「き、君を愛することはできない!」と言った旦那様を全力で誘惑してみることにした
ゆるいラブコメです。
よろしくお願いいたします。
※R15は念の為
結婚式が終わりウェディングドレスを脱ぐと、息つく暇もなくメイドたちと共に浴室へと急ぐ。
本日、私はクロエ・ガルシア男爵夫人となった。
そして、夫婦になって初めての夜を迎える。
私はメイドたちによって全身を磨き上げられ、気合いの入った夜着を着せられると、夫婦の寝室へと案内された。
そうしてベッドの上に腰掛け、夫のデリックを待つこと数十分……。
「き、君を愛することはできない!」
部屋に入るなり強張った表情でそう言い放ったのは、夫になったばかりのその人。
短い黒髪に凛々しい眉、少し垂れ気味な琥珀色の瞳からは素朴で穏やかな印象を受ける。
しかし、その逞しい身体は夜着を纏っていても隠しようがなく、さすがは隣国との戦いで爵位を賜る程の活躍をみせた騎士だと思った。
「……理由を聞いても?」
私はベッドの上に腰掛けたまま、向かいに立つ彼の顔を見上げて静かに問いかける。
「俺には、心を捧げた女性がいるんだ」
「………」
「クロエ嬢……本当にすまないと思っている」
絞り出すようなデリックの言葉に、なるほど……と心の内で納得してしまう。
私たちの結婚は王命によるもので、特殊な事情により婚約期間はわずか数ヶ月。
そして、私たちが結婚に至るまでに顔を合わせたのもわずか数回。
彼が私の名を他人行儀に呼ぶことでわかる通り、夫婦となった私たちの間には未だに距離がある。
それに、社交界での私の悪評はデリックの耳にも届いているはずで、他に好きな女性がいると言われても、それは仕方の無いことだと思えた。
私は一瞬の思案のあと、再びデリックへと問いかける。
「お相手が誰なのか伺ってもよろしいですか?」
「それは……」
デリックの目がこれでもかと泳ぎだす。
(感情が顔に出やすいのね……)
デリックはしばらく目を泳がせていたが、覚悟を決めたかのようにゆっくりと口を開いた。
「実は、君の姉君のことを……」
「まあっ!」
思わぬ人物に、私は驚きの声を上げてしまう。
(まさか、お姉様が不貞を……?)
姉のアレットはすでに既婚で、もうすぐ第一子が産まれる予定だ。そのため、王都から離れたこの領地での結婚式には、姉の夫であるニコリッチ侯爵だけが参列してくれた。
姉とニコリッチ侯爵は婚約中から現在も仲睦まじい関係だと思っていたのに……。
すると、私の驚愕した様子に、デリックが焦ったように言葉を続ける。
「い、いや、違うんだ!その、俺の一方的な気持ちで……」
そのままデリックはアレットとの馴れ初めを話し始めた。
彼が十二歳の頃、うっかり湖で溺れてしまったところを、とある少女に助けられたという。
医師の手当てを受け意識を取り戻したデリックの側にはすでにその少女の姿はなく、自分を助けてくれた相手の特徴を周りに伝えるとあっさり正体がわかったそうだ。
「それがお姉様だったと?」
「ああ。長い金の髪が水中に広がって……てっきり人魚に助けられたのかと思ったよ」
デリックは当時のことを思い出しているのか、懐かしむような口調になる。
たしかに、姉も母譲りの見事な金髪だ。
そして、彼が溺れたという湖の近くには、私の生家であるウェバー伯爵家の別荘があり、毎年家族で避暑に訪れていた。
(そういえば……)
湖で溺れた少年を救ったという話を、ずっと昔に家族が話題にしていたことを思い出す。
「それで、これは俺が責任を取らなければと思って……」
「責任……ですか?」
デリックをじっと見つめると、彼は目を逸らしつつ口をもごもごと動かす。
「実は、俺を湖から引き上げたあと、アレット嬢が俺に……その、口づけを……」
「口づけ!?」
「どうやら俺の呼吸が止まっていたらしく、医療行為の一環としてそのようなことを……」
デリックはしどろもどろになりながらも、懸命に説明を続ける。
医療行為とはいえ、アレットの唇を奪った責任を取ろうと、デリックはアレットとの婚姻を決意する。
しかし、一代限りの騎士爵家の生まれであるデリックでは、伯爵令嬢との婚姻は難しい。
だから、武勲を立て爵位を賜わろうと、これまで必死に騎士として務めてきたのだという。
そうして、やっと武勲をあげ戦地より帰還すれば、アレットはすでに結婚しており、何の因果かアレットの妹である私との結婚を命じられてしまったのだ。
「お姉様には気持ちを伝えられたのですか?」
「いや、爵位を得てから伝えようと……」
「これまでお姉様との交流は?」
「いや、湖で助けてもらって……それっきりで……」
「………」
まさか、アプローチどころか会うこともせず、一途に姉を想い続けていたとは……。
驚きのあまり言葉が出てこない。
「今まで別の女性……しかも、君の姉君に長年懸想してきた男との結婚など、クロエ嬢はとうてい受け入れることはできないだろう?」
そう言うと、デリックは申し訳無さそうに目を伏せる。
(なるほどね……)
デリックの事情はわかった。
正直、戦地に行く前に姉を口説いたほうがよかったのでは?とか、そもそも姉はデリックの存在を認識しているのか?など、気になることはたくさんある。
しかし、何よりも私が気になっているのは……。
(見られているわよね?)
申し訳無さそうな表情をして目を伏せているデリックの視線が……私の胸に注がれているのだ。
自分で言うのもあれだが、私の胸は大きい。
これまでも男性から視線を感じることは多々あったし、つい見てしまうのが男性というものなのだとわかっている。
わかってはいるが、今はそんな状況ではないはずで……。
(うん。偶然なのかも)
私と顔を合わせづらくて目を伏せたら、目に入ったのがたまたま胸だっただけなのかもしれない。
すると、デリックの視線が私の胸から外れた。
(ほら、やっぱり……)
しかし、ホッとしたのも束の間、今度はその視線が私の脚へと向けられた。
(……うん?)
自分で言うのもあれだが、私の脚は美しい。
普段はドレスによって隠されているが、夜着の裾からはすらりと伸びた脚が丸見えだった。
(もしかして……)
どうしても確かめてみたくなった私は、ベッドに腰掛けたまま、わざとゆっくり足を組んでみた。
今着ている夜着の丈はかなり短く両膝が見えている。そんな状態で足を組めば……。
すると、まるで私の太ももに吸い寄せられるかのように、デリックの視線も私の足の動きに合わせてゆっくりと動いていく。
(これは……)
見ている。それはもう、しっかりと見ている。
「………」
私はなんとも言えない気持ちで、デリックの顔を見つめてしまう。
すると、私の視線に気づいたのか、デリックは軽く咳払いをすると、太ももから視線を外し再び口を開いた。
「そこで、君とは白い結婚を貫こうと思う」
この国では、婚姻を結び三年経っても子ができなければ離縁することが認められている。
王命による婚姻を断ることはできなかったが、三年後に白い結婚を証明できれば離縁が認められるはずだとデリックは説明をした。
「そうすれば、すぐに新たな嫁ぎ先が見つかるだろう。俺のような不実な男と一緒になるよりも、そのほうが君は幸せになれると思って……」
「だから、白い結婚……」
「ああ。君には指一歩触れないと誓おう!」
そう真剣に訴えるデリック。
しかし、私が足を組み替えると、彼の視線は再び私の太ももを追いかける。
(なんてことなの、言葉にまるで説得力がないわ……!)
戦慄する私に、デリックは太ももを見つめたまま話を続けた。
「これから三年間は君に我慢を強いてしまうが、なるべく不自由な思いはさせたくない。要望があれば何でも言ってほしい」
デリックのほうが何かを我慢しているような表情で、そう話を締めくくる。
「わ、わかりました」
「じゃあ、俺はこれで……」
そう言うと、デリックはくるりとこちらに背を向けて、そのまま扉へ向かって歩き出す。
「おやすみなさいませ」
デリックの背中にそう声を掛けると、部屋の扉を開けた彼がこちらを振り返った。
「………」
「………」
ものすごく未練がありそうな表情をしている。
「ああ、おやすみ……」
もう一度しっかりと私の胸を見つめてから、デリックは部屋を出て行ったのだった。
◇◇◇◇◇◇
(さて、どうしようかしら?)
夫婦の寝室に一人残された私は、ベッドに腰掛けたまま考えを巡らせる。
デリックは、新たな嫁ぎ先での私の幸せを望んでいると言っていたが……それは厳しいように思う。
なぜなら、以前に来たいくつかの縁談は、どれもが曰く付きのものばかりだったからだ。
(まあ、悪女にまともな縁談は来ないわよね)
『悪女』とは、社交界での私の評判を意味する。
そもそも、私が悪女と呼ばれるようになったのは、貴族学園に入学して半年が経った頃のこと。
『クロエが色目を使って男子生徒を誑かし、男漁りをしている』
そのような噂が学園内に広がり始めた。
全く身に覚えのないものだったが、このような噂が流れた原因には心当たりがあった。
それは、私のこの派手な容姿のせい。
ゆるいウェーブがかった赤髪は社交界の華と謳われた祖母ゆずりのもので、兄と姉は金髪なのに私だけ髪色が異なる。
そして、ツリ目気味の大きな翠の瞳に長い睫毛、ぽってりとした分厚い唇の右下にはホクロが一つ。
それに加えて、すくすく育ち過ぎてしまった豊かな胸と、兄の筋トレに付き合ったおかげで引き締まった腰とキュッと上がったお尻。
どうやら、それら全てが年齢にそぐわない色香を醸し出している……らしい。
だから、私はなるべく目立たないよう髪はきっちりと結い、化粧は最低限にして服装にも気を配り、男性とは距離を取って接していた。
それなのに、気が付けばこのような噂が広まっていたのだ。
友人たちは噂を消すために協力すると言い、私も懸命に不名誉な噂の数々を否定した。
それなのに、なぜか噂は消えるどころかさらに勢いを増して広がっていく。
なんのことはない。
噂を流していたのは、私が友人だと思っていた彼女たちだったのだ。
目立たないようにしていたつもりが、実際は男子生徒たちの間で私の容姿について様々な言葉が交わされていたらしい。そんな男子生徒たちの中に、元友人たちの想い人も混じっていたようで……。
クスクスとこちらを見て嘲笑う彼女たちに、私は深く傷付けられてしまった。
━━そう、プライドが
本来の私の性格は苛烈で負けず嫌いだ。売られた喧嘩はしっかり買う主義でもある。
(どうせ、どれだけ噂を否定しても誰も信じてはくれないし、余計に面白がられるだけ。だったら、あなた達のお望み通りに……)
結っていた髪を解いて化粧は華やかに、そして、自身のスタイルが映えるよう制服の丈を調整する。
男子生徒からの熱い視線には妖艶な笑みを返し、言い寄ってきた相手には思わせぶりな態度を取る。
さすがに一線を超えるような真似はしなかったが、私は男を手玉に取る悪女のように振る舞った。
元友人たちは私の変貌に驚き騒ぎ立てたが、そもそもは彼女たちが流した噂通りの姿。それを今更とやかく言われても私は止まらない。
結局、貴族学園で悪女の名を欲しいままにし、卒業後は社交界へと舞台を移す。
すでに学園での素行が噂として広まっており、初めて夜会に参加した時から、私は『悪女』として好奇と偏見の目に晒された。
社交界でも苛烈な争いが始まるのだと、肩をぶんぶん回して準備をしていたその時、予想外の出来事が起こる。
「私をいずれオーガスト殿下の愛妾に……?」
それは、この国の第一王子であるオーガスト個人からの秘密裏の打診。
なんと、夜会で私の姿を見かけ、ひと目で気に入ったというのだ。
王妃の子であるオーガストは、血統の正当性から王太子に一番近いが素行に問題アリと噂される人物。
そのため、王太子の座を巡って、側妃の子である第二王子と後継者争いの真っ最中でもある。
(伯爵令嬢である私に、側妃ではなく愛妾の打診をするなんて……)
おそらく、私の容姿と社交界の噂によって、そのような判断をしたのだろう。
しかも、まだオーガストが王太子になると決まったわけでもないのに……。
父は怒り狂って抗議をすると息巻くが、相手は第一王子である。事を荒立てたせいで我が家になにかしらの圧力がかかり、不利益を被るかもしれない。
(それに、わざと悪女を演じていた私にも多少の責任はあるわよね……)
ちょっとだけ反省をした私は、オーガストの婚約者であるカールソン公爵令嬢へ秘密裏に連絡を取った。
オーガストから愛妾の打診が来たことを明らかにし、カールソン公爵家の敵ではないことを表明しつつ、「そちらでオーガスト殿下をどうにかしてくれませんか?」とお願いをする。
そのように事態の収束を図っていると、思いもかけない人物が先に動いた。
それは、オーガストの母である王妃、その人。
愛妾の打診が表沙汰となり、カールソン公爵家の不興を買えば、王太子の座を巡る争いでオーガストは一気に不利な立場となってしまうだろう。
だから、『オーガストが愛妾の打診をした』という事実ごと、私をさっさと排除することにしたらしい。
そうして、隣国との国境戦で武勲をあげたデリックへの褒賞の一つとして、私は彼に嫁ぐことになったのだ。
王妃の暴挙に父はやはり怒り心頭だったが、私はこれで事態が収まるならと、この婚姻を受け入れた。
下手に騒いで、父より年上の伯爵家当主の後妻や、身内の不審死が続く侯爵家に嫁がされるよりかはマシだと思ったからだ。
(そろそろ悪女も潮時だったし……)
デリックが賜わった領地は、王都からずいぶん離れた場所にあり、しばらくは社交界から離れてゆっくり過ごすのもいいだろう。
領地経営に不慣れなデリックを補佐するため、父が優秀な人材を派遣してくれた。
私にとってこの結婚にデメリットは感じられず、やはりこのまま婚姻を継続したいという結論に至る。
問題は、どのようにしてデリックを説得するかだが……。
先程のデリックとのあれやこれやを思い出す。
彼はアレットへの想いや責任感に囚われてはいても、その本能はぐらぐらと揺れているように見えた。
それに、私の『悪女』の評判についてデリックは一言も口にはせず、彼なりに私のことを尊重してくれているようにも感じた。
(けっこう嬉しかったのよね……)
そんなことを思いながら、さっそく作戦を練り始めた。
◇◇◇◇◇◇
翌朝、屋敷の食堂の扉を開けると、すでにデリックが椅子に座っていた。
「デリック様、おはようございます」
「ああ。おはよ……う……?」
挨拶を返そうとこちらを見たデリックは、目を見開いたまま固まってしまう。
「な、な、な……」
何か言いたげに口をパクパクさせているデリックをそのままに、私は彼の向かいの席へと座る。
「どうかされましたか?」
「その格好はどうしたんだっ!?」
私が身に纏っているのは胸元がざっくり開いた黒のドレス。
スカート部分には赤い糸で刺繍が施されており、どう見ても夜会用のものである。
「あら?お気に召しません?」
そう言いながら妖艶に微笑んで見せる。
「お気に召すとかじゃなく……ぬ、布の面積が少な過ぎるだろうっ!!」
デリックは顔を真っ赤にして叫んだ……が、その視線は私の胸の谷間に釘付けだ。
どうやら、お気に召したらしい。
このドレスは夜会用の戦闘服として、悪女らしさをテーマに敢えて露出多めにデザインをさせたものだった。
夜会でお披露目をする前に結婚が決まり、もう着る機会はないと思っていたのだが……。
(ふふっ、こんなところで活かせるなんて)
私はデリックとの婚姻を継続させるために、まずは白い結婚を撤回させようと考えた。
そして、その一番効果的な方法は色仕掛けだと確信する。
美しい過去の思い出なんて、強烈な現実で蹴散らしてしまえばいい。
◇◇◇
そして、翌日の朝。
食堂の扉を開けると、すでにデリックが椅子に座っている。
「デリック様、おはようございます」
「ああ。おはよう……」
挨拶を返そうとこちらを見たデリックは、昨日と同じように目を見開いたまま固まってしまう。
「そ、そのドレスは……?」
「昨日は布の面積が少な過ぎると言われましたので……」
今日の私は、ダークアッシュの落ち着いた色味のドレスを身に纏っていた。
首元から全身を覆う布地は身体に沿ってフィットしたもので、全体の印象が重くなりすぎないようにデコルテや裾部分にはレースが仕様されている。
つまり、胸の谷間や太ももは隠されていても、私の体型がこれでもかと強調された想像力を刺激するドレスである。
「たしかに布の面積は増えたが……」
そう言いながらも、デリックは私の身体のラインをしっかりとその目で追っている。
「これならば大丈夫でしょう?」
「いや、その、これはこれで……」
「これはこれで……?」
「えっと、ふんわりとしたドレスのほうが……」
「では、次はそのようにいたしますわ」
何やら言い訳めいたデリックの言葉に、私は微笑みながらそう返事をする。
しかし、デリックは探るような目つきで私を見つめていた。
◇◇◇
そして、さらに翌日の朝。
「デリック様、おはようございます」
「あ、ああ。おはよう……。今朝は早いんだな」
いつもと違い、今朝はデリックより先に私が食堂の席に座っていた。
「早くに目が覚めてしまいまして」
「そうか……」
デリックは向かいの席に着くと、私のドレスをチラチラと観察し始める。
今日の私の格好は、胸元も開いておらず、布地がぴったりとフィットし過ぎることもなく、至って平凡な若草色のドレスを身に纏っている。
そんな私の姿に、デリックは安心したようにホッと息を吐いた。
「今日のドレスは、とても、とても、君に似合っている……」
そのしみじみとした声音に、思わず笑みが溢れる。
「ふふっ、ありがとうございます」
すると、デリックはそんな私の顔をじっと見つめた後、ふいっと視線を外した。
そして、朝食が運ばれてくると、しばし食器の音だけが食堂に響き渡る。
「デリック様、実はこの後に少々予定がございまして、先に部屋へ戻ってもよろしいでしょうか?」
急いで朝食を食べ終えた私は、デリックよりも先にこの食堂を出なければならないと告げる。
「ああ……」
「では、失礼いたします」
そう言って、私は席から立ち上がるとデリックに背を向ける。すると、ガタンッと椅子が動いた音と共に叫び声が響いた。
「あ……あ……背中ぁぁぁっ!!」
そう、実はこのドレス、背中の部分だけがこれでもかと開いているデザインなのだ。
自分で言うのもあれだが、私の背中は白く滑らかでシミ一つない。
デリックが食堂に現れた時は椅子の背もたれで背中は隠れており、食事中も彼の位置からは見えていなかった。
私は顔を赤らめているデリックを視界の端に捉えると、勝ち誇った笑みを浮かべて食堂を後にした。
◇◇◇◇◇◇
その日の夜、初夜以来ずっと自室で寝ていたデリックが夫婦の寝室を訪れた。
もちろん、いつデリックが訪れてもいいように、今夜も私は気合いの入った夜着を身に纏っている。
「君と話し合いたいことがある」
「まあ、何のお話でしょう?」
ついにデリックが私の誘惑に屈し、白い結婚を撤回しに来たのだと胸がドキドキと高鳴る。
しかし、ベッドの上に腰掛け、デリックに熱っぽい視線を送ってみるも、なぜか彼は深い溜息を吐く。
「その前に……そんな格好のままでは風邪を引いてしまう」
そう言って、デリックは手に持っていたガウンを強引に私に羽織らせた。
「………」
これでは、せっかくの夜着の効果が半減である。
それに、ベッドではなく椅子に座るよう促されてしまった。
「クロエ嬢、あのようなドレスを着るのはやめてくれ」
テーブルを挟み向かい合って椅子に座ると、デリックは開口一番にそう言った。
「あのようなドレスとは?」
「胸元が開き過ぎたり、身体のラインがわかり過ぎたり、背中が丸見えのドレスのことだ」
とぼける私に、やや早口でデリックは言葉を返す。
「そんな!私はデリック様に喜んでいただきたくて」
「あのような格好は好みではない」
「え……?」
あれだけの熱い視線を送っておいて……?
素っ気ないデリックの態度に思わずカチンと来る。
「でも、見ていましたわよね?」
「………」
デリックは無言のまま目を逸らす。
「しっかりと私の胸の谷間や身体のラインを見ていましたわよね?」
しかし、私は逃さない。
「あれは……見るだろう!見てしまうだろう!」
すると、デリックは開き直ったのか、今度は全力で肯定をし始める。
「君は自分がどれだけ魅力的なのかわかっているのか?俺だから我慢できたものの……。あんな格好を続けるつもりなら、俺だって自制できるかわからない!」
「……っ!」
やっと見ていたことを認めたなという気持ちと、魅力的
だと言われてちょっと嬉しい気持ちが同時に湧き上がり、複雑な気分になる。
「わかったなら、もう少し控え目なドレスを着てくれ」
「……嫌です」
私はきっぱりとそう告げる。
「そもそも、白い結婚に私は納得しておりません」
「そんな……。君はあの夜、『わかりました』と答えてくれたじゃないか」
「それは、デリック様のお気持ちが『わかりました』という意味で、同意したわけではありません」
「でも、俺は君の姉君のことを……」
「デリック様の初恋の相手が私の身内だった……ただ、それだけのことでしょう?」
それに、実際に恋仲であったわけでもなく、まるで幻想に恋する乙女のようなものだ。
「それくらいのこと、私は全く気にしておりません!」
「しかし、俺は……」
ここまで言ってもまだ煮え切らないデリックの態度に苛立ちを覚える。
「やはり『悪女』の私のことがお嫌いなのですか?」
姉のことは建前で、本当は評判の悪い私自身が気に入らないのではないか。
そんな考えがふと頭をよぎり、気づけばそのような言葉を口にしていた。
「悪女?……ああ、君にはそんな噂があったな」
やはり、私の評判をデリックは知っていた。
「まあ、そんな噂が流れたのは当然だろう」
私が悪女であると肯定するようなデリックの口振りに、心臓がドクリと波打つ。
「君はこんなにも美しく魅力的なんだ。周りからのやっかみも相当なものだったろう?」
「え……?」
しかし、続く言葉は思わぬものだった。
驚きのあまり、デリックの顔をまじまじと見つめてしまう。
「君ほどじゃないにしても、俺にも色々あったから……」
そう言ったデリックの声は、ひどく実感がこもったものだった。
「金を積んだだの、上手く取り入っただの……ああ、目をかけてくれていた上官との体の関係を吹聴されたこともあったな……」
そして、彼は遠い目になる。
(あ……)
デリックは一代限りの騎士爵の子息……つまりは、貴族よりも平民に近い存在だ。
そんな彼が武勲を上げ、のし上がることをよく思わない連中もいたのだろう。
「わ、私も……何もしていないのに勝手な噂を流されて……」
似た境遇のデリックの話につられ、貴族学園での出来事を話し始めていた。
目立たぬよう気を遣っていたのに、気付けば周りが敵ばかりになっていたこと。それに負けまいと、自ら噂通りの悪女を演じるようになったこと……。
「はははっ!クロエ嬢は勇ましいな!」
私の話を最後まで静かに聞いたあと、デリックはそう言って顔をくしゃくしゃにして笑う。
(こんなふうに笑うのね……)
彼の素の部分に触れたような気がして、胸がきゅんとする。
そして、もっとデリックのことを知りたいと思った。
「あの、先程のお話ですが……やはり白い結婚を撤回していただけませんか?」
私はそう言って、彼の顔をじっと見つめる。
「あなたの過去の想いはそのままで構いません。でも、これから互いを知って、ゆっくりと夫婦になっていきたいのです」
私がそう告げると、デリックはその琥珀色の瞳を見開き……。
「君が、そう望むのなら……」
と、頬を赤らめて答える。
やっと求めていた言葉を聞き、私は喜び勇んで立ち上がり、彼の気が変わらぬ内にと声を張る。
「では、さっそくベッドへ行きましょう!」
「待て!待ってくれ!」
しかし、なぜかデリックが待ったをかけた。
「今さっき、ゆっくりと言っていたじゃないか!それに、お互いを知ってからだと!……俺たちはデートすらまともにしていないんだぞ?」
「デートをしてもしていなくても、行き着く先は同じですわよ?」
そう言いながら、私は行き着く先であるベッドを指差す。
「そんな、身も蓋もない……」
がっくりとうなだれたデリックに、私はゆっくりと近づいた。
「デリック様、私じゃ魅力がありませんか?」
そう言って、ガウンを脱ぎ捨て悪女らしく微笑んでみせる。
「魅力があり過ぎるから困るんだよ……」
デリックは眉を下げてそう呟く。
そうして、私たちはゆっくりと……いや、けっこう早くに白い結婚を撤回し、夫婦となったのだった。
◇◇◇◇◇◇
デリックと結婚してから一年が経った頃、王宮で開催される立太子の儀式に出席することとなった。
国を挙げての式典に、王宮のホールはきらびやかに彩られ、そこでは着飾った多くの貴族たちが談笑している。
私はデリックの色である黒を基調としたドレスを身に纏い、ホールへと足を踏み入れた。
もちろん、悪女の頃のような戦闘服ではなく、祝いの席に相応しい落ち着いたデザインのものだ。
隣のデリックは私と対になる黒の礼服。その袖口には、私の髪色と同じ真っ赤なルビーのカフリンクスが光っている。
そんな私たちに向けられたのは好奇心や悪意に満ちた視線で、中には好色そうな目で私を見る者もいる。
さあ、どうやって蹴散らしてやろうかと考えていると、人混みが割れ、本日の主役である二人が私たちに近付いて来た。
「お久しぶりですね。クロエ」
王太子の婚約者であるカールソン公爵令嬢が、親しげに私の名を呼ぶ。
臣下の礼を取りながら挨拶をする私たちに、周りの視線が痛いくらいに突き刺さった。
「本日はおめでとうございます」
デリックと共に祝いの言葉を述べると、クリス第二王子が柔和な笑みを浮かべながら口を開く。
「ありがとう。これからは王太子として力を尽くし、務めを果たしていくよ」
そう……後継者争いを制し王太子となったのは、オーガストではなく第二王子のクリスだった。
そんなクリスの婚約者となったのが、オーガストの婚約者であったはずのカールソン公爵令嬢。
そして、この式典に王妃とオーガストの姿は無く、国王の隣にはクリスの母である側妃が座っている。
私が王都を離れている間に何があったのか……。
詳しいことはわからない。ただ、私が密告したオーガストの愛妾の打診の件を、カールソン公爵家が上手く利用したという話を父から聞いた。
「ガルシア男爵は騎士としての功績も素晴らしいですが、領主としても立派な働きをなさっていると聞きましたわ」
「ああ、それは私の耳にも入っているよ」
「身に余るお言葉、恐悦至極にございます」
クリスたちの言葉に、デリックは身を固くしながら返事をしている。
(なるほど……)
未来の国王夫妻にこのような言葉を掛けられた私たちのことを、大勢の貴族たちが目撃している。
そうすることで、私たちの立場を守ってくれたのだろう。
どうやら、あの時の密告に対する報酬のようだ。
そして、クリスたちが去ると、今度は懐かしい声が私の名を呼んだ。
「クロエ!」
そこに現れたのは、姉のアレットと、兄のエドガーだった。
「お姉様、お兄様、お久しぶりです!」
久しぶりの家族との再会に声が弾む。
「初めまして、クロエの姉のアレットです」
「……初めまして、デリックと申します」
当時妊娠中だったアレットは、私たちの結婚式には参列しておらず、デリックとは初対面だった。
デリックは一瞬驚いた表情をするも、すぐに落ち着いた様子で挨拶を返す。
(意外と平気そう……)
一途にずっと想い続けてきた相手に、もう少し動揺するのかと思っていたのに……。
そのあとは、兄も交えて互いの近況を報告し合う会話が始まり、デリックは動じることなく、私の夫として振る舞っていた。
そうして、和やかな雰囲気のまま時間は過ぎていく。
「それじゃあ、またね!」
「たまには家にも顔を出すんだぞ!」
アレットとエドガーが立ち去ると、私たちは誰もいないバルコニーへと向かう。
そして、二人きりになると、緊張から解き放たれた様子でデリックは大きく息を吐いた。
「初恋相手との会話はいかがでしたか?」
ちょっと意地悪な質問をデリックに投げかける。
「それが……なんとも思わなかったんだ」
しかし、返ってきたのはずいぶんとあっさりとした言葉だった。
自分でも意外だった……とデリックは言葉を続ける。
「そもそも、近頃は思い出すことすらなくなっていたし……」
「そうなのですか?」
「ああ。君のおかげで、俺の毎日は刺激的過ぎるからな」
そう言うと、デリックは熱っぽい視線を私に向け、愛しげに抱き寄せた。
「もう、俺の頭の中はクロエだけでいっぱいなんだ」
そう言って、顔を近づけたデリックの唇をそっと左手で塞いだ。
「そんなことをおっしゃったら、兄が悲しみますわよ」
「え?」
意味がわからないといった様子のデリックに、私は真実を告げる。
「湖であなたの命を救ったのは兄なのです」
「……は?」
湖で溺れて助けられたという話をデリックから聞いた時、私が思い出したのは……両親や姉が、溺れていた少年を助けたエドガーのことを褒めている光景だった。
兄のエドガーは今でこそ筋骨隆々でヒゲが似合う男らしい外見だが、当時は線も細く、長く伸ばした金髪も相まって少女かと見紛うような姿をしていた。
それに、姉は泳ぐのが苦手で、溺れている少年を助けることなんてそもそもが無理な話だったのだ。
「じゃあ、俺はエドガー殿の唇の感触を、何年もの間ずっと反芻していたのか……」
明らかにショックを受けている様子のデリック。
そんな彼を慰めるように、私は彼の頬をそっと両手で挟む。
「これからは私の唇の感触だけを反芻してくださいね」
そして、過去の感触を塗り替えるべく、私はデリックの唇に自身の唇を押し付けたのだった。
読んでいただき、ありがとうございます。
先日、救命処置の講習を受ける機会があり、今は心臓マッサージの際に人工呼吸をする必要はないと説明を受けました。
今後は人工呼吸をきっかけにした恋物語はなくなるのかもしれない……と思い、書いてみました。
※追記です 人工呼吸をする必要が無い……ではなく、あくまでも医療従事者や心肺蘇生に慣れている人以外は、不慣れな【人工呼吸をする時間も胸部圧迫を続ける】方が生存率が上がる
だから、人工呼吸は【やらなくてもいい】
というのが正しい
本当は人工呼吸もしっかりやった方が生存率が上がり後遺症も少ない
あくまで講習で一般の方に教える際には、「人工呼吸までやらなくてもいいから胸骨圧迫を救急車の到着まで続けるのを優先して下さい」と教える
↑感想欄にて人工呼吸をやらなくていい理由を詳しく教えていただきました。
こちらに追記で載せさせていただきます。
1/23(火)『真面目な悪役令嬢はヤンデレから逃げられない』アマゾナイトノベルズ様より電子書籍配信開始です☆
書き下ろしの番外編もありますよ〜!