「のびるこ渡し」にご用心
天神杜小学校では、夏休みの直前に「のびるこ渡し」がある。児童の保護者が学校に来て、担任の先生から「のびるこ」と呼ばれる通信簿を受け取るのだ。
「のびるこ」には、児童一人一人の一学期分の成績がぎゅっと詰まっている。だから、どの児童も、のびるこ渡しの日にはそわそわし通しだ。
「のびるこ渡し」の日は、授業がお昼までだった。給食を食べてから帰りの会が行われ、児童たちはにぎやかに解散した。ロッカーに置きっぱなしだった荷物を一気に持ち帰る子が何人もいた。教室で野球やバスケットボールのユニフォームに着替えて、そのまま練習に向かう子たちもいた。友達と遊ぶ約束をして、はしゃいでいる子もいた。何をしていても、もうすぐ夏休みだという実感がわいてくる。うるさいくらいのセミの声も、この日は盛り上がるBGMだ。
校内では先生と保護者の間で「のびるこ渡し」が行われるから、児童たちは早々に追い出された。ほとんどの児童たちは、わいわいと下校していった。けれど、6年2組の稜成と美優は、校舎の隅っこに残っていた。
体育館の2階には卓球台が置いてあるが、この日は誰も卓球をしに来ない。秘密の話をするのに好都合だ。
稜成は、美優に低い声で話しかけた。
「本当に、からかっているんじゃないだろうな?」
美優は意味ありげに肩をすくめてみせた。
「わたしは、その話を3年生の時に、縦割り班の6年生から聞いたのよ。嘘だとは思えない!」
だけど、そう言われても、稜成はまだ信じることができずにいた。
「のびるこ渡しと同じ日に__「裏のびるこ渡し」があるなんて!」
美優の目がきらりと光った。
「わたしにその話を聞かせてくれた先輩はね、本当に「裏のびるこ渡し」を見たんですって。夏休み前の、この日に。それは天神杜小学校の暗い秘密なのよ。先生も知らない不思議な世界で、こっちの世界と同じように「のびるこ渡し」があるの。でも、その時渡された「のびるこ」の内容が悪かったら、恐ろしいことが起きるんですって!」
「恐ろしいことって?」
「さあ、知らない」
「その6年生は教えてくれなかったのかよ」
「ええ、そうよ」
稜成は笑った。女子って奴は、嘘か本当かも分からないうわさが好きらしい。それでもこの日、先生に見つかって叱られるリスクを冒してまで美優に付き合ったのは、彼女を好いているからだった。美優はさらさらの黒髪のきれいな女の子だったが、好奇心旺盛な性格で、いつもあれこれと面白いものを見つけてくる。虫だって平気で触れるし、顔や服が砂まみれになることも気にしない。
「だけど、その「裏のびるこ渡し」ってやつは、どこでやってるんだ?」
「先輩が言うにはね……」
美優はぐっと稜成に顔を近づけ、ささやいた。稜成はどきんとした。まるで恋人のように、隣り合っていることが今さら恥ずかしく、けれど奇跡的な出来事のように感じて胸の鼓動が速くなる。
「学校の中にある鏡のどれか一つに、のびるこ渡しの会場への入り口があるんですって」
「鏡?」
美優はさっと立ち上がり、稜成に右手を差し出した。
「時間はたっぷりあるわ。わたしたちで、それを見つけましょ!」
美優と稜成は、学校中をこっそりと歩き回り、鏡を見つけてはコンコンと叩いたりじっと奥を見つめてみた。トイレ、踊り場、更衣室……。けれど、どの鏡も普通の鏡で、どれだけちょっかいをかけても何も異変は起こらないのだった。
二人は、何度か先生や次々とやってくる見知らぬ保護者に見つかりそうになった。間一髪、物陰に身を隠した二人は、顔を見合わせてにやにや笑った。
とうとう学校中の全ての鏡を調べ終わり、稜成と美優は校舎の外に出た。体育館の渡り廊下を背に空を見上げると、日が西の方に傾きかけていた。遠くから、少年野球のかけ声がかすかに聞こえる。
「見つからなかったわね」
美優がそう言って、地面にしゃがみこんだ。稜成も真似をして、膝を曲げる。
「そろそろ、本当ののびるこ渡しも終わりそうだな」
美優が稜成を見た。彼女は落胆しているかと思いきや、以外にも楽しそうだった。
「もう、いいわ。のびるこなんて、一枚もらえば十分だし。それより、帰りにお菓子とジュースを買っていきましょうよ。こっそりお小遣いを持ってきたの」
美優は、大人っぽい黒の財布を見せびらかした。稜成は口笛を鋭く吹いた。
「やるな、美優。のびるこにCつけられるぜ」
「バレなきゃいいのよ。そうでしょ?」
けれどその時、美優ははっと耳をそばだて、稜成の腕をつかんだ。
「誰か来る!」
ぺちゃくちゃ喋る声と、複数人の足音が稜成の耳にも聞こえた。二人はとっさに逃げだし、体育館の裏を抜けてプールの近くまでやってきた。プールにはなみなみときれいな水が張られている。少し前に水が抜かれる事件があったが、犯人は無事捕まったらしい。
昼間のプール授業の時とは違い、プールの周りは静まり返っていて、セミの声一つ聞こえない。何となく落ち着かない稜成をよそに、美優はプールの中をのぞきこんでいた。
「稜成!」
「なんだよ」
「見つけた」
美優の声は穏やかで、しかし興奮を無理に抑えつけているようでもあった。
「何を?」
「鏡をよ」
美優は、プールをのぞきながら手招きした。つられて彼女の隣にしゃがみ、稜成は息を呑んだ。
プールの水面に、くっきりと二人の姿が映っていた。背後に飛ぶ鳥の影、服のしわ、飛び出た髪の毛の先までも。そう、これはまるで__鏡だ。
美優は水面に身を乗り出した。風が起きて、彼女の長い黒髪を揺らす。しかし、水面には波紋一つ立たない。
「やっているんだわ。この中で、『裏のびるこ渡し』を!」
「よせ、美優!」
稜成が叫び、美優を抱きとめようとした時、彼女は既にプールの中に身を躍らせていた。
美優がプールに飛び込んだ瞬間、何の音もたたなかった。ただ鏡面に吸い込まれるようにして、彼女は消えた。
呆然とする稜成の前で、プールの水にどんどん波紋が広がり、鏡のように写し出されていた虚像は跡形もなく消えてしまった。
稜成はしばらくそこで待っていたが、美優が戻ってくる気配はない。プールの水に手を浸してみても、ただ冷たい水に濡れるばかりだ。そのうち見回りの先生がやってきて、稜成をプールサイドから追い出した。
帰宅してからもどうしても気になって、稜成は美優の家に電話をした。美優が出てくれるといい。彼女の声を聞いて安心したい。そう願いながら、呼び出し音を聞いた。
30秒ほど待たされた後で、ようやくガチャッと音がした。
「美優? 美優だよな?」
急き込むようにして稜成は呼びかけた。けれど、聞こえてきたのは、
「美優君は、裏のびるこの成績がとても悪かったので、こっちの世界でお勉強をやり直すことになりました」
知らない男の人の、いやに間延びした声だった。