天敵・Ⅰ 07 —『最弱』—
莉奈は、一部始終を視ていた。
ここに飛び向かいつつ、この風鳴りの崖へと意識を飛ばし、彼が行ったことを全て視ていた。
風に乗って降り立ったこと。ペチカの髪を引っ張ったこと。ペチカを蹴飛ばしたこと。
そして、ペチカの母の眠る墓を斬ったことも——。
ヴェネルディは飛び退き、忌々しげに莉奈を睨む。
「……ふざけんなだと? それはこっちのセリフだ。急に現れて、なんだお前は?」
「……ペチカに謝れ」
「はあ?」
「ペチカに謝れっ!」
莉奈は、吼える。そんな感情を昂らせる彼女を、ヴェネルディは冷ややかな目で見つめた。
「謝れ? 謝って欲しいのは、僕の方なんだけど。まったく、ガキは言うことを聞かないわ、腕は斬り落とされるわ、散々だ」
「………………」
——理解出来ない。この男の行動が、言動が。
莉奈は無言で振り向き、上体を起き上がらせたペチカにメルコレディを差し出した。
「ペチカ、危ないからここから離れて。メル、ペチカのこと、お願いね」
「……リナお姉ちゃん」
「……リナちゃん」
ヴェネルディを相手にせず、背中を見せる莉奈。ヴェネルディは剣を振り上げた。
「無視してんじゃねえよ!」
振り下ろされる剣。
だが莉奈はその剣を少しずれて躱し、振り返ることなくヴェネルディの腹に蹴りをぶち込んだ。
「……ぐっ……なっ……?」
よろめき、地面に尻をつくヴェネルディ。莉奈はゆっくりと振り向いた。
「……ねえ。話の通じない人と、話す必要ってあるのかな?」
そのヴェネルディを見下す莉奈の目は、刺すように冷たい。
ヴェネルディは憎々しげな目で莉奈を睨みながら立ち上がった。
「……おい、黙れよ、たかが人間風情が」
「ほら。無視すんなとか、黙れとか、やっぱり話、通じないじゃん」
彼は腕を再生しながら、剣を抜き、叫んだ。
「うるさい! 僕は選ばれたんだ! お前らは黙って僕の言うことを聞け!」
——『厄災』ヴェネルディ。
彼は別に、魔力量の高さから『厄災』に選ばれた訳ではない。
当時の魔法国にて、若くして侯爵としての地位を継いだ彼は耳にする。
もしも『厄災』になることが出来れば、不老不死の力が手に入ると。
彼は金と権力を使い、『厄災』の枠を勝ち取った。
これで不老不死になれる。嬉しそうに高笑いをするヴェネルディを見て、ヘクトールはほくそ笑む。
彼、ヴェネルディは気づかない。後に理性を奪われ、人、物、金、彼の持つ資産は全て奪われることに。
それがヘクトールの、ささやかな狙いの一つであった。
ヘクトールが彼を『厄災』に選んだのには、もう一つ理由がある。
——もしも魔力量の少ない人間に『厄災』の力を与えた場合、どの程度の力を発揮できるのか。
結果は『最弱』だった。
試しに一番の障壁、ハウメアのいるブリクセン国に送り込んでみたが——大した成果も残せず、一瞬にして滅ぼされてしまった。
ヘクトールは予想通りの『実験』結果に、満足そうに頷く。
『厄災』の枠を一つ潰したのは痛いが——これも自身が『不老不死』になり、世界に君臨するための礎と考えれば何も問題はない。
彼が狙うのはただ一つ。最強にして最悪、『厄災ドメーニカ』の持つ力なのだから——。
莉奈はヴェネルディと対峙しながら考える。
とりあえずの目的は、この場からペチカを逃がすことだ。彼女は今、莉奈の言うことを聞いて、吊り橋の方へと向かっている。
ペチカを抱えて逃げることも考えたが——目の前の彼は、風に乗って空を飛ぶことが出来る。
もし追いかけてこられた場合、ペチカを抱えて飛ぶのは危険だ。なら、注意を引きつけてここに足止めした方がいいだろう。
それに——もうすぐ、あの人が、来る。
莉奈はヴェネルディに斬りかかった。その小太刀を剣で受け流すヴェネルディ。
間髪入れず、莉奈は斬りかかる。その剣を弾きながら、ヴェネルディは後方に下がる。
連続で斬りかかりながら、莉奈は叫んだ。
「ペチカ! 走って!」
吊り橋の方へと退避していたペチカは頷き、駆け出した。その様子を見たヴェネルディは毒づく。
「ああ、くそ! 邪魔すんな、逃すかよ!」
ペチカの方へ向かおうとするヴェネルディ。そんな彼の前に、莉奈は立ちはだかる。
「行かせるわけ、ないじゃん」
ペチカはもう、吊り橋を渡り始めた。あと少しだ。
「……ああ、苛つくな、くそ! どいつもこいつも……!」
ヴェネルディは叫ぶ。彼の周りに、風が吹き始めた。そして彼は——剣を掲げ、力を溜め始めた。先ほどペチカの母の墓を斬った、風の刃だろう。
だが、隙だらけだ。莉奈はヴェネルディの懐に、潜り込んだ。
「——させない」
莉奈は剣撃を振るう。その小太刀のひと振りは、ヴェネルディを両断——
「……えっ?」
——ヴェネルディは口端を吊り上げる。彼を捉えたはずの莉奈のその一刀は、風によって流されてしまった。
莉奈は焦り、続け様に小太刀を振るう。しかしその全ては、風によって流されてしまう。
「……クックッ……もういい。みんな、死ねよ」
ヴェネルディは顔を歪め、吊り橋の方へと身体を向けた。
莉奈は察する。目の前の男は、吊り橋ごとペチカを落とす気だ。
「……駄目っ!」
莉奈は振るう。何撃も何撃も。だが、その刃は一つとしてヴェネルディには、届かなかった。
そして振り下ろされるヴェネルディの剣。莉奈は絶望する。振り返り、飛び立とうとしたが——。
その彼女の目に、映る。
吊り橋の向こう。猛然と駆けてきた馬、クロカゲから飛び降り、静かに駆けて来る男の姿を。
吊り橋を必死に駆けるペチカ。あともう少しという所で、ペチカの背後、吊り橋は風によって両断される。
「……あっ……」
足場を無くすペチカ。駆けて来た男は跳び、空中でペチカを抱き止め、男のやって来た方へと放りなげる。
「——メル君!」
男は叫ぶ。メルコレディは指を回し、向こう側へと繋がる氷の滑り台を作り上げた。
緩やかに滑り落ちるペチカ。その彼女に駆け寄ったクロカゲは、彼女の襟を咥えてその場から退避するように駆け出していった。
「誠司さんっ!」
莉奈は男の名を叫ぶ。ペチカはとりあえず、無事に逃がすことに成功しただろう。
だが——誠司の姿が見えない。ペチカを放り投げたあと、誠司は吊り橋と共に姿を消したのだ。
「……セイジだって? クックッ……まさか、あのセイジか? 僕を滅ぼした、あのセイジか!?」
ヴェネルディは笑う。莉奈は茫然とした様子で、吊り橋のあった方に意識を飛ばした。
「なんだなんだ? こんな呆気なく終わっちゃうのか? 僕を滅ぼした、あのセイジが! たかがガキの命と引き換えに、あの、間抜けめっ!」
高笑いを続けるヴェネルディ。彼を睨む莉奈。
だが、崖ぎわに——人の指が現れた。笑いを止め、目を見張るヴェネルディ。
やがて男は身を乗り出し、地に足をつけ、静かに声を上げた。
「——心配には及ばないよ、ヴェネルディ。貴様の薄汚れた『魂』を再び滅ぼすまで、私は死なんよ」
「……へえ?」
面白くなさそうに、ヴェネルディは誠司を見据える。
役者は揃った。『風』に立ち向かう莉奈と誠司、二人の抗う戦いが、始まる。




