異世界チュートリアル 01 —転移—
——痺れるように頭が重い。
——私はどうなった?
ぼんやりとした意識の中で考えようとするが、どうにも思考がまとまらない。
土の匂い。草の匂い。そんなものが感じ取れるような気がする。
ふと、柔らかい風に頬を撫でられた。どうやら外に横たわっている事に間違いはなさそうだ。
重たいまぶたをなんとか開こうとしたけど、上手くいかない。
それでも頑張って——多分、半分くらいまでは開けられたと思うけれども、頭の中がチカチカして視界が認識出来ない。
少し灯りのようなものが見えたような気もする。けど、もしかしたら頭の中が作り出した幻影かも知れない。
ただ、どうやら夜らしい、という事だけは認識出来た。
思い返す。
朝、通学するために中学の頃から通い慣れたいつもの坂道を自転車で走っていたはずだ。海の眺めのいい私のお気に入りの道。
これからの新生活に期待に胸を膨らませ、足取りも軽くペダルをこいでいた。
ところが何の予兆もなく突風が吹き、私の身体は巻き上げられて——。
と、いうことはここは崖の下?
でもあの崖下は海だったような気がしたけど……。
身体に痛みはない。ただ痛覚が麻痺してるだけなのかも知れないが。
ただただ頭だけがひたすらに重い。
本当なら無理にでも起き上がって自分の置かれている状況を確認したいところではあるけれど、そろそろ意識を保っていられるのも限界だ。
そうしてまどろんでいく意識の中、何かが近づいてくる足音に気付いた。
——救助の人かな。それとも獣とか?まだ死にたくないなあ。
やがてその気配は思ったよりも早く、私のそばまでやってきた。
「——、————?」
何語かわからないけど、男性の声がした。外国の人だろうか。
まぶた越しにうっすらと灯りを感じる。どうやらさっきの灯りは気のせいではなかったらしい。
安堵感に包まれた私は——まだ安心してはいけないんだろうけど——意識を繋ぐ事を放棄し、まどろみに身を委ねることにした。とりあえずもういいよね、おやすみなさい。
「——まさか、日本人か?」
急速に沈んでいく意識の中、最後にそんな言葉を聞いたような気がした。
†
父の顔は知らない。
未婚の母は女手一つで私を育ててきた。と、言っても私がある程度の年齢になるとお金だけ置いて家にはほとんど帰って来なかったけど。
十歳の頃、一度だけ母に「ねえ、私のお父さんってどんな人だったの?」と質問したことがある。
——殴られた。強く。
父は所謂ろくでもない人間だったのだろう。少なからず父の面影があろう私は愛せなかったのかもしれない。
口にこそ出さないが『アンタさえ産まれてこなければ!』と思うこともあったに違いない、と今は思う。
母は倒れ込んだ私の背中を蹴る、蹴る、蹴る。ごめんなさい、ごめんなさいと訳も分からず謝る私。
やがて気が済んだのか、泣きじゃくる私に舌打ちをし、その日は外へと——自分の居場所へと帰って行った。
その日以来、母とはたまに顔を合わせても会話をすることはほとんどなくなった。そして、私が中学に上がって以降は一度も帰ってこなくなった。
母は律儀にお金だけは振り込んでくれたので、生活には困らなかった。家事全般は一人でやらなければならなかったので、同年代の子より格段に生活スキルは身についたと思う。生きるために。
そんな中、中学も卒業が控えてた時期に知らせがやってきた——母が亡くなったと。
話によると、資産家の男と心中した、との事だ。
その知らせを聞き、一番に思ったのは『これから生活どうしようかな』という事である。
我ながら少しドライだと思う。ただ、色々と思うところはあってもやはり現実は切り離して考えないといけない。
母とは感傷に浸れる程の関係を築けなかったのだから。
幸いなことに、親戚の人が高校卒業まで援助を申し出てくれた。
最初はそこまでの厚意は受け取れないと断わろうとしたが、このままでは生活が成り立たないこと、私の家庭事情を聞き身内として負い目を感じていること、なにより形式上でも保護者という存在が必要なことなどを理由に押し切られる形になった。
正直、進学を諦め働き口を探そうとしていた私には、何回頭を下げても感謝しきれない話だ。
これなら母から振り込まれていた生活費を節約して貯めた分と、あとは週に何回かアルバイトをすれば高校に通える。
こうして私は無事、高校生になった。大きく生活が変わったわけではないが、私は解放感に包まれていた。
『行ってきまーす!』
昔からの習慣で誰もいない家に挨拶をし、高校へ向けて自転車を軽快に走らせる。今日は入学式だ。
私が一人で歩き出す、それでも、いつもと変わらない新しい一日が始まる、はずだった。
私の耳をつんざくような強い風の音。私の身体が宙に浮く。
——風に巻き上げられ、私は、私は——
†
「……ん」
目を覚ますと私はベッドに寝かせられていた。先程よりは大分頭も楽になっている、というか普段の目覚めと変わらない感じだ。
「ああ、よかった。お目覚めかな、お嬢さん」
ふいに声をかけられ、首をそちらに動かす。
ログハウス風の内装からして、どうやら病院ではなさそうだ。ベッドから少し離れた椅子に声の主は座っていた。
歳の離れた大人の年齢はよくわからないが、四十歳ぐらいだろうか。
甚平、いや、あれは作務衣と言うんだっけ——を着た男が、眼鏡越しに目を細めこちらを見て微笑んでいた。
声の感じからして、意識を失う前に聞いた声と似ている。状況的にこの人が私を助けてくれたのだろうか。
「身体は大丈夫かね?」
男に問われ、私は自分の身体に意識を向ける。どこか痛むわけでもなく、問題なく動かせそうだ。
私は上半身を起こした。
「大丈夫そう、です——えっと、すみません、まだ何が何だかあまり理解出来てなくて……あなたが私を助けてくれたんですか?」
男は質問に答える代わりに「驚いた」と感嘆のため息をつき、続ける。
「君は本当に日本人なんだな」
「はい、そうですけど……ここ日本ですよね?」
何を言ってるんだ、と思ったがあの突風で外国に飛ばされたという可能性もある、いや、ないか。
困惑している私を見て、少し困った表情を浮かべながら男は答えた。
「んー、その質問に答えるなら答えは『いいえ』だな。ここは日本じゃない」
え、日本じゃない? ということは私は本当に外国まで飛ばされてしまったの? でもこの人、日本人だよね?
頭の中が『?』マークで一杯になってしまい絶句してしまった私を見て、男は申し訳なさそうに続ける。
「今からそれを説明する訳なんだが……そうだな、ちょっと失礼」
男は私の後方に向かって声を掛けた。
「ヘザー、——————、——————」
この部屋には私と男の二人だけかと思っていたが、振り返って見ると窓辺付近に一人の女性が腰掛けていた。女性の姿を見た事で、一気に私の緊張感が解ける。
ヘザーと呼ばれた女性は読んでいた本をそっと閉じ、静かに立ち上がった。
「日本語で会話しましょう。今はそうした方が彼女の不安も和らぐでしょうから。それより、ええと、お客様。飲み物を用意しますが、紅茶とミルクどちらになさいますか?」
綺麗な人だ。顔立ちはまるで人形の様に整っており、身に纏ったドレスも簡素な作りではあるがよく似合っている。
ただ、その外見から日本人でないことは確かだろう。年の程は男より、確実に一回り以上は年下に見える。
「ありがとうございます、ミルクが飲みたいです」
「承知いたしました」
彼女は軽く頭を下げて、静かに部屋を後にした。
それにしても先程男が発した言葉、聞いたことのない響きだったけどやはりここは日本ではないのか。
もしかしたらヘザーさんの国の言葉なのかな、とドアの方を眺めていたところで男が口を開いた。
「さて、やはり見て貰った方が早いかな。丁度、夜が明ける頃合いだ」
男は立ち上がって窓辺に向かって歩きだす。
——ドクン。
「ああ、今日はいい天気になりそうだ」カーテンを開けて男はつぶやく。
——ドクン。
何故だろう、不思議と鼓動が高鳴っていくのを感じる。
「さあ、歩けるようならこちらへ来なさい」
うながされるまま私は立ち上がり、窓辺に近づく。
男は窓を開ける。
風が吹き抜けた。
私は、なんとはなしに髪を押さえて、外の景色に目を見張る。
少し高い丘の上に造られたであろう、この家の窓から見えた景色は——
眼下に広がる一面の森。
その向こうには昇り始めた太陽。
家の前には美しい植物達が庭を彩っているのが見てとれた。そして。
その植物達から立ち昇っていく色とりどりの光。
物語の中でしか見たことがない、空を舞う半透明の妖精の姿をしたもの。
その妖精達が植物から立ち昇る光を纏い、様々な色となって空に道を描いていく。
なんて美しいんだろう。
私は、その非現実的な光景から目を離せないでいた。
「この時間にしか見れない『妖精の道』だ」
すっかり見惚れてしまっている私に、男は告げる。
「にわかには信じがたいと思うが、ここは君や私の世界で言うところの異世界という場所なんだ」
風が木々を揺らす音が聞こえた。
「んー、何と言ったらいいかわからんが、ま、とりあえずだ」
鳥の羽ばたく音が聞こえた。
「——ようこそ、異世界へ」