第二章〈フィシー〉1-1
「では、失礼します」
敬礼ひとつ。警備部の若い男が工房の出入り口から去って行くのを、フィシーは居住部分の二階の窓から眺めていた。
夜が明けてすぐにマイトとタックが騒動の現場を見に行ったが、目に見えて戦闘の痕跡を残しているのは地面と倒れた樹木だけだったらしい。
地面には血痕なども残されていたらしいが、それが誰の血液であるかまでは未だ分かっていないようだ。
「警察が宛てになるとは思えないけど……」
親指の爪を囓りながら、フィシーが独りごちる。
自分を狙ってきた連中が大人しく捕まると思えるほど楽観的にはなれない。
(本家の連中はどこまで本気なの? レイスマギルカで騒動を起こしたら、いくらウチだって無傷じゃ済まないでしょうに)
学園が欧州の火薬庫と呼ばれるのは伊達ではない。
学園生という形で各国の次世代を担う儀界導術士を集め、監視下に置く。大欧州連合直轄の教育機関という建前も、誰かがこの学園を恣意的に運用するのを防ぐためだ。
(とりあえず、出来るだけ早く逃げ出す方法を考えないと……)
「――ここも安全とは思えないし」
「そりゃどうも、俺としても厄介者がいなくなるのは、とても嬉しい」
開けっ放しになっていた扉に寄り掛かるようにして、工房の主がそこにいた。
「ノックくらいしたらどうなの?」
独り言を聞かれていたのかと警戒を露わにするフィシー。
無意識に腰に手を伸ばしたが、そこに愛用のナイフはなかった。
(そうだ、昨日こいつに預けて……)
軍用とはいえかなり無茶な使い方をしてしまったせいで、彼女のナイフは廃品寸前になっていた。もしかしたら修理できるかも知れないということで預けたが、いつもあった重みがないというのはそう簡単に慣れるものではなかった。
(もっとも、ナイフがあったところでどうにかなるとは思えないけど……)
昨夜の立ち回りを考えれば、目の前の男が普通の学生であるとは考えられない。
少なくとも自分よりは腕利きだろう。手を出したところで勝てる可能性は低かった。
フィシーは溜息を漏らし、身体から力を抜く。
「何か用?」
「――朝飯だ」
「そう、ありがとう」
フィシーはマイトの前を通り過ぎ、階下へと繋がる階段を降りる。
彼女の姿が見えなくなる最後の瞬間、剣呑な光を宿した彼女の瞳が自分に向けられたことに、マイトは気付いていた。
「やれやれ、千客万来は嬉しいが、招かれざる客ばかりじゃ意味がないぞ」
そう言って肩を竦めたマイトは、今度はもう少し実りのある客が訪れるよう、遥か海を越えた場所にいるであろう神様に祈るのだった。
「警備部も自分たちの庭で好き放題されてご立腹のようでな。しばらくは警備も強化してくれるという話だ」
「そう。じゃあ連中はしばらく身動きが取れないのね」
カティエと名乗ったメイドの少女が用意した朝食を口に運びながら、マイトが現在の状況を説明する。
食卓を囲んでいるのはマイト、タック、ライエンティール、そしてフィシー。カティエは給仕をすると言って聞かず、食堂の片隅に立っている。
「それで? ある程度は事情を聞かせて貰えると思ったんだけど」
ライエンティールがターンオーバーの目玉焼きをナイフで切り分けながら、フィシーに目を向ける。じっとりと湿りきった視線だ。
「聞いてあなたに何ができるの?」
「人の職場に転がり込んでおいて何を……!」
テーブルに手を叩き付け、ライエンティールが立ち上がる。
本来なら宿舎に戻っているはずだったが、道が警備部によって封鎖されてしまったために泊まり込む羽目になったのだ。
そうした理由のため寮監から文句を言われることはなかったが、その原因となった人物がいけしゃあしゃあとした態度を崩さないという点は大いに不満だった。
「あんたが余計なことしなけりゃ、わたしがこんなところで朝ご飯を食べる必要はなかったの! そりゃよく分からない連中に襲われたのは同情するけど、だからってその態度は何よ!」
びしり、とフィシーに指を突き付けたライエンティール。
しかし、その指先にいる少女はそれを全く意に介さない。
「自分の手に負えないことを避けるのは大人として当たり前のこと。それができないのは子どもって言うの」
「わたしが子どもだって言いたいの!?」
激したライエンティールが椅子を蹴倒してフィシーに向かう。
しかしその途中、彼女はマイトの背後を通ろうとして腕を掴まれた。
「ちょ……」
「食事中に動き回るな。埃が皿に入る」
「う」
自分に向けられたマイトの視線の強さに、ライエンティールは硬直する。
比較的慣れてきたと思ったが、やはりこうしたときに見せる抜き身の剣のような視線にはまったく慣れることができない。
(まるで別人みたいなんだもの……)
人間誰しも多面性を持っているというが、マイトの場合はさらに底知れなさが加わって物騒なことこの上ない。
マイトの来歴を詳しく知らないライエンティールには、それがときに不気味とさえ感じられた。
「まあまあ、リリィも落ち着けよ。カッカしたところでそこのお嬢さんは何も話しちゃくれないぜ。オレとしちゃあ可愛いメイドさんが作った朝飯が食えてラッキーってなもんだけどな」
同じように寮に戻れず、泊まり込むことになったタックが、フォークをソーセージに突き刺してケラケラと笑う。
この少年の場合、仕事で泊まり込むこともあったため、ライエンティールほどフィシーたちに不満を抱いていなかった。
また彼のような年頃の場合、美味い食事はそれだけで価値を持っているのかもしれない。
「分かったわよ」
マイトの手を振り払い、自分の席に戻るライエンティール。
椅子を直してそこに座ると、一心不乱に朝食を片付け始めた。
その様子を眺めながら、マイトはフィシーに言った。
感情を読み取ることのできない、ごくごく平坦な声音だ・
「そういう訳でとりあえずは何も聞かないが、一応自分たちの立場を弁えた行動を取ってくれ。そうすればいきなり追い出したりはしない」
「分かったわ。――感謝する」
フィシーは小さく礼の言葉を口にすると、自らのメイドが淹れた紅茶を口に運ぶ。
飲む場所が変わっても味は変わらないことに、彼女は確かに安堵した。