわけではないが、客を招いて食事会を開くことになっている。
厳しい旅の中で出会った、かけがえのない仲間たちを順番に家に招き、それぞれの話を聞きながら和食に舌鼓を打つ。
思えば仲間と別れてもう数ヶ月が経っていた。美味しい食事につられて会話も弾むことだろう。
今日は楽しい一日になる。
そんな確信めいた予感とともに、俺は今日の料理の下ごしらえを完成させた。
■ ■ ■
粗末な掘っ建て小屋には不釣り合いな、高雅な声が聞こえた。
「今日はお招き頂戴いたしまして、ありがとうございますわ」
そう言って丁寧にお辞儀をしたのは、金色に彩られた美麗なエルフの姫君だった。
華奢なこの姫君が、かつて自分と一緒に弓を取り、後衛戦力として勇ましく戦っていた光景がまるで嘘のようにも思えてしまう。
ついつい大きく開かれた裾から覗く、白く輝いた太ももに目を奪われそうになるが、衝動を必死にこらえて俺は挨拶した。
「今日はよく来てくれた。堅苦しい挨拶は抜きにしようぜ、アルレンサ」
共に死線をくぐり抜けてきた友の間に、余計な礼儀は不要だった。
挨拶はほどほどに俺たちは向かい合い、サシで卓に腰掛ける。
「……それで、今後どうなさるおつもり?」
「いきなりその話か。……お前らしいな」
席に着くなり、いきなり本題を切り出してきたのには驚いたが、それが気の短い彼女の性分だったと思い出して苦笑する。
澄み渡る空色の瞳に、じっと見据えられては正直に答えるしかない。
「実はまだ決めてないんだよな。今日中には決めなきゃ、とは思ってるんだが……」
「やっぱり…………貴方らしいと言えば貴方らしいですけど。ま、好きになさったら良いんじゃないですの」
実は魔王を倒してからというもの、各国の要人からしきりに「我が国へ来ないか」と誘いを受けていた。
中にはなんなら一国の主として君臨してもらっても構わないという、正直どうかしている破格の要請もあったが、どうにも首を縦に振りかねていた。
今はこうして知り合いの村の一軒家を間借りして和食の研究を続けているが、増え続ける誘いの声をいつまでも無視する訳にもいかなくなっている。
俺は今日という日に何らかの結論を出さねばならなかった。
呆れる素振りで茶化しながら、アルレンサは笑った。
しかし、その反応が俺には意外だった。
「ウチに来い、とは言わないんだな」
アルレンサとて国の要人。俺を自国へと誘う中の一人である。
てっきりこの席でしつこく自国への参入を勧められると思っていただけに、この素っ気なさは意外だ。
アルレンサは堪えきれないように高笑いを始めた。
「来いと言われて来るような方ならとっくに言ってますわ。確かに貴方が他国へ渡って力関係が崩れる事を憂慮する者もおりますけど……」
呆れた仕草で首を傾げながら、アルレンサは童女のように微笑んだ。
「どこにいても、貴方は『仲間』に刃を向けるような方ではないでしょう?」
「……ああ、その通りだ。分かってくれて嬉しいよ」
『仲間』は俺が思っていた以上に俺の事を理解してくれている。
その事実に俺は自分の頬がたやすく綻んでいくのを止められなかった。
やはり仲間はいいものだ。久々の再会だというのに、俺たちはいつでも心が繋がっている。
……しかし同時に、腹の底をたやすく言い当てられたのが面白くない。
俺の中でにわかにイタズラ心が騒ぎ出した。
「…………でも、お前も変わったよな。会った時は『人間ごときが図に乗るでない』ってそりゃエラい剣幕で……」
「もうっ! その話は二度となさらないで、って言ったじゃありませんか!」
両手を挙げてぷりぷりと怒り出すアルレンサ。
しかし、それはあの頃に向けられた表情とは全く異なるものだった。
今、こうして仲良く席を並べ、互いに分かり合えるほどの仲になれたが、出会った当初はそうではなかった。
かつてのアルレンサは生粋のエルフ至上主義者だったのだ。
エルフこそが最上の民族であると疑いもしない。
他種族には傲慢な振る舞いを隠すことなく、初対面の俺に対しても当然のように牙を剥いてきた。
その不遜な態度を諌めた事から起こった一連の騒動は今も記憶に新しい。
「あの頃は、その、世間知らずと言いますか、周囲の言うままで、貴方に叱ってもらって目が……もうやめましょう、こんな話!」
アルレンサは先ほどまでの余裕が嘘のように慌てふためく。
その姿が愛らしくて、ついつい出会った頃のことを何度でもからかってしまいたくなる。
ともあれ過去の話は禁止にされてしまった以上、ここからは未来の話をするしかない。
その話題のお供に料理は欠かせないだろう。
美味しい、美味しい料理が。
舌の蕩けるような美食が、だ。
俺はアルレンサをなだめながら席を立った。
「ちょっと待っててくれ、食事の用意をする」
「あ、噂の『和食』の出番ですのね!」
実は既に仲間たちには俺が元いた世界の料理についての話を済ませていた。
我が素晴らしき故郷の味。我が心の料理。
俺がかつてその舌で感じた味覚を言葉で再現する度、みなは興味深くその話を聞いてくれた。
「当然! トンカツ、ですわよね!?」
旅の途中、立ち寄った街で偶然、素材が揃ったので試しに作ってみたオークの豚カツは、特にアルレンサのお気に入りだった。
エルフがオークを好んで食するという絵面は正直、抵抗がないわけではなかったが、まぁいいだろう。
もちろん、今日もアルレンサをもてなすにあたって豚カツは欠かすつもりはない。
俺は親指を突き立てて宣言した。
「当然! トンカツだ!」
厨房に消える俺の背中に、キャーとアルレンサの身悶えするような声が染み渡る。
エルフは弓を巧みに使いこなす狩猟民族で、肉食を主とする。
その味覚にほどよく染み込んだオークの肉汁がクリティカルヒットしたようである。
そんな彼女の為に今日、用意した料理。――――それは『カツ丼』だ。
この料理を異世界に再現するにあたっての苦労話は割愛する。
自らの足で和食の材料によく似た植物、動物を探し出し、俺はとうとうこの世界に数多くの和食を再現するに至った。
米によく似た植物を見つけた時は、三日三晩ほど狂喜して周囲に魔王の呪いでも受けたのかと心配された。
それほどまでに喜んだ俺の気持ちをどうか理解してほしい。
あれから更なる改良を重ね、俺はついに異世界に『カツ丼』を誕生させることに成功した。
「へい、『カツ丼』お待ち!」
「……ああ、トンカツ。どうして貴方はトンカツなの」
待ちに待った和食を前に、正気を失うアルレンサ。
そのあられのない姿にこそ俺は強い喜びを感じてしまう。
作った料理を喜んでくれる客。それこそが料理人にとっては最高のご褒美だからだ。
さすがに異世界人にはハシの扱いは難しいので、この世界の様式に合わせてナイフとフォークで召し上がってもらう。
蓋を持ち上げて、立ち上る湯気にアルレンサの瞳はますます輝いた。
完璧だ。
美味い料理。気心の知れた客。全てが食卓の上で調和し、全てが整っている。
俺が夢見た食卓が、今ここに再現されている。
「では、いただきます!」
「では、頂戴いたします」
俺も朝から食事もとらずに準備をしてきたのですっかり空腹だ。たまらずカツ丼にむしゃぶりつく。
忙しなくがっつく俺とは違い、流石は姫君。
食欲に負けじと丼に乗ったトンカツを上品にナイフとフォークで丁寧に切り分けてから口に運んでいく。
その姿は一枚の絵画のように美しかった。
「上に乗っているこれは……卵かしら。変わった味付けだけど、美味しいですわ」
この世界にも鶏によく似た生き物がいたので、卵はわりと馴染み深い食材である。
卵を生食する風習はあまり見かけなかったが、卵とじに似た調理法は各地で見たので抵抗も少ないのだろう。
アルレンサはその味にもう夢中だった。
これも自画自賛になるが、トンカツの味付けは完璧だった。
これなら元の世界で出しても文句は出ないだろう。
手前味噌ながらその再現度の高さに、俺は心から満足していた。――――その時だった。
室内に無機質な金属音が響いた。
「……なっ」
アルレンサが持っていたナイフとフォークがふいに床に落ち、乾いた音を響かせた。
驚いて丼から顔を上げると、アルレンサは椅子から腰を浮かせた姿勢のまま、固まっていた。
「どうした、アルレンサ」
「な、なんですの、これ」
わなわな震えるアルレンサの視線を追ってみると、そこには卵の下に隠れていたお米がほかほかと湯気を立てていた。
何事かと驚いてはみたが、どうやらあまり馴染みのない食材にビックリしただけのようだ。
お米は黄金色の卵の下で湯気を伴いながら、一粒一粒が純白に輝いている。
至宝の宝石を思わせるその姿にアルレンサは。
「まるでウジ虫……うっ」
気のせいだろうか。
何か聞こえてはいけない単語が聞こえた気がする。
うじむし。うじくし。――――美しい。
おそらく彼女はそう言ったのだろう。
確かに今日の白米は一段と美しかった。その美しさはアルレンサにも引けを取らない。
唐突だが、アルレンサはその美しさから諸国に「聖水を滴らせる清泉の妖精」と謳われた女性だった。
その美女が今。
「おえええええええええええ!」
奔流のようなゲロを大量に床に滴らせた。
胃の中身を一滴残らず滴らせた泉の妖精は、白い顔をさらに青くしてこちらを見た。
「……うぁ……う、ヤ、ヤマト。これ……なんですの?」
振り向いたその顔は、今まで見たことのないアルレンサの顔だった。
その気迫に思わず気圧されながら、俺は答えた。
「何って……お米だけど」
「オ、コメ……?」
「和食における主食だよ。パンみたいなもんで……あっ」
まるで病人のような顔で震えながら説明に耳を傾けるアルレンサ。
嘔吐してなお、さらに込み上げてくる吐き気に耐えるようなその表情。
先ほどまでの綺麗な空色が嘘のような虚ろな瞳からは、何かを訴えかけるような視線が注がれていた。
「……そうか。すまなかった、アルレンサ」
その姿に俺はようやく合点がいった。
――――アルレンサは無理を押してこの食事会に来てくれていたのだ。
彼女は本当に具合が悪そうだった。
おそらく俺との約束を守る為、本来なら食事を取れるコンディションでないにも関わらず、無理を押してこの場に来てくれたのだ。
そんな体で無茶をしてまで招待に応じてくれた仲間の姿に、俺は深い感動を覚える。
食べなれない油ものであるカツ丼を口に入れた為に嘔吐してしまったに違いない。
彼女には悪いことをしてしまった。
体の調子が悪いのに無理をさせてしまった罪悪感から、俺は別メニューを思い浮かべる。
うん、あっさりとしたお粥なんかが良いんじゃないだろうか。
あれなら多少、胃腸が弱っていても美味しく頂く事が出来る。
「ほら、俺の丼にも入ってるだろ。こうやって、カカカッと」
まずは論より証拠だ。
美味しいお米を食べる姿を見せることで少しでも食欲を取り戻してもらう。
そんな俺の細やかな計らいにアルレンサは。
「ひっ!」
まるでゴキブリの卵を口にかっこむ男でも見たかのような顔をしていた。
いや、そんな顔見たことないけど。でも大体そんな顔だった。
アルレンサはいよいよ体調が悪いらしい。
ぶるぶると身を震わせ、顔は死人のように青々とした色になっていた。
居ても立ってもいられず、俺が心配して手を差し伸べると、
「さっ、触らないで!」
……全力で手を払いのけられました。
この顔には見覚えがあります。
あれはたしか十大激烈魔将の一人、見る者すべてに嫌悪と不快感をばらまく触手将・ビランデに求婚された時の顔とそっくりです。
どうやら彼女は一種の錯乱状態にあるらしい。
一体、何が彼女をここまで追い込んでしまったのか。
それが俺には分からない。
思い起こせば、エルフという人種はみな短気で怒りっぽく、無闇にプライドが高い為によく周囲と衝突していた。
何に怒り出したのか見当もつかないが、そもそも人種が違うのだから仕方がない事なのか。
俺は悲しくなった。
よく知っているはずの仲間が見せた、いつもと違うその姿に。
そんなアルレンサの姿に、軽い失望を覚えていた。
■ ■ ■
結局、それから少しして体調がよくなったのか、アルレンサは「急用を思い出しました」とだけ言うと、そそくさと帰ってしまった。
去り際に「やはり人間は……」と少々、気になる捨てセリフを残していったが、俺にはどうする事も出来ない。
なぜなら、まだまだ今日は客を幾人も残している。
アルレンサ姫お一人のワガママに付き合うほど暇ではないのだ。
ひとまず残ったカツ丼を平らげて、俺は言った。
「……ゲロは片付けて帰れよ、バカエルフ」