第一話 貴代美
天堂が北新地で超高級クラブの
「クラリオン」のバーカウンターで酒を飲んでいると
一人の駆け出しホステスが近づいて来た。
天堂は働く場所が違うだろうとボックス席を指したが
今日が初めてなので不安で怖いと言った。
そな時、ママの地恵が来て、
天堂はその子の指導を頼まれてしまった。
ここは大阪の北新地でも超の付く高級クラブ「クラリオン」だ。そこのバーカウンターで一人の男がスツールに腰をかけて自分のボトル、ヘネシーのXOをオンザロックにして飲んでいた。ゆっくりと一つの丸い大きな氷を回しながら。
本来ブランディーの飲み方は香りを楽しむためにストレートと言われるが氷を入れてその氷の中で変化する味わいを楽しみながら飲むのもまた一つの飲み方だろう。
ただ普通の客はバーカウンターでは飲まない。ボックス席でホステス相手に酒場の雰囲気と会話を楽しみながら飲むんものだ。しかしこの男は何故こんな所で、しかも一人で飲んでいるのか。
この男、年の頃は30歳前後だろうか、こう言う所に来るには少し早いかも知れない。いや、社会経験の事を言っているのではない。経済的な事を言っているのだ。さっきも言ったようにここは超の付く高級クラブだ。当然値段も超が付く。
とても30そこそこの男に払える金額ではないだろう。もし払えるとすればIT関連か何かで時代の寵児になったかもしくは金持ちの御曹司かと言う事になる。
そのつもりで観察してみると着ている背広も結構高そうなものだ。靴も十分磨きが掛けられピカピカしてこれもやはり高級靴だろう。時計は特に値が張るとは思えないがそれでもアルマニだ。
髪の毛は短めにカットされ精悍そうに見える。目鼻の整った良い男だ。遊び人の様なすれた感じはしないが、かと言っておとなしそうなビジネスマンと言う感じでもない。
その男が一人で飲んでいるとスルスルとその男の隣にすり寄って来たホステスがいた。年の頃は22-3と言った所だろうか。目鼻のはっきりとした卵系の顔立ちの可愛い女性だった。
「あのーここよろしいでしょうか」
「ん?君は」
「あ、はい。わ、私は貴代美と言います。きょ、今日が初めてなんです」
「今日が初めてね。でも普通は向こうのボックス席で働くんじゃないの」
「そ、そうなんですけど、何だか私、安心出来なくて怖いと言いますか、何と言いますか・・・」
「君さー、一応こう言う所だとわかって応募したんだろう。誰かに強要でもされたのかい」
「いえ、そう言う訳ではないんですけど、まだ何だか自信がなくて・・・」
「困ったね。何でこんなとこに来たの?良かったらだけど」
「実は私将来やりたい事がありまして。でも親はそれに反対で家から出してくれないんです。それで私、家をび出して独立しようと」
「それでこう言う所で金を稼いで将来の夢を叶えたいと言う所かな」
「そうです」
「そうか。ならもっと身を入れて働かないと夢は叶わないよ」
「そうですよね」
そこにこの店のママ、地恵が来て、
「貴代美ちゃん、こんなとこにいたの。天堂さんいらっしゃい」
「ああ、ママ」
「そうね。天堂さんに任せようかしら。貴代美ちゃんの事お願い。色々教えてあげて」
「何だよ、いきなりそれは」
「貴代美ちゃん、この天堂さんにこの業界の事、色々教えてもらうといいわ。この人なら大丈夫だから。じゃーね」
「おい、じゃーねって、行くなよ」
ママはそのまま客達の方に行ってしまった。仕方ないので天堂は向こうの席に移るけどいいかとバーテンダーに言った。はい、わかりましたとバーテンダーはボーイを呼んで飲み物を移動させた。
席に着いた天堂はボーイに余分なグラス数個と水とソーダを持ってこさせた。こう言う所での基本的な飲み物と言えば、ストレートにオンザロック、それから水割りにソーダ割と相場は決まっている。
天堂は貴代美にそれらの入れ方、配分の仕方等を教えた。実にわかりやすい教え方でそれ以外の少し深いところまで教えていたので貴代美は眼をキラキラさせて聞いていた。
それからこう言う業界での客との接し方とか扱い方、ホステスとしての身の処し方に至るまで教授した。そして最後に色香は売っても決して身体は売るなと釘をさしておいた。
何故天堂がここまで水商売について詳しく知っているのか。貴代美は天堂はこの業界の人なんだろうと思っていた。でないとママがここまで信頼しないだろう。
天堂はその後、近くにあるバー「Time Out」に寄った。ここも天堂の行きつけの店だ。「クラリオン」では教育係などを押し付けられてしまったのでゆっくり酒が飲めなかったからだ。
客を拒むような重いドアを押し開けて中に入ってみるとカウンターでは一人の男が酒を飲んでいた。
「なんだお前来てたのか」
「来てたのかじゃないですよ。最近ちょっと独り歩きが過ぎませんか。ちょっとは自分の立場と言うものも考えてくださいよ」
「お前ね、年々小うるさくなって来てないか。そんなんだと若禿になるよ。それにさ、俺にも自由時間と言うものがいるんだよ」
「自由時間ね。私には1日中自由時間の様に思えるんですがね」
「ところで今日『クラリオン』で新人に会ったよ。それが地恵のやつ新人教育を俺に押し付けて行きやがった」
「そうですか、地恵らしいと言えば地恵らしいですが、どんな子でした」
「そうだな、まぁ、ものにはなると思う。だけどもしかすると火種になるかも知れないな」
「火種ですか。それは困りますね」
「お前もたまには『クラリオン』に寄ってやったらどうだ。地恵も喜ぶだろう」
「さーどうですかね。あいつはネチネチとしつこいんで」
「お前ら昔から仲が良いんだか悪いんだか」
「だいたい『天』と『地』は合い入れないんですよ」
この男、鳴海は天堂に取っては番頭の様な存在で、事務所の金銭的な事は全てこの鳴海に任せている。
「ところで教育係と言う事はまたしばらく『クラリオン』に通い詰めると言う事ですか」
「そうだな、そうなるかな」
「鼻の下が伸びてますよ」
「おい、俺はエロじじーじゃねーぞ」
その後も天堂はよく「クラリオン」に顔を出し貴代美の相手をしては指導をしていた。天堂のお陰で貴代美も客扱いが少しづつではあるが上手くなって行った。
元々が気立てがよくて気配りの利く娘だ。なので彼女の評判も上がり出した。そうなると彼女を指名する客も増える。
この頃になると初めの頃のぎこちなさもすっかりなくなり、水を得た魚の様に客の周りをスイスイと泳ぎ回っていた。
この辺りまで来ると俺の仕事ももう店仕舞いだなと天堂は思っていた。ただ一つの懸念を除いては。
どこの業界も同じで下の者がのし上がってくると上の者が嫉妬する。この店は超高級店なのでここで働くホステス達は容姿共に洗練されてはいるが、心の中まではそうはいかない。嫉妬心は普通に持っている。
ただママが元々引き連れていたホステス達は教育が行き届いていて問題を起こす事はなかったが、新しく雇い入れたホステス達はその限りではなかった。
特に最下位だった貴代美に追い抜かれた先輩ホステス達の気持ちにはいたたまれないものがあっただろう。要するに不安と嫉妬だ。
中には貴代美に対して露骨に意地悪をする先輩ホステルも出始めた。しかしそこはベテランママとチーママだ。そう言う事は既に経験済みと店内を上手く捌いていた。
ただそう言う嫉妬が高じて来ると意地悪だけでは済まなくなり、一人の先輩ホステスが貴代美を痛めつけるか怪我をさせて店に出てこれないようにしようと画策した。
よくある事と言えばよくある事かも知れないが悲しい現実だ。天堂が心配していたのも実はこれだった。
そのホステスは自分のヒモに貴代美を何とかしてくれと頼んだ。ヒモは本当にやってもいいんだなと念を押した。
ヒモは次の日から店の行き帰りの貴代美の後をつけて襲うのに適当な場所を丹念に物色し始めた。
天堂は最近の貴代美の働きぶりにエールを送りたい気持はあったがその反面少し心配もしていた。予想はしていた事だがそれは先輩達の嫉妬だ。特に特定のホステスの目つきが気になった。
今日は特にそのホステスの目の輝きが異様だった。天堂は何かあるなと思った。ママもその事を察していたのか天堂に目配せしていた。天堂はママにわかったと目で合図を返した。
天堂は閉店まで店にいて店を出てからは貴代美にわからないように後をつけた。貴代美は何も知らずに電車を降りて自分のアパートに向った。その道すがら陰に潜む二人の人物の気配を天堂は感知していた。
それは例のホステスのヒモが連れを伴って貴代美を襲おうとしていたのだ。ホステスの明美は怪我をさせてくれればいいと言っていたが、彼らの目的は他にあった事は言うまでもない。
恐らくそこで貴代美を襲う計画をしているのだろう。その為に貴代美の行き帰りのルートをちゃんと調べていたのだから。そしてそこが一番人通りが少なく襲いやすい場所だと判断したのだろう。
ただこの時、天堂のセンサーにはもう一人の人物が引っかかっていた。この人物もまた貴代美をつけていたようだ。こいつは何者なのか。これはおもしろそうな展開になったなと天堂は思った。
貴代美がその男達の近くまで来た時に、男達は飛び出して一人は後ろから貴代美の口を塞ぎ腕を脇の下に回した。そしてもう一人は両足を抱えて貴代美を近くの草むらに連れて行こうとしていた。
その時に脱兎のごとく駆け出してきた若い男が、
「放さんかい。お嬢さんに何さらすんじゃい」と叫んでいた。
足を掴んでいた男が若い男に駆け寄り二人はそこで壮絶な殴り合いになった。しかし経験の差か若い男は少しづつ押されていた。
その間に天堂はもう一人の男の後ろに回り意識を刈って貴代美を救い出した。あまりの事に貴代美は震えながら天堂にしがみついていた。
若い男が蹴りを食らってたたらを踏んだ隙にその男はナイフを取り出して若い男の左上腕部を切った。パッツと血が吹き飛んだがそれほどの深手ではなさそうだ。
しかしこのままではまずいだろうと天堂はナイフを持った男の後ろに回り脛骨に手刀を入れて倒した。
「義男、大丈夫なの」と貴代美が言ったのできっと知り合いなんだろう。一応天堂がその二人の顔写真と身分証明書の写しを取った後、その義男と呼ばれた男を貴代美のアパートに連れて行って手当てをした。
「お嬢さん、こんな無様な真似さらしてほんまにすんません」
「いいのよ。それより怪我は大丈夫?」
「こんなの大した事ありませんよって」
「ところで貴代美、こいつは?」
「なんじゃおんどれ、お嬢さんを呼び捨てにするんやないわ」
「お黙り、義男!」
「すんません」
貴代美と言うのは源氏名だけではなく本名でもあったようだ。それと意外に芯の強い女性でもあるようだ。
「仕方がありませんね。天堂さんには色々お世話になってる事ですから、本当の事をお話しいたします。実は私の父親は京都で吉岡組と言う組の組長をやっているんです。それでこの子はうちの若い衆なんです」
「吉岡組と言えば京都では老舗の、それもかなり大きな組だよね」
「ええ、そうです。でもね、お父さんは頑固で古くて娘の言う事なんか一つも聞いてくれないんです」
「お嬢さん、それは違いますよ。おやじさんはお嬢さんの事が可愛くて仕方がないんです。それでいつまでもそばに置いておきたくて。だから今回も心配で俺を用心の為につけていたんです」
「じゃー私の夢はどうなるのよ」
「それは・・・」
「わかった。ともかく今回の件は俺が始末をつけておくから、君はお金が貯まるまで働いてそれから親父さんと話をつけよう」
「わかりました。宜しくお願いします」
「それから君、義男君と言ったかな、今回の事は何も言うな。きっと吉岡さんが心配するから。それに言ったら彼女を守り切れなかった責務を負わされるぞ。だからこのまま陰から護衛を続けたいいだろう。それでいいよな」
「わ、わかりました」
貴代美を襲う計画を立てたホステスの明美は首になった。そして回覧板で系列の店では彼女を使わないようにと言う触れが出た事は言うまでもない。
そして襲った二人は闇に葬られた。それがどう言う風にして行われたかはわからないが、ともかくこの世から姿を消した事だけは確かだった。
1年間働いて貴代美はやっとフランスに留学する費用を貯めた。乳母日傘で育った娘にしては結構頑張った。
夜は水商売、昼はパン屋の店員と1日二つのアルバイトをこなして留学に十分な費用を稼いだのだ。
それにママからは送別金としてまた幾ばくかの金をもらった。後は父親の説得だ。母親は娘がやりたいならと一応の理解は示してくれている。
この時は天堂がついて行った。吉岡の本家は京都の北区の静かな住宅街の中にある大きな豪邸だった。
勿論そこには多くの組員達も別棟で寝起きをしている。昔ながらの徒弟制度の様な仕来たりだった。
天堂は貴代美と共に正面玄関から入って行った。廊下の左右にはいかつい顔の組員達が並んでいた。奥座敷に入って天堂は貴代美を右手に座らせ吉岡と向き合った。
吉岡の左右には吉岡の幹部達が座っていた。そして後ろの座敷には若い衆たちが整然と座っている。この状況で平然としていられる者は少ないだろう。
「それで何の用や」
「今回は娘さんの将来の夢を理解してもらいたくてまかりこしました」
「娘の夢やと。あんな駄菓子屋の何処が夢やねん」
「駄菓子屋、それは本気でおっしゃてるのですか」
「本気やが、それがどないした」
「なるほどね、これじゃ娘さんが家出をしたくなる気持ちもわかると言うものですね」
「なんやと、われ、誰に向かって言うとるのかわかっとんのか」と幹部の一人がすごんだ。
普通この状況でなら誰でも委縮してしまう。しかし天堂はどこ吹く風と堂々としていた。
「あなたは娘の親でしょう。なら何故娘さんの夢を叶えてあげようとはしないのです。それが親と言うものではないのですか」
「うるさいわ、わしは親や。親やから娘の事を思ってやっとるんじゃ。それの何処が悪い」
「それは違うでしょう。子供には子供の夢や人生があります。それを支えてやるのが親の役目ではないのですか」
「子供ももっとらんお前に何がわかるんじゃ」
「それでは聞きますが、娘さんがこの1年間、どんな思いできつい生活に耐え、夢を実現させる為に、親の助けも借りず、自らの力だけでお金を貯めて来たか、親のあなたにわかりますか。そんな事もわからずに親だと言うのなら、あなたに親の資格などありません」
「ええ度胸しとるの。わしをなめとんのか、ええ。死にたいんか」と吉岡は拳銃を出して天堂の眉間に狙いをつけた。
「あなたこそいい度胸をしてますね。娘の前で人殺しの親になりたいのですか。それならいいでしょう。おやりなさい」
そう言って天堂は静かに吉岡を睨み返した。二人の間に静かな闘気が流れた。この間この二人の間には誰も割って入る事が出来なかった。そして周りはシーンと静まり返り、見守る組員達の額には大粒の冷や汗が流れ落ちていた。
それが短い時間だったのか長い時間だったのか、やがて静かに吉岡が拳銃をテーブルの上に置いた。
「わしの負けや。何処なりと好きな所に娘を持って行け」
「あのー吉岡さん、何か誤解してませんか。俺は貴代美さんの彼氏ではないのですよ」
「何?ほんまか、貴代美」
「何誤解してるのよ、お父さん、何も天堂さんが彼氏だなんて言ってないでしょう」
「えっ、ほんまかいな、あはは、そうか、そうか」
「ほんとうにそそっかしいんだから」
「それならええんや。ほな貴代美、もう一回そのパシェ何とか言うの教えてくれ」
吉岡が貴代美からちゃんとしたパティシエの説明を受けた後、天堂がこう切り出した。
「実は貴代美さんはフランスに留学してパティシエの勉強がしたくて1年間自分で働いてその費用を貯めたんです」
「幸い俺の日本人の女性の友人がフランスにいますので最初は彼女を頼ればいいと思ます。そこで現地に馴染んでから学校に通えばいいと思うのです」
「そうか、そうしてくれるか。ほなよろしゅう頼むわ。貴代美からもよろしゅう頼んどき」
「それからな、天堂はん。あんたほんまにええ度胸しとるな。びっくりしたで。堅気にしとくのはもったいないわ。どうやわしの舎弟にならんか」
「お父さん、何言うのよ、やめてよ」
「あはは、お誘いはありがたいのですが、この件はなかった事に」
「そうか、それは残念やな。ほんまに惜しいな」
こうしてようやく貴代美の件が片付いた。
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