第三章〈日々に潜む〉3-3
食堂での一件以降も、パトリック陣営からの嫌がらせは続いた。
ライエンティールの父の情報を大々的にばらまくのは当然として、さらにライエンティール自身のゴシップ情報を流すことで彼女を苛立たせることも忘れない。
自分に好意を寄せる錬装技匠科男子学園生を利用し、昇格戦に至るまでの戦いで相手の錬装甲冑に細工を施した。
友人である情報統括科の女子学園生に協力して貰い、相手陣営の整備コンピュータにウイルスを送り付けた。
大企業の令嬢である友人に自分の錬装甲冑を強化させた――等々、様々な流言飛語がライエンティールの神経をちくちくと刺激し続ける。
「うわぁああああ……」
昇格戦まであと三日に迫ったこの日、ライエンティールは自主練習を早々に引き揚げ、マイトの工房に逃げ込んでいた。デマがデマを呼び、担当教官に私生活を正すようにと注意を受けたことがショックだったらしい。
無論、担当教官もライエンティールが原因であるとは思っていない。だが、ライエンティールが日頃から科の中で浮いていたのは事実である。
学園生を平等に扱わなくてはならない教官には、少なくとも特定の友人以外との交流を断っているライエンティールに、もう少し他の学園生との繋がりを持つよう言い含めるしかなかったのだ。
「分かってるんだけどさー、どうしてもさー」
ライエンティールは逆座りした椅子の背もたれを抱きながら唸り、工房の中央にある作業台で顕微鏡を覗きながらのソルダリング作業を続けるマイトの背中に愚痴を吐き続ける。
「だって、怖いじゃん。父さんの悪口言われたら、わたし確実にそいつ殴っちゃうし」
「うるさい、邪魔するなら外で走り込みでもしてこい」
作業を邪魔されたくないマイトの言葉は冷たい。
顕微鏡の向こうでは、頭部の管制装置内に搭載されるチップユニットがまだ大量の半田付けを求めてキラキラと光っている。
「こっちは寝不足ぎりぎりでやってるんだぞ。勝ちたいなら邪魔をするな」
「う……ごめんなさい……」
ライエンティールは振り向きもせず発せられる怒声にびくりと身体を震わせた。そして同時に、大きな疑問を抱いた。
(そういえば、どうしてこの人はわたしを助けるんだろう)
それはずっと心のどこかで疑問に思っていたことだった。
ライエンティールは当初、マイトが原状復帰と必要最低限の整備、そして復旧に必要な調整のみを請け負うと思っていた。
あの大破状態から原状復帰させるだけでも十分な大仕事で、さらに調整なども含めればひとりの武装導術士が行う作業量としては限界に近い。
だからこそ、ライエンティールは必要以上の期待はしていなかった。もう一度同じ条件で戦えれば勝ち目は十分にあると思っていたからだ。
しかし、マイトは原状復帰どころか、〈風の魔女〉を今望める最高の状態に仕上げようとしている。
学園内ではなく外部の商社を通して部品を集めることで、可能な限りパトリック陣営の妨害を受けないよう努力を重ねた。
(タックも、納入された部品は全部正規軍に納入するようなしっかりとした保証付きの部品だって言ってたっけ……正直、請求書が怖い……)
マイトが意図的に高額な部品を発注している訳ではないことは、メルライアが保証してくれた。多少予備が含まれているとしても、〈風の魔女〉に必要な最低限の数のみ納入されている。
(手間暇掛けて、どうしてそこまでわたしを……)
そこまで考えて、ライエンティールは学園に広まっている自分に関するデマのひとつを思い出した。
それはライエンティールとマイトの関係を邪推し、彼女が身体で整備士を誑し込んだというものだ。
男女の情交に関することだけあって学園生たちの若い情動に後押しされ、比較的広い範囲で広まっている。
ライエンティールはこの噂だけはどうにかならないかと思っていたが、毎日逃げるように工房に足を運んでいればそれも叶わないだろうと諦めてしまった。
(うん、本人に訊いた方が早い)
ライエンティールはそう結論づけた。いつまでも疑問を疑問のままにしておくのは、彼女の性格からしてあり得ない。
真実がそこにあるならば、躊躇いなく踏み込む。
「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」
「何だ?」
マイトは顕微鏡から目を離さず、小さく手を動かしながら言った。ライエンティールはぎしりと椅子の背もたれから身体を離して、ひとつひとつ言葉を確かめるように告げた。
「何でここまでやってくれるの?」
「仕事だからな」
「それにしては、随分と手間の掛かることやってくれるじゃない。タックから聞いたけど、あなたの仕事は錬装甲冑を一から組んでるようなものだって」
それはライエンティールの価値観に照らし合わせれば、多くの無駄を含んでいる行いだった。
「必要だからな」
やはり、マイトの答えには迷いがない。
ライエンティールにはマイトがまるで宇宙人のように思えてきた。
「メルライアは、まるで専属工房みたいだって言ってたし、無理してるんじゃないの?」
「仕事の範囲で無理をするのは当たり前だろ。君は勝ちたいと言った。俺はそれを請けた。なら、俺は君が勝てる段取りを俺に出来る範囲で整える。どこにもおかしなところはない」
チップユニットのソルダリングを終えたマイトが、顕微鏡から目を離す。
今度は片眼鏡を嵌め、ソルダリングが正確に行われているか確認し始める。
本来なら制御装置ごと発注するべきだったが、納品が間に合わないために手作りする羽目になった部品だった。
「だから! 何でそこまでやるの!?」
納得できないと言わんばかりに叫ぶライエンティールは、傍目にもティーンエイジャーには見えない。もっと幼い印象を見る者に与えていた。
彼女にとって、他人とは決して頼れるような存在ではなかった。
友人たちにさえ、必要以上に期待することを拒んでいる。恐怖していると言っても良い。
幼少期から他者の悪意に晒されてきたライエンティールの、然したる裏付けを持たない自己防衛術だった。
「今日は嫌に突っかかるな」
片眼鏡を外し、ライエンティールに向き直ったマイトが、僅かな困惑を見せている。
それを見て、ライエンティールは少しだけ後悔した。恐怖は人の理性を減衰させる。裏切られることが怖いのは人間誰しも抱く感情であるが、ライエンティールは人一倍それが強いのかもしれない。
そういった者たちは、相手もまた人間であると忘れがちである。
「悪い?」
ライエンティールはマイトの視線から逃げるように俯き、ふて腐れた。
学園の誰も彼もが自分の敗北を願っているのではないか、そんな風に思い始めていた。
「だって、わたしのことを知らない連中まで好き勝手に噂して、教官まで……」
「他の連中なぞ放っておけば良い。彼らは君に期待していない。ならば君も彼らに期待するのはやめておけ。君が勝てば、今度はパトリック某が噂の餌になる」
マイトは机の引き出しから懐中時計を取り出し、それを開いて時間を確認する。
もう十九時を回っていた。
「もう時間も遅い。納得したなら寮に帰ることだ」
「納得なんかしてない」
「そうかい。じゃあ、帰るつもりになったら声を掛けろ」
マイトは頭を振り、肩を竦めて作業机に向き直る。
最悪、自分が送っていけば良いと判断したのだった。
「ふん」
ライエンティールは椅子に座り直し、今度は両膝を抱えてマイトの背中を眺める。
そして幼い頃、父が書斎で何か作業をしている背を、同じように眺めていたことを思い出した。
(あー、ちょっと似てるかも)
父も、どれだけ忙しく作業をしていても、自分が話し掛ければ必ず答えてくれた。
そして同じように時計を見て、早く寝るようにと言ったものだ。
しかし自分はそれを突っぱね、結局そのまま書斎で眠り込んでしまう。
(悪いことしたなぁ)
さぞかし手の掛かる娘だっただろう。
それでも父は、幼い自分の望むものを可能な限り与えてくれた。
自分はそれに見合うだけの存在に成長したのだろうか。
「ライエンティール・ヴィルトリア」
名を呼ばれ、思考の海で揺れていたライエンティールははっと顔を上げた。
眠っていたのかと思ったが、それほど時間は経っていないようだ。
「奇跡に手が届くなら、何を望む?」
いつものライエンティールならば、質問の意味を聞き返しただろう。
しかし、父の姿を思い浮かべてぼんやりとしていた彼女は、あっさりと本心を吐露した。
「お父さんに褒められたい」
父の背を追い。
父の汚名を晴らす。
その根底にある願いはそれだった。今のライエンティールのアイデンティティは、その一点に集約できる。自分のルーツである親に自分を認めさせるというのは、自己証明として決して珍しいものではない。
「そうか」
マイトは頷いた。
そしてもう一度懐中時計を取り出すと、再び頷く。
「分かった」
何を言っているのだろうか、そんな疑問がライエンティールの中に湧き上がる。
だが、それを言葉にするよりも前に、工房の扉がけたたましく開かれた。
「うーっス! 今日も手伝いに来ました!」
「タック!? あんた何でここにいるの!?」
作業服姿のタックを目にしたライエンティールは、思わず椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
まさかライエンティールがいるとは思っていなかったタックも、吃驚そのものといった表情で彼女を見る。
「あれぇー? リリィ、こんな時間だけど門限大丈夫なん?」
「いや、そんなことよりも何でここに……」
昇格戦前であるため、工房にいるならば門限は延びる。それでも、あと一時間もないのだが。
ライエンティールはタックを問い詰めたら帰ろうと決意した。
「いや、やっぱりやれることあるのに引っ込むのは違うかなって。全部の責任は負えないけどさ、一切責任負えないほど子どもじゃないし。で、昨日からこっちで泊まり込んで手伝いさせて貰ってるんだよ」
タックはからからと笑い。工房の片隅を指差した。
そこには丸められた寝袋が転がっている。
「そこまでしてくれなくても……」
「そこまでっていうか、メルもデータ作りに協力してくれてるし、フェイも何だかんだ言って自分の錬装甲冑の蓄積データくれたし、オレなんて下っ端もいいところだぜ?」
「え?」
自分の言葉を聞いて目と口を大きく開いて驚くライエンティールに、タックは「不味い」と呟いた。
「今の言っちゃ駄目なんだったけか。いや、うーん、余計なこと言うなって言われただけだしなぁ」
ガリガリと頭を掻くタックだが、ライエンティールは驚いた表情のまま何も言わない。
「まあ、オレから聞いたって言わないでくれよ。皆、リリィが他人の手を借りるの苦手だって知ってるから黙ってるだけで、別にリリィが嫌いとかじゃないし」
「う、うん」
ぽかんとした顔のライエンティールに、タックは照れたように笑って見せた。
「じゃあオレ、仕事あるから気をつけて帰れよ。まだバスもあるだろうし」
「が、頑張って?」
ライエンティールはそう自信なさげに言ったが、タックは彼女の肩を叩いて笑うだけだ。
「頑張るのはリリィの方だろ」
じゃあ、と言って自分の横を擦り抜けていくタックに、ライエンティールは何も言うことが出来なかった。
だがタックはそんなライエンティールの様子に気付く様子もなく、マイトに文句を垂れている。
「先輩、せめてソファ貸してくださいよ」
「着替え持ってきたら考えてやる。来客用なんだから汚すなよ」
「あ、それもそうっスね明日は着替え用意してきます」
「ああ」
いつの間にか左腕部のアクチュエーターをフレームに組み込む作業を始めたマイトに、タックは仕事の確認を始める。
「今日は何をすればいいっスかね」
「今日中に外装を全部組み上げる。メンテナンスベッドの調整は出来るな?」
「うっス。メインサーバのデータ通りに調整すればいいんすね?」
指示を受けたタックは作業台から離れ、別の作業台の下に置いてあった工具入れを引っ張り出す。彼の私物工具だった。
「そうだ。ブレーカー切ってあるから立ち上げて作業しろ」
「アイアイ。ええと、これはいるな。っと、先に立ち上げるか」
返事をしながら工具箱から工具を取り出し、ベルトに提げた工具袋に放り込む。そして思い立ったように立ち上がり、工房の配電盤に駆け寄って錬装甲冑用の調整台の電源を入れた。
工房の一角を占める巨大な調整機械が、唸りを上げて起動する。
「――はッ!? 意識が飛んでた!」
ライエンティールはてきぱきと作業するタックの姿に呆然としてたが、目に入った時計の指す時刻を見て我に返った。
「か、帰る!」
「おう、送ってくぞ」
「走ってくからいらない!」
ライエンティールはリビングに放り込んだままだった鞄を手に取ると、どたばたと騒がしく工房を飛び出していく。
その横顔を見たタックが、マイトに訊ねた。
「――何かめっちゃ顔赤かったんですけど、何かしました?」
「寝惚け顔晒してたからな。そのせいだろうよ」
「あー、年頃っスからね」
タックは納得したように何度も頷いたあと、調整作業をするためにタブレット端末を抱えて調整台の下に潜り込んだ。
「妹みたいで可愛いでしょ」
「うちの妹よりはな」
「妹さんいらっしゃるんですか?」
「ああ、あれと同じ年だな」
「あー、それだと妹に幻想は抱かないっスね」
四方山話をしながらも、彼らの手は止まらない。
ただひとりの少女を勝利させるため、今日も作業を続ける。
「わあああああああああああああッ!!」
寮に向かって走り続けるライエンティールは、その脳裏にぐるぐると回る光景に思わず叫んだ。
「にゃああああああああああああッ!!」
夜空に輝く月も、月の光に押し遣られながらも輝く星々も、行く先に見える学園本棟の光も、昨日よりも強く煌めいて見える。
たったひとりで夜空の下を走っているにも関わらす、寂寥感などまったく感じない。
今までも時折感じては否定していた『自分はひとりではない』という想いが、彼女の心を躍らせる。
「頑張るぞー!!」
叫び、走る。
息が上がる。それでも走る。
「勝つぞー!!」
誰かが力を貸してくれたなら、勝つ理由がある。
誰かが望んでくれたなら、勝つ意味もある。
「わああああああああああっ!!」
ひたすら走り、ひたすら叫ぶ。
ライエンティールは寮に辿り着くまで、延々と叫び続けた。
そして翌日、喉が痛いと泣いた。