序章 動き出す悪意 ①
トロア地方、北方の国ブリクセン国。
そのブリクセン国に、山を隔てて隣接するゼンゼリア王国という国がある。
大陸の西方に位置するその国の城、ゼンゼリア城。そこは今、来たるべき戦いに備え、物々しい空気に包まれていた。
数日後に控えた、ブリクセン国——いや、トロア地方を落とす戦い。
そのゼンゼリア城のテラスには、眼下で準備を進める兵たちを眺めながら、最後のすり合わせを行う二人の男の姿があった。
「ご協力感謝いたしますぞ、ゼンゼリア王。我が国の兵を駐屯させていただいて」
兵たちを眺めながら、凛々しくも険しい顔立ちをした壮年の王に向かって話しかけるのは、ゼンゼリア王国の東に隣接するロゴール国の将軍、ペステラーゼである。
ゼンゼリア王は兵たちに視線を落としたまま、野心に満ち溢れた人物、ペステラーゼに答える。
「よい。志を共にする仲間ではないか。しかし、壮観だな」
ロゴール国の兵士、二万。戦を控え、彼らはゼンゼリア城近辺を中心に野営をしている。奇襲を仕掛けるにしては、十分な規模の軍隊である。
更には、すでにトロア地方の内部にも兵を送り込んでいると聞き及んでいる。その数、約一万。
対してゼンゼリア国は、全兵力を集めても一万五千。
ゼンゼリア国に比べればロゴール国は大国だ。少なくともこうして、一将軍が他国の王と対等の場に立つことが許されるくらいには。
ペステラーゼはゼンゼリア王の方を向き、にこやかに話しかける。
「いやいや、トロア地方を獲るのは我が王も願っていることですので。我が国の兵力、ほぼ全てを動員した次第です」
そう言って楽しそうに肩を揺らすペステラーゼ。ゼンゼリア王はその様子を横目で見て、静かに目をつむった。
「……貴国と我がゼンゼリア国合わせて、ブリクセンに三万五千。更に内部から一万、加えてヘクトールの魔物の軍勢とやらか……トロアは間違いなく、陥落するだろうな」
「ええ。しかしよろしいのですかな、ゼンゼリア王」
「……なにがだ?」
ペステラーゼの問いに、ゼンゼリア王は眉を動かす。その彼の顔を、ペステラーゼは値踏みするかの様に覗き込んだ。
「『戦に勝っても、領土はいらない』などと……正気ですかな?」
「うむ。そのことか——」
ゼンゼリア王は息を吐き、ペステラーゼの問いに答える。
「——主力で動くのは貴国だ。それに我が国は、同盟国であるロゴール国と事を構えるつもりはない。ロゴール国が豊かになれば、我が国にとっても恩恵は大きい。そもそも私の器では、小国の王を務めるので精一杯さ」
「……左様ですか」
肩をすくめるゼンゼリア王を見ながら、ペステラーゼは心の中で毒づく。
(……この、腰抜けが)
とは言え、この提案はロゴール国にとって願ったり叶ったりであった。
ヘクトールの使者は言っていた。『トロアを獲ったら、魔法国以外の土地は自由にしてよい』と。
なのでトロア地方を無事に制圧できたとしても、最悪、領土問題という火種をきっかけに、今度はゼンゼリアとの戦争が始まるかもしれない、と考えていた。
もしそうなれば、事だ。使者はああは言ってても、両軍が疲弊した隙をつき、魔法国の軍勢が襲ってくる可能性だってある。
ヘクトール——彼ならそこまで計算していても、おかしくはないのだから。
ため息をついて眉をしかめるペステラーゼ。その彼の表情を横目で見て、ゼンゼリア王は話題を切り替える。
「して、ペステラーゼ卿。最近耳にする、トロア地方を飛んでいるという『白い燕』……貴君はどう考える?」
「ハンッ!」
ゼンゼリア王の質問に、ペステラーゼは息を吐き出した。
「所詮は流行りものの歌、民衆の願望が表れているだけに過ぎますまい。もしそこまで化け物じみた人物がいるのであれば、是非ともお目にかかりたいものですのう!」
「しかし、火竜や女王竜の襲撃を受けてなお、未だトロアは平穏を保っているという事実はあるぞ?」
「ふん、それなら火竜共も話に聞くほど大した存在ではなかった、ということでしょうな。いずれにせよ、どんなに傑出した人物がいようが数の前には無力。出てくるなら出てくればいい、民衆の目を覚まさせてやりますわい」
面白くなさそうに語るペステラーゼ。
——彼は『英雄』と称賛を集める人物に対し、嫉妬しているんだろうな、とゼンゼリア王は思う。
ゼンゼリア王は一息ついて振り返り、部屋の中に控えている人物を眺めた。
「さて、我が国の放った間者の話によると、ブリクセンには全く動きが見られないとのことだ。万事、上手くいっているみたいだな」
部屋内のテーブルには、フードを目深にかぶった人物が紅茶に口をつけている姿があった。ペステラーゼも振り向き、その人物を見る。
その人物はブカブカのコートを羽織っており、男性にしては小柄な体格をしている。そしてペステラーゼの想像通り、女性の声——人を惹きつけるような静かな声で、ゼンゼリア王に頷いて答えた。
「はい。現在ブリクセン国に動きはありません。兵も、民衆も、のんびりとしたものです。これから攻め入れられるとは夢にも思っていないでしょうね」
間者は手に持ったカップをテーブルの上に置く。それを聞いたペステラーゼは、満足そうに頷いた。
「うむ、我が国の放った間者も同じように言っておりましたぞ。この戦、もう決まったようなものですな! では私はそろそろ軍の方に戻りますゆえ、後は打ち合わせ通りに。ゼンゼリア王、ご武運を」
「ああ。貴君もな」
すっかり上機嫌になって退出していくペステラーゼ。それを見送ったゼンゼリア王は、間者の女性の方をチラリと見やる。
その女性は——
——目深に被ったフード程度では隠しきれない、整った顔立ちをした青髪の女性の口元は——
——彼女の口角は、ゆっくりと上がった。




