エピローグ〈奇跡の対価が重すぎる〉
「大欧州安全保障理事会。太平洋連合安全保障理事会。アフリカ同盟軍事委員会。その他諸々の国際機関からの問い合わせは、今朝の時点で三〇件に達したよ」
「はい、お手数をお掛けします」
マイトは再び訪れた学園長室で、マクスウェルを前に直立不動の姿勢を保っていた。
「実に面倒だが、大半はポーズだ。君の存在を彼らが知らないわけがないからね」
「はい」
「それに、あの〈嵐の魔女〉。亡きグルツ・エルマ大佐が連合の兵器開発所で進めていた次期主力錬装甲冑によく似ていた。そのため欧州規格にも適合しているし、こちらも問題はない」
「はい」
マクスウェルは事務局から上がってきた報告書を机の上に放り投げ、両肘を天板に突いた。
両手を組んでその上に顎を乗せると、見る者に威圧感を与える彼好みのポーズの出来上がりだ。
「『運命剣』――この目で確認できたのは幸運だった。それで、君はこれからどうしたい? 上からは君の要求には可能な限り応えるようにとのお達しが出ているから、目立たない範囲で……非合法な要求も可能だ」
マクスウェルは試すような視線をマイトに注ぎ、マイトはマクスウェルの背後にある大きな窓から外を眺めながら答えた。
「特段、お願いするようなことはありません。これまでと変わらぬ扱いをして頂ければ」
「そうかね」
マクスウェルはふう、と溜息を吐いた。
引き出しから十枚ほどの白紙の命令書を取り出し、机の上にある万年筆を取ってそこに署名を入れる。
別の引き出しを開けて大判の封筒を取り出すと、それを仕舞ってマイトに差し出した。
「済まないが、私も常にここにいるわけではないのでね。留守中に何かあったらそれを使って現状維持に努めて欲しい」
「はい、ご迷惑をお掛けします」
マイトは躊躇うことなく封筒を受け取り、脇に抱えた。
「迷惑ではない。理事会の命令だよ。安保理のお偉方から散々脅かされたからね、しょうがない」
「相互監視、相互破壊が大欧州連合の摂理ですか」
「その通り」
マクスウェルは万年筆の柄で机の天板を叩きながら、言葉を続けた。
「君の力、百年前の独裁者が欲したものと同じだとして、“他者の願いを叶える”というのは非常に危険なのだよ。君には、ええと、シャカにセッポウという奴だろうが」
「はい。竜城様よりよく聞かされております」
マイトは視線を落とし、マクスウェルと目を合わせた。
世界を塗り替える力。
一時的に儀界の力を持ち込むという形式の儀界導術の中で、境界膜の向こうの世界の情報を、こちらの世界の情報に上書きするのが、マイトの血統が持つ力だ。
大金持ちになりたい。
世界を支配したい。
死者を蘇らせたい。
それらを総て可能にする力だった。
「現在、公然の秘密として世界に存在する同一の能力者は自分一人ですが、それはあくまでも国際社会が共通して認識している存在に限ったものです」
マクスウェルは頷き、疲れ切った様子で頭を振った。
「つまり、もしどこかの誰かが君と同一の存在を確保し、その力を用いようとした場合、それを止めることができるのは君一人ということになる。それは国家かもしれないし、組織かもしれないし、個人かもしれない。だが、その可能性が残る以上、君は世界のいずれの国家からも保護を受けられる」
しかし同時に、いずれの国家からも仮想排除対象として狙われる――マクスウェルはその言葉を心中で呟いた。
自分の四分の一程度の人生しか経験していない若者にその言葉を告げることは、彼の矜持が許さなかった。
「ご両親のことは、私としても残念だった」
「いえ、仕方のないことです。母もこうなることを予期していたでしょう」
マイトの両親は、マイトがその血統に宿る導術を継承していることが確認された直後、事故死した。
奇跡はふたつもいらないという人々の傲慢が、彼の両親を奪った。
そしてマイトはその存在によって両親を殺した忌み子とされ、双方の一族から排斥されることになった。それ以上に、彼を持て余したのかもしれない。事実として、マイトに恨まれることを恐れた彼らは、両親の遺産と称して莫大な資産をマイトと妹に与えた。
「妹に力がなかったのは、幸いでした」
「そうかね」
マクスウェルはそれ以上の言葉を重ねることはせず、ただ「退出してよろしい」と言ってマイトを見送った。
そしてマイトの姿が見えなくなった直後、握った万年筆をへし折った。
「年ばっかり取っただけの愚鈍が! あのふたりに笑われるわ!」
老いと共に失った意志を嘆きながら、彼は己を罵倒した。
そして一通りの罵倒を自分に向けた後、机に向き直って仕事を再開した。
彼は、この学園の学園長なのだ。
工房の片隅にある事務机の上で、古めかしい電話が鳴る。
その机の前に座っていたライエンティールは、無感動に受話器を取った。
「はい、ガルディアン工房です」
相手の言う言葉はおおよそ決まっている。
自分の錬装甲冑も整備して欲しい。専属契約を結んで欲しい。或いは、整備させてやろう。専属契約してやろう。
そして彼女が告げるべき言葉も決まっているのだ。
「整備につきましてはご予約という形を取らせて頂いております。ええ、現在ですと空きがあるのは半年後になりますが……」
大抵の場合、ここで相手が激昂する。見た目は古くとも最新型という電話の自動受話音量調整プログラムが作動するためにライエンティールの耳は無事だが、延々と自分の偉大さと工房の矮小さを語られるのは非常に疲れる。
「専属契約につきましては、学園の事務局を通すという通達が出ております。はい、わたくしどもの一存では何とも……」
ここでさらに激昂する相手もいる。
自分は貴族の子弟だ。将軍の息子や娘だ。ぽっと出の新興工房が何を偉そうに、等々とそんな遣り取りばかりを、ここ一週間繰り返している。
「ですから……あ、切れた」
受話器を戻し、相手方の情報を手元のノートに書き入れる。これを工房主がどのように扱うかは、ライエンティールは知る由もない。
「あ、良い天気……」
工房の窓から外を見れば、春のうららかな日差しが降り注いでいる。
しかし、今のライエンティールにその光を浴びることはできない。
「でも仕事ちゅうぅうううううう~~」
ばたりと机の上に突っ伏し、その姿勢のまま端に追い遣られていた学園の課題に取りかかる。
「どうせすぐに次の電話が……」
その言葉通り、電話が鳴った。
ライエンティールの目から光が消えた。
タックはメルライアとメイルフィードと伴い、マイトの工房にやって来た。
彼自身はようやく正式に受理されたマイトの工房での実習のためだが、メルライアとメイルフィードはそれぞれライエンティールとマイトに用があった。
「おーい、リリィ」
「うぇーい」
タックの声に応え、工房の奥から聞こえてくる呪詛混じりの声に三人は「またか」という表情を浮かべる。
ライエンティールがこのような状況に陥った原因について、彼らは半ば当事者として関わっていた。
「一週間前はあんなにはしゃいでたというのに……嘆かわしい」
メイルフィードは整頓された工房の中を進み、奥の事務机でがりがりとペンを動かすライエンティールに嘆息した。
「仕方がないでしょう。私たちにはどうしようもないんだし」
「だよなぁ、フォーナイン――純度九九.九九パーセント――精霊石なんてどうやっても買えないし」
「うばー」
ライエンティールの呻きは続く。
昇格戦そのものは彼女の勝利として認定された。〈血塗れ伯爵〉の暴走は試合の判定が下った後のことで、昇格戦そのものに疑義はないとの判断だ。
彼女の〈嵐の魔女〉は改めて学園の検査を受けて承認され、結局退学処分となったパトリックの代わりに正式に第十位となってから、彼女の生活は一変した。
ライエンティールは上位者に与えられる邸宅は掃除が面倒だからと断って寮住まいを続けたが、返済義務のない修学補助金が彼女の口座に振り込まれるようになり、これまでは高嶺の花だった様々な資料や訓練器具を揃えられるようになった。
そこまでなら問題はない。
これからは挑戦を受けつつ、さらに上を狙う日々が始まるだろう。その筈だった。
だがそこに、“奴”がやって来た。
「請求額どうする」
マイトは始め、工房に運び込まれた〈嵐の魔女〉の整備をしながらそうライエンティールに訊ねた。
もしもそこにメルライアかメイルフィードがいれば、この後の悲劇は防げたかもしれない。しかし、そこにいたのはライエンティールひとりだった。
「もちろん、全部払うわ! あなたが仕込んでおいた形見の懐中時計の分もね!」
ライエンティールは学園の医務局で治療を受けた後、自分を救ったあの奇跡がマイトの手によるものだとジルアから知らされていた。
その基点となったのが、彼女の胸の辺りのメインフレームに嵌め込まれていたマイトの懐中時計、その動力だった精霊石に拠るものだとも。
精霊石は奇跡の対価として消失し、両親の形見と聞けば、彼女がそれを無にすることはあり得ない。
たとえマイトがいらないと言っても、懐中時計の修復に掛かる費用を負担するつもりだった。
「そうか、まあ、良いけどな」
ライエンティールは後々になって、そのときのマイトの態度は少しおかしかったと語った。戸惑っているような、馬鹿を見ているような態度だったと。
それは正しかった。
「じゃあ、これにサイン。一応、分割にはしておいたから」
「うん」
ライエンティールはそのとき、契約書類はきちんと読むという基本的なことを怠った。昇格戦に勝利して気持ちが浮ついていたのだ。
そして、“奴”が彼女の目の前に現われた。
「じゃあ、これ控えな。振込先はあとで教える」
「うん。ええと――ゼロがいち、にい、さん、しい、ごお……」
ゼロの数を数えるたび、請求書を握るライエンティールの手がぶるぶると震えた。
「ろくぅ……ななぁ……はちぃいいいいい……」
その時点で、ライエンティールの意識は八割方別世界に旅立っていた。
そして、彼女はゼロを数え、その上に燦然と輝く一を見た。
締めて、一〇億ユーロ也。
「ふあああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
〈風の魔女〉の修理費用。〈嵐の魔女〉の整備費用など大したことはない。第十位となった今、それらの費用は学園が負担することになる。
しかし、懐中時計の動力だった精霊石はその制度から除外されていた。
「一応、これ今日の精霊石相場な。で、こっちが元々の精霊石の品質鑑定書」
「おぉう、おぉう……」
ライエンティールは泣きそうになった。
でも、泣くに泣けなかった。
その代わりに、彼女はマイトにこう言うしかなかった。
「すみません、身体で払います……」
「おう、頑張れよ」
ここに雇用契約は成立した。生涯雇用レベルの。
「もの凄い良心的な値段ではあるわよね」
「ですわね。一応ワンランク下の精霊石の相場で請求書出してくれたんでしょ?」
「あんな百年に一個なんて純度の精霊石、懐中時計に仕込んであるとは思わないよなぁ」
メルライアはライエンティールの隣の事務机に座り、書類箱に放り込まれていた伝票を片付け始める。
本来ならライエンティールの仕事なのだが、彼女に事務処理技能はない。結果、ライエンティールは電話番になったのだ。
「で、マイト様はどこですの?」
「様って、随分と……」
きょろきょろと工房内を見回すメイルフィードに、タックが呆れたように呟く。
その背後に、ぬっと影が現われた。
「仕方がないね。お嬢さんのご実家からすれば、マイトの力は喉から手が出るほどほしいだろうから」
「うわあっ!?」
タックは突然現われたジルアの声に驚き、持っていたハンマーを落としかける。
ひょいひょいとお手玉を繰り返し、ようやく柄を掴んで安堵した。
「ジルア先輩、お願いですから気配消すのはやめてください」
「消してないと何度言えば理解してくれるんだ。影が薄いとでも言いたいのか」
「違いますよ!」
タックはジルアに追い立てられるようにして仕事に入り、ひとり退屈そうに欠伸をしながらメイルフィードが漏らした。
「皐月原男爵家の舞斗。本家から捜索命令が出てたのに全く気付きませんでした。奇跡の作り手。運命を切り開く剣。ああもう、本家の怒り狂う様が簡単に想像できます」
「で、あんたは何をしようとしているの」
少し復活したライエンティールが、もそもそと顔の向きを変えてメイルフィードを見た。
半死人のような光のない瞳にうっと呻きながらも、メイルフィードは胸を張って言った。
「もちろん、わたくしの錬装甲冑も同じように……」
「精霊石」
「ぐっ」
メイルフィードが言葉に詰まり、ライエンティールは再びもそもそと顔を戻して課題を始める。
儀界導術士本人ではなく別の誰かの願いを叶えるには、それ相応の対価が必要になる。精霊石はその対価として最も確実で、最も高価だった。
そして恐ろしいまでの思考の先鋭化を行い、マイトがそれを受諾してようやく彼の儀界導術はこの世界に干渉できる。
「あれって心の繋がり? そういうのもあるらしくて、わたしの場合は精れ……ぐす……精霊石があったから上手くいったんだって」
「じゃあ、やっぱり本家にお願いして精霊石を……」
「あと、マイトがおけー出さないと」
「何ですか!? そんなにわたくしにマイト様取られるのいやですか!?」
「嫌とかじゃないんだよ! 返済するまで嫌でも離れられないんだよ!」
「知りませんよそんなこと! そもそもあなたが何も考えずにサインなんかするから!」
「だってあんな金額になってると思わないじゃん! じゃん!?」
「そういう行き当たりばったりなところがそもそも……!」
「うがあああああ! 血圧上がるぅううううう!!」
いつものようにメイルフィードと口論を始めたライエンティールがそう叫んだ瞬間、工房の電話がなった。
「あ」
血圧が、下がった。