ゲンゾウにとって。
ゲンゾウにとって人の命は重くはない。
『命』という定義においてはゲンゾウにとっては人のものも、犬のものも、虫のものもそう対しては変わらない。
では、軽いのか?それも否である。
自身の保有する1つだけのものとしての価値は認めている。
また亡くなってしばらくして思ったのはそれはある種の力でもあるという事だった。
自分の成したい事をする為に、お金であったり、武力であったり、知恵であったりが必要になる。
そんな必要なものの1つとして、身体や命もまたあると思っている。
だが、命そのものの重さに対しての意見は、自身の死を経て、無力感を感じた上での意見でしかない。
ゲンゾウにとっての命の重さは縁によって倍加する。
命と命は触れ合う人との縁によって繋がる。
繋がった縁を通じて、1つの命にたくさんの命の重さがぶら下がっていく。
財産整理や遺書をきちんと残す事は、彼にとって命の重さをコントロールする行為であった。
無論。重さというのも単純ではない。
重ければ良いものでも、軽ければ良いものでもない。
自身が死んだ時の周囲の表情の柔らかさに、程良い重さに出来たのであろうと思い込む事にしている。
あくまでゲンゾウにとってであるとゲンゾウ自身も思っている。
それは主観の話である。
重さが影響を与えるのは、負荷であり、安定であり、ぬくもりであり、寂しさである。
それは喜怒哀楽の表現よりはテンション。一本の糸のたるみや千切れる寸前の状態などへの変化に影響を与える。心の波に影響を与える。
命という字が、生命・使命・命令などの単語に繋がるように命じられる何かにも関わるのかもしれない。
それは己自身の感情にも左右されるであろう。感情が訴える言葉に従って自分の行動を決める事もまた命なのであろうと。
ゲンゾウはその命を決めかねない縁を気にする。そして自身の命が縁に引き摺られるの嫌っていた。
ゲンゾウにとって孫達は誤算であった。ましてひ孫は尚の事である。
無論、子らも可愛かったのだ。可愛かったのだが親である。その距離の近さが責任が裏表として付き纏っていた。
孫はそうではなかった。自身の老い先の長さもある。先を見たい気持ちも勿論あるが見続ける事が出来ない。そこに些かの無責任さがあった。無条件に可愛がれる都合の良さとでもいうのだろうか。
いや、体面上は親をきちんと育てたからこそ可愛い孫見れる訳で・・・などと言い訳がましい事を並べる所なのだろうが、ゲンゾウにとっての事実はそうであった。
諸々を整理する時に残ったもの。いや残した物がひ孫であったのだ。
オークの存在はゲンゾウにとってはあの空き巣と同じであった。
抵抗も介入も出来なかったあの場と、存在ごと奪って進む森はゲンゾウにとっては同じ存在であった。