A contrail of Star dust
いらっしゃいませ。
澄んだ濃紺の夜空に、小さな星屑が、一面に広がっている。
その幾千幾億もの光は、決して今のものではない。
我々が肉眼で見ることのできる最も遠いものはアンドロメダ銀河だそうだ。
距離にして250万光年。
その光が出発したのは今から250万年前のことなのだ。
250万年前…といえば、我々の祖先である「猿人」と「原人」の境目だろうか。
とても不思議なことだ。
きっと彼らはこの広い夜空に浮かぶ星々を心に留めたこともあるまい。
そんな、今から見れば「情趣のない」時代に出た光を、今になって、「あぁ、綺麗だなぁ」などと言っていってあはれがっているのは実に皮肉なことだと思う。
だが、それは人の性なのではないか。
今の人々をとってみれば、
その頃には評価されていないような書物や絵画、詩などを今になってこんなところがいい、やれあんなところもいい、などと再評価して満足している。
さらにそれでは飽き足らず、平安時代の和歌がどうだ、鎌倉時代の軍記物がどうだ、と過去に評価されたことを掘り起こしてはむやみにありがたがっている。
一体過去にどれだけ執着があるのか…と言いたくなるが、実際には彼らは「過去」に執着があるのではない。
むしろ逆だろう。
「今」に執着があるのだ。
「過去」の作品を「過去」のままにしていては読めないし明日にも繋げられないから「今」に掘り起こしてくる。
「過去」の出来事も「過去」のままにしていると人々の記憶から消えていってしまうから「今」に掘り起こして「歴史」として残す。
この、ある意味自己中心的ともいえる、「今」への振替作業こそ、「学問」なのだ。
過去のことを今になって考えてみる。
過去のことを今になって発展させてみる。
文化というのは「今まで」の上に「今」を載せているものではない。
「今まで」と「今」が並列されている。
だから「未来」つまり「これから」はまたそこに付け足されていくものだから、「過去」に「これから」は存在しないし、「未来」にも「これから」は存在しない。
「今」にだけ「これから」があるのだ。
ゆえに、考えることをやめることは、「今」、そして「これから」を失うだけではない。
「過去」をも失う。
だから人々はあんなにも「過去」を取り上げては悦んでいたのだ。
自らの「今」を確かめられて。
そんな、人の営みに想いを馳せながら、星々の集まった飛行機雲に目をやると、その遥か下を、まるで星々の一員だとでも言うように一機の飛行機が、光を靡かせながら飛んでいる。
きっと、あれも星なのだろう。
そう思うのに時間はかからなかった。
かくして、今日もまた、二万五千世紀を超えた星々の協奏曲が、すっかり闇にのまれた空を背景に宇宙で奏でられるのだった。
いかがでしたでしょうか?
今回も相変わらずの内容ですが、お読みいただきまして本当にありがとうございます。
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