天敵・Ⅰ 06 —母の墓標—
——『風鳴りの崖』。
開けたその場所には十分な広さがあり、その崖から一望出来る景色はとても美しい。
谷底から吹きあげる風が常に音を鳴らしており、それが風鳴りの崖と呼ばれる所以だ。
ペチカは髪を押さえながら、崖際に建てられている一つの墓へと向かっていく。
そしてその墓の前に座り、優しく語りかけた。
「……ねえ、お母さん。ペチカだよ。覚えてる?」
大理石で作られたその墓は、何も応えない。ペチカは目を細めて語り続ける。
「ペチカね、こんなに大きくなったんだよ。びっくりしたでしょ? お父さんが連れてきてくれないから、久しぶりになっちゃったね」
風が鳴る。ペチカは目元を拭う。
「でもね、お父さん、ペチカのことすっごく心配してくれてるの。だからお父さんのこと、キライにならないでね」
ペチカはポケットに入っているメルコレディを見つめた。
「あのね、あのね、お母さん。ペチカにお友達出来たの。メルちゃん、っていうんだよ。とっても優しいの。メルちゃんのおかげで、お母さんに会いにこれたんだあ」
メルコレディは優しくペチカを見返す。ペチカは墓に向き直った。
「……うんとね、ええとね……あれ、おかしいなあ……ペチカね、お母さんにもっといっぱい、話したいことあったのに……」
ふと、ペチカの目からポロポロと涙が零れ出した。それは儚く輝く、雪の結晶のように。
ペチカはたまらず立ち上がり、墓に駆け寄り、抱きしめ、大声で泣き始めた。
「……お母さん……お母さん、お母さあん……会いたかったよう……!」
——墓は何も応えない、応えられない。メルコレディは慟哭するペチカを、ただただ悲しそうに見つめていた——。
「……それじゃあ、またくるね。今度はお父さんと一緒に、ね」
母に別れを告げるペチカ。その墓の向こうに広がる景色を見て、ペチカはメルコレディに漏らす。
「……メルちゃん、きれいな景色だね。お母さん、ここが好きだったんだって……」
「……うん」
メルコレディは景色を眺める。雄大に広がる自然の美しい景色。連なる山々も遠くに見える。
真冬にしか外に出ることが出来ない氷人族にとって、ここの景色はそれは特別なものなのだろう。
メルコレディは惚けながらその景色を眺めるペチカに、声をかけた。
「……ペチカちゃん。みんな心配してるだろうし、そろそろ帰ろっか」
「……うん、そうだね」
——その時だ。カチャという金属音が、ペチカの背後から聞こえてきた。
その音にペチカが振り向くと——いつからいたのだろうか、白銀の鎧に身を包んだ金髪の青年が、ペチカを見下ろすように立っていた。スッとポケットの中に隠れるメルコレディ。
金髪の青年は、にこやかにペチカに話しかけてきた。
「どうしたのかな、お嬢ちゃん。こんな所に一人で」
「うん、ペチカね、お母さんのお墓参りにきたの」
「……ふうん」
青年はペチカの母の墓を、つまらなさそうに横目で見る。
ペチカは不思議そうな顔で、青年に尋ねた。
「お兄さんは? どうしてこんな所にいるの?」
「……まあ、僕のことはどうでもいい。それよりも、君。もし知っていたら、教えて欲しいんだ」
「なあに?」
小首をかしげるペチカ。青年は、淡々とした調子でペチカに問う。
「——ハウメア、エリス、もしくはセイジという人物を、君は知っているかな?」
ポケットの中で青ざめるメルコレディ。もしかしてこの人——。
だがペチカは、メルコレディが行動を起こす前に青年に答えてしまった。
「わあ! お兄さん、ハウメア様の知り合い? それにそれに、セイジおじさん!」
「……へえ、知ってるんだねえ」
「うん! 今ね、ペチカの街に来ているの!」
「……ふうん」
無邪気に答えるペチカ。メルコレディはポケットの中で最大限の警戒をする。
そして、青年は——
「……えっ?」
——ペチカの髪の毛を、強く掴んだ。
「……なら、連れてってもらえないかな。お兄さんを、君の街まで」
「……いたいよ、はなして!」
突然の出来事を理解できず、叫ぶペチカ。青年は舌打ちをする。
「……うるさいんだよ、ガキが。いいから大人しく——」
青年がペチカを強く引っ張った、その時。突然、青年の腕は氷に包まれた。
「……なっ!……ぐうっ……」
「メルちゃん!」
ポケットを横目で見るペチカ。そこから顔を出すメルコレディは、青年のことを激しく睨んでいた。
「……ペチカちゃんに、触らないで」
「な、なんだお前……いや、待て。お前、メルコレディか……?」
青年は眉をしかめ、メルコレディを見る。メルコレディは答えず、青年の鎧についている紋章に目をやる。
「……あなた、『魔法国』の人?」
「……クックッ。やっぱりメルコレディだ。見覚えがあるぞ。僕のことは知らないかな? 同じ『厄災』として選ばれた、『厄災』ヴェネルディ、僕のことを!」
メルコレディは苦々しい視線で青年を見つめる。
やはりだ。ハウメア、エリス、誠司。その三人に因縁のある人物——目の前の青年は、彼が自称する通り『厄災』ヴェネルディで間違いないだろう。
まずい。万全の状態ならともかく、今のメルコレディには彼に対抗出来る手段がない。
何か手は——メルコレディが必死に考えを巡らせる、その時だった。
ヴェネルディは強引にペチカのポケットからメルコレディを奪い取り、その手に握った。
「……うっ……」
「メルちゃん!」
ペチカが泣き叫ぶ。ヴェネルディは彼の目の高さまでメルコレディを掲げ、彼女に語りかけた。
「なあ、メルコレディ。氷を解除してくれないかなあ。久しぶりの再会だっていうのに、失礼じゃないか?」
「……っ……!」
メルコレディは考える。このまま握り潰されてしまったとしても、時間をかければメルコレディは復活できる。
だが——目の前の少女、ペチカは別だ。
もしメルコレディが肉体を失えば、彼女の力は解け——ペチカを冷やしている能力も解けてしまう。
その場合、ペチカを待ち受けているのは——死だ。
メルコレディは苦渋に顔を歪めつつも、ヴェネルディの腕の氷を解除した。
「ははは、聞き分けがいいねえ」
「……お願い! メルちゃんを離して!」
必死になって、ヴェネルディに縋るペチカ。ヴェネルディは鬱陶しそうな視線を向け、舌打ちをした。
「……うるせえなあ、ガキが。大人しくしろよ」
「お願い! メルちゃんを!」
「うるさいって言ってんだろ!」
ヴェネルディは苛立った表情で剣を抜き——力を溜め、振り下ろした。
その剣圧はペチカの頭上を通り過ぎていき、風の刃となって飛んでいった。
——ゴト。
ペチカの背後で、何か重たいものが落ちる音がした。
固まるペチカ。信じたくない予感。
彼女がそれを確かめるために、ゆっくりと振り返ると——
——彼女の母が眠る墓石は、斜めに両断され地面に転がっていたのだった。
ペチカの目から、光が消える。
「…………お母さん……お母さん……?」
茫然とつぶやくペチカ。やがて彼女は膝をつき、叫んだ。
「——おかあさぁぁん!」
目の前の光景が信じられずに、泣き叫ぶペチカ。ヴェネルディは彼女の背後に歩み寄った。
「だから、うるせえっつってんだろ!」
少女を黙らせるために、彼はペチカの脇腹を蹴る。
地面に倒れ込み、呻くペチカ。
「ペチカちゃん!」
メルコレディの悲痛な叫び声が響く。
ヴェネルディは唾を吐き捨て、その手に握っているメルコレディをペチカに向けて突き出した。
「いいから立て! 早く僕をお前の街へ案内しろ! 早くしないと、こいつを握り潰すぞ!——」
ヴェネルディがペチカを恫喝した、その瞬間。
——風が落ちてきた。
斬り離され、ドス黒い血飛沫を撒き散らしながら宙に舞う、メルコレディを握っていたヴェネルディの腕。
その風に乗ってきた鳥は、宙に放り出されたメルコレディを優しくつかみ、ペチカの前に立ちはだかった。
白いマントが風にはためく。
その白い燕——莉奈は、赤く腫らした濡れた瞳でヴェネルディを睨み、静かに吠えた。
「…………ふざけんなよ、お前…………」
風鳴りの崖——今、戦いが、幕を開けようとする。




