異世界チュートリアル 08 —温泉—
「お疲れ様です。二人とも凄かったです」
戻ってきた二人に私は声を掛け、タオルを差し出す。
「いえ。今のリナさんから見るとそう見えるかもしれませんが、まだまだですよ。ライラも、私も」
言葉とは裏腹にヘザーさんは汗ひとつかいていない。一方のライラはゼーゼーと肩で息をし、汗だくになっていた。
「もー、また今日もコテンパンだったよー。リナにいいところ見せたかったのに、悔しいなあ!」
そう言いつつも晴れやかな表情を浮かべている少女は、差し出した水を受け取り美味しそうにゴクゴクと飲んだ。
その様子を優しく見ていたヘザーさんが、ライラに語りかける。
「ライラ、あなたはまだ若い、私なんかすぐに追い抜いてしまいますよ。それにもし本気で戦ったら、ライラが魔法を使える、という時点で私に勝ち目はありませんから」
「無理だよー。私、攻撃魔法使えないもん。負けなくても勝てないよ」
そんなやり取りを微笑ましく見ていたが、一つ引っ掛かった。
「あの、すいません、今の言い方だとまるでヘザーさんが魔法を使えないみたいな……」
「え?……はい、使えませんが」
「もったいないよねえ、ヘザーが魔法使えたら最強なのに」
——衝撃だ。だってあんなに魔法に詳しかったじゃん。めちゃくちゃ強キャラ感出てたじゃん。
「ごめんなさい。とても魔法に詳しいのでてっきり使えるものかと……」
「適性……がないんでしょうね。私はただの魔法に憧れる本の虫ですよ」
ヘザーさんが頬に手を当て溜め息をつく。
「魔法のことはヘザーに聞けば何でもわかるの、すごいんだよ! 例えばねえ……」
——嬉しそうに話すライラを夕陽が照らす。
この世界が物語ほど優しくないのは転移者に限った話じゃないんだなあ。私はしみじみと考えながらその様子を眺めていた。
その後もう二セット程打ち合い、辺りも暗くなってきたところでこの日の訓練は終了した。
「お疲れ様です。お腹が空いたでしょう、すぐに晩御飯の準備をしますね」
「あ、私、手伝います、手伝わせて下さい!」
家事なら出来る、と大見得を切ったのにも関わらずまだ何もしていない。私は慌ててヘザーさんに申し出た。
「ありがとうございます。でもリナさんはこちらに来て初日から色々大変だったでしょう。今日のところは大丈夫ですよ。それに——」
ヘザーさんはライラの方を見る。
「ライラの相手をしてあげるのは、本当にセイジの望んでいることなのですよ」
突然名前が出てきた事に気づいたライラが「ん、なあに?」と近づいてくる。
「なんでもないよ、ライラ。家に戻ってお話ししよっか」
「うん! リナのお話いっぱい聞かせて!」
私はヘザーさんに軽くお辞儀をしてライラと一緒に家へと戻った。そんな私達を見送るヘザーさんの目はとても穏やかだった。
†
私とライラは部屋に戻り色んな話をした。
特にライラの興味をひいたのは、私のいた時代が鎌柄さんのいた時代と一緒だったということについてだ。
どんなものがあったのか、どんな人たちがいたのか、どんな世界だったのか——ライラの質問は止まらない。
無理もない、ライラにとっては私の世界の話はお父さんの世界の話でもあるのだから。
夕食で出されたシチューを食べ終えた後もしばらく話は続いた。それがひと段落したところで、思い付いた様にライラが言った。
「そうだ、リナ! 一緒にお風呂入ろうよ!」
「お風呂あるんだ!」
お風呂、と聞き私のテンションが上がる。正直ありがたい。今日はとにかく汗をかいた。
身体をふいたりはしていたが、元の世界なら今すぐにでもシャワー浴びたいところだった。
「リナの背中流してあげるねー」とパタパタと部屋を出てお風呂セットらしきものを持って戻ってくる。
「リナ、こっちこっち!」
手招きするライラの後を私は追っかける。途中で食事の後片付けをしているヘザーさんとすれ違った。
「あら、一緒にお風呂ですか。いいですね」
「うん、行ってきまーす!」
「あ、お風呂お借りします」
私はヘザーさんにペコリと頭を下げ、ライラに手を引かれながらその場を後にする。
「大丈夫でしょうか……まあ、二人いるなら……」
そんなヘザーさんの呟きが聞こえたような気がした。
家の裏口を開けると、岩壁をくり抜かれた様なスペースに繋がっていた。
ライラが照明魔法を唱え、辺りを照らす。そこは脱衣所のようになっていた。
「ここでお洋服とか脱ぐの」
ライラが照明魔法を天井に貼り付け、うんしょと服を脱ぎながら説明する。
私もそれに倣い裸になった。昼間の下着は恥ずかしかったのに裸を見られるのは何とも思わない、不思議なものだ。
ライラは再び照明魔法を唱えペタペタと歩いていく。そして引き戸を開けたその先には——。
「温泉!?」
そう、そこには決して広くはないが温泉としか言いようのない光景が広がっていた。
「そだよー。昔ね、お父さんとお母さんが作ったんだって、すごいよね!」
ライラは「よっと」と言いながら照明魔法を壁に貼り付けた。
「え、でも、家の裏って岩壁のハズじゃ……?」
そう、おかしい。位置関係が全くあわない。岩壁の中に温泉があるのはまだいい。
だが、何故、岩の中で月が見える——そう、ここは露天風呂だったのだ。
その質問に、ライラは引き戸を指差し答えてくれる。
「岩壁のどっかをくり抜いて作ったらしいよ。お母さん空間魔法得意だから家の裏口と繋げたんだって」
なるほど、そんな魔法もあるんだ。その魔法がどのくらいの難度かはわからないが、それでもライラのお母さんは相当な魔法の使い手であったことに間違いないだろう。
「ささ、リナ! こっち来て。お背中流してあげる」
こうして私は人生初の『背中の流しっこ』を体験したのだった。
身体を洗い終わった私達は、今はどっぷりとお湯に浸かっている。
石鹸があるのも助かったが、シャンプー的なものまであるのは嬉しかった。
元からこの世界にあるのか、それとも異世界物語よろしく鎌柄さんの現代知識で用意されたものなのかは分からないけど。
「はあー、リナー、気持ちいいねー。こんな時日本語で何て言うんだっけー……あ、そうだ『ごくらく、ごくらく』だあー……」
少し偏った知識の様な気もするが、同感だった。なんだかんだで異世界初日、私も疲れていたのだ。
「そうだねー、ライラ。『ごくらく、ごくらく』だよー……」
ああ、目を瞑ってたらこのまま寝てしまいそうだ。いけない、いけないと思い、私は目を開ける。
ふとライラの方を見ると、ライラもうとうとしているようだ。
「ライラ―、寝ちゃ駄目だよー」
「うん……だいじょ……ぶ……」
これは寝落ちするな、とライラの方に近づこうとした所で思い出す。そうだ、ヘザーさんが言っていた、ライラが寝ると鎌柄さんが——
「ちょっと、ライラ! 起きて——」
——遅かった。
ライラの身体が一瞬光ったかと思うと——そこにはライラと『交代』した鎌柄さんが作務衣姿のまま湯に浸かっていた。鎌柄さんは曇った眼鏡で辺りを見渡す。
「ひっ……!!」
私は反射的に体育座りで身体を隠す。変な声が出てしまった。
その声で状況を把握したのか、鎌柄さんはこちらを見ようともせず急いで立ち上がる。
「……すまない、菱華さん」
「……い、いえ」
固まってしまった私が何とか搾り出した声を背に、鎌柄さんはずぶ濡れになった作務衣を引き摺りながらノロノロと出口へ向かって行った。
去り際の鎌柄さんの「ライラぁ……」と言う呻き声が切なく感じたのは言うまでもない。
†
アクシデントはあったものの、私はせっかくなのでその後もゆっくりとお湯に浸かり充分に身体を温めてからお風呂を出た。
ライラが用意してくれたワンピースの寝巻きを身に纏い、結局使われることのなかったライラの寝巻きを持って部屋へと戻る。そこには頭を抱えた鎌柄さんがいた。
「お風呂ありがとうございました。ライラの服持ってきましたが——」
「すまない、菱華さん!」
私が言い終わる前に、鎌柄さんはテーブルに手をつき頭を擦り付けて謝ってきた。
「まさか初日に二人で風呂に入るとは思わなかったんだ。いや、正直に言うとそこまで考えが回らなかった、許してくれ!」
「い、い、いえ、気にしてませんから! 気にしてないんで頭を上げて下さいっ!」
見られた訳でもないし、気にしてないと言うのは本当だ。
それにこの間まで中学生だったとはいえ、男の人のそういった視線は分かる。鎌柄さんにはそれがない。
むしろこの件に関しては鎌柄さんは被害者だ。
私はそういう気持ちでいたので、大の大人に頭を下げられるとこちらが困ってしまう。
放って置くとこのまま頭を下げ続けていそうなので、私は頭を上げてもらうよう必死にお願いした。その甲斐あってか、ようやく鎌柄さんが頭を上げてくれる。
「——いや、本当に申し訳ない。ライラはよく風呂で寝落ちしてしまうんだ。まさか君が来て初日からやらかすとは……」
鎌柄さんは斜め下を向き、頬を指でかきながら謝った。
「よく寝落ちって、どのくらいの頻度でですか?」
「んー、月一では必ずやらかすかな。その度にご覧の有り様だ」
そう言って、鎌柄さんは着替えたであろう作務衣の裾をピンピンと引っ張る。
月一のイベントか。鎌柄さんもその度にずぶ濡れになっているという事だ。
「大変ですね……」
「ああ。今日みたいな事が起こるので、菱華さんもライラと一緒に風呂に入らない方がいい」
鎌柄さんはフッと窓の外を眺めた。暗がりの中、服を干すヘザーさんの姿が見て取れる。
「それで——」
鎌柄さんが咳払いをし、続ける。
「どうだった、ライラは?」
——娘と友達になってくれ——鎌柄さんの言葉が思い出される。
上手くやれてるか気になるのは当然だろう。私は言葉を選び、正直な感想を伝える。
「——いい娘ですね。明るくて、前向きで、真面目で、純粋で。話していてとっても楽しかったです」
「そ、それは本当か? ライラと上手くやっていけそうかね?」
心なしか鎌柄さんの声が上ずっている。私はライラの大好きなお父さんを安心させたくて、笑顔で言った。
「はい。鎌柄さん、ライラと友達にさせてくれてありがとうございます!」
「そうか……ありがとな、菱華さんありがとう」
その言葉を聞いた鎌柄さんは眼鏡を外し、目頭を押さえる。
やはりここには愛がある。今度は私の心はチクリとはしなかった。暖かさ半分、羨ましさ半分と言ったところか。
そんな鎌柄さんを眺めていた私は、ふとライラとの約束を思い出した。
「そうだ、鎌柄さん。ライラと約束したんです。私に剣を教えてくれませんか?」
「……剣を? 構わないが、どういうことだい?」
鎌柄さんが眼鏡を掛け直す。私は『戦闘訓練』でライラとのやり取りを説明した。
「そうか。ライラ、そんなことを……」
鎌柄さんは天井を見上げた。そして私に向き直り、真剣な面持ちで答える。
「よし、そういう事なら全力で教えよう。そして、菱華さんはライラから学んだことを私に剣で教えてくれ。よろしく頼むよ」
「はは、お手柔らかにお願いします……」
ライラのためだ、頑張ろう。私は準備しようと立ち上がった。
「ただ——」
鎌柄さんは、そんな私を制止し、続ける。
「今日は疲れただろう、もう休みなさい。異世界は逃げないのだから」
†
こうして私の異世界での生活は始まった。
——毎日が充実していた。
少し遅めに起き、朝食後は戦闘の訓練。空き時間には空を飛ぶ練習。
昼食後は語学を勉強。こちらは一年経たずに魔法の勉強と並行して行う様になった。
それが終わったらライラと遊び、夕食時は家事を手伝う。
そしてライラが眠りについた後は鎌柄さんから深夜まで剣を教わった。
全てが新鮮だ。元の世界では経験してこなかったことだらけだ。
——そして気がつけば、私が異世界に来てから四年の歳月が経過していた。