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幻想憧月抄 -剣客妖怪活戟奇譚-  作者: 宇治氏
第一章 幽愁暗恨を抱く武士
9/9

九 絶望の夜明け

Ⅰ 誘えし幻想世界



「……朝、か」


 暗い影が伸びる八畳間の和室。

 外を鳴く小鳥のさえずりに夢から覚まされてか、男はぱちりと目を覚ました。


 紺碧の空はまだぼんやりと薄暗い。ずっと遠くに見える山の輪郭から橙色がにじんでいた。


 窓の外から視線を外し、鉛のように重い頭をひねって枕元の置時計に目をおくる。空中に映し出されたホログラムには、まだ午前を知らせる時刻と、初夏の日づけが表示されていた。


「……」


 まだ血が上っていないせいだろう、ぼんやりとしたままの頭を持ち上げると、寝不足気味で鋭くとがった細目を所在なくあたりにさまよわせる。


 そこは八畳ほどの質素な和室だった。床の間には『()(とう)()(くつ)』と書かれた一枚の掛け軸が垂れ下がっている。部屋には窓を向くようにして置かれた座卓や、すき間の多い本棚などがあるものの、しかし自室というにはあまりに物が少ない。生活感が薄いせいかまるで新居のようだった。


 座卓の上にはある一枚の写真が飾られていた。


 何年前のものだろう、暗い影がかかったその写真には、道場の中で木太刀を片手に、満面の笑みを浮かべてピースサインをつくる少年の姿と、そのとなりに並び立つ、仏頂面を顔にはりつけた宗次郎の姿が映し出されていた。


 男は写真を見やり、表情を険しいものに変容させた。眉間に大きなシワが刻みこまれる。


 そこに映し出されていたのは、まだ夢を追いかけていたころの男の姿だった。


(あれから、もう二年か)


 眉根を寄せた渋い顔つきのまま、男は布団の中から右腕を取り出した。


 その手はまるで別人のように透き通った乳白色をしていた。握りこぶしをつくろうと試みるが、神経が痺れてしまっているかのごとく関節がうまく動かない。かつて剣だこでごつごつとしていたはずの手のひらは、血豆の痕すら見当たらないほどにきれいで、今や見る影をなくしてしまっていた。


 ――明智兼光。お前に、勘当を言い渡す。


 そのとき、ふいに宗次郎の言葉が男の脳に反芻する。


 忌々しい過去の記憶が、断片的にフラッシュバックしてきた。もう何年も昔のことだというのに、あのときの痛みや苦しみ、身を焦がすような焦燥感、辛酸を舐めたあの感覚でさえ、そのすべてを今でも鮮明に思い出すことができた。


「……はぁ」


 ため息をひとつ吐く。

 それから浮かんだ考えを払うようにかぶりを振り、もぞりと布団から起き上がった。



     〈※〉



 ばしゃりと手桶ですくった冷水を顔に浴び、濡れたままの顔で洗面台の鏡を睨みつける。じっと見つめかえすその瞳孔には、外から差しこむ光は一切なく、ただただ飲みこまれんばかりの漆黒が広がっていた。


「……」


 明智(あけち)兼光(かねみつ)、年は十七。現在は高校二年生である。


 顔立ちは中の上といったところだろうか。目鼻立ちのバランスがよく、控えめな目元が特徴的なしょうゆ顔だ。背丈は一八〇と高身で、渋めの色合いがよく似合う日本人らしい顔つきをしているが、群衆の中では埋もれてしまうくらいには普通の見た目をしている。


 そんな平凡な外見の兼光だが、彼の生い立ちは非凡だった。


 明智(めいち)神道(しんとう)流――それは、江戸時代から代々伝わる一家相伝の剣術流派の名だ。


 明治時代に武士の特権が奪われ、帯刀を認められなくなったことにより、日本で刀を教える道場の数は激減した。


 時は過ぎ去り2050年。遥か五百年も昔の剣術を絶やさないため、かつての流派は『真剣道』として姿形を変え、現代でもひっそりとその名を残していた。


 明智神道流もそのひとつである。


 第十三代の師範として道場に君臨する宗次郎に魅せられ、武士を志した兼光だったが、しかし宗次郎によって兼光は家を勘当させられてしまった。


 高校に進学するため上京――という名目のもと、事実上の島流しの刑に処された兼光は、あの家の反対を押し切って兼光に着いていくことを決心した家政婦の風子と二人、関東の都市近郊の片田舎に位置する明智家の分家に流れ着いた。


 分家といえど立派な武家屋敷で、母屋や蔵のほかに大きな道場まで備えつけられている。本家と比べれば二回りほど小さいが、それでも一般家庭よりは敷地面積は大分広く、あまつさえ二人で暮らすには十分すぎるほどである。


「――」


 外を鳴くけたたましいセミの声によって、兼光の思考は現実へと揺さぶり戻される。


 気がつけば、空にはすっかり蒼天が広がっていた。燦々と照りつける太陽が眩しい。初夏の陽気に当てられて、兼光はすっかり気が滅入りかけていた。


 暦が変わって八月になり、殺人的な酷暑が猛威を振るう。

 兼光が現在通っている市内の私立高校も、つい先日から夏休みに突入したばかりである。今ごろ学校にいるのは運動部か委員会くらいだろう。


 しかしながら、それだけの長期休暇中になにかやりたいことがあるわけでもなく、まして部活動や委員会にも所属していない兼光にとって、ひと月あまりある休みはヒマの一言に尽きた。


「……ん」


 ふいに、兼光は渡り廊下の途中で足を止めた。右に目を向ければ、どうやらそこは縁側になっているらしい。あたりには竹柵に囲まれた立派な和風庭園が広がっていた。


 カコーン、と鹿威(ししおど)しの風情ある竹の音が鳴り響く。松の木にとまった小鳥がさえずり、さらさらと池の水面(みなも)がせせらいだ。ふわりと前髪を揺らす初夏の風が吹きぬけ、チリンと風鈴は綺麗な音を奏でる。


「もうすっかり夏だな」


 そうつぶやいて、兼光は(きびす)を返した。



     〈※〉



「おはようございます」


 がらりと障子戸を引き、兼光は居間に入った。

 居間も飾り気なく質素なもので、十二畳ほどの広々とした和室には、掛け軸と花瓶に活けられた青紫色の花が飾られているだけだ。部屋の中央にはひざ丈ほどの高さの大きな座卓が鎮座しており、その上には、実に日本らしい朝食が白い湯気を立てて並べられていた。


「あら」


 並べられた料理のほうに意識をとばしていると、ふいに座卓の傍らから、おっとりと間延びした女性の声が聞こえてきた。声の方に目を向ける。するとそこには、両の手で湯呑みを持ち、口許に小さな笑みを浮かべてつつましく佇む、藤色の着物に身を装った老年の女性の姿があった。

 彼女は兼光を視界に映すと、目元のシワを深くして華が咲くように微笑む。


「お早うございます、兼光坊ちゃん。今朝もお早いですね」

「風子さんこそ。っていうか、いつも言ってますけど、その坊ちゃんっていうの、いい加減やめてくださいよ」


 わざとらしく悪態をつきながら、兼光は席に着いた。

 彼女は名を嘉瀬(かせ)風子(ふうこ)。元々は本家につとめていた家政婦だったが、今では兼光つきの専属家政婦である。刀以外のことについてはからっきしの兼光に代わり、この家の家事全般を一任されている。その手腕はどれも相当なものだ。


「あら手厳しい。けれどダメですね、わたくしからしてみれば、兼光坊ちゃんはまだまだ"坊ちゃん"ですから」

「またそれですか」


 考えるそぶりもなく風子はいつもの断り文句を口にする。まるで取りつく島もない。兼光はそんな風子の様子に、面白くなさそうに息を吐いて、湯呑みのほうじ茶をすすった。


「それに、そもそも坊ちゃんはホン(・・)モノ(・・)()()()()()じゃないですか」

「……それは」


 口に含んだほうじ茶を嚥下する。

 言葉が喉に詰まったように何も言えなくなった兼光に、無情にも風子は続けた。


「それとも、江戸時代から続く武士の家系、明智神道流を教える剣術道場の第十四代師範の筆頭候補にして、明智家の家督を継ぐべき嫡男坊様、とお呼びした方がよろしくて?」


 風子は試すような目を兼光に向けた。こちらをじっと見つめる双眸の奥に、まるで心中まで見透かされているような視線を感じ、兼光はなんだか居たたまれない気分になって、風子の視線から逃れるように目をそらす。


「……あの家の話はもうしたくありません」


 くしゃりと歪んだ兼光の顔が、揺れる湯呑みの水面に反射する。

 兼光の脳裏には忌々しい過去の記憶が蘇っていた。兼光は宗次郎に言い渡されたその言葉を思い出し、座卓の下で、人知れずぎりぎりとこぶしを固く握りしめる。


 兼光にとって、過去の記憶は、あの家での思い出は、まさにトラウマといって差し支えないものだった。


 胸の奥底から湧きあがる負の感情をなんとか抑えこむ。はぁ、とため息をひとつ吐き出すと、伏し目がちになって、自嘲気味に言葉を続けた。


「俺はもう、あの家を勘当されました。あの家とは何の関係もないんです。だから俺にはもう、風子さんに『坊ちゃん』と呼ばれるような資格は……ありませんよ」


 風子はなにも言わなかった。

 絞り出すように、兼光は言葉を紡ぐ。


「それに、俺はもう、武士には――」


 消え入りそうな声が、カコン、と鹿威しの音にかき消される。

 異様な静寂の中、ほんのりと笑みを浮かべた風子は、続く言葉なんて聞こえているはずもないのに、顔に微笑を貼りつけたまま、ただ一言。


「そうですか」


 とだけつぶやいた。

 そのときの風子の顔は、嬉しいとも悲しいとも違う、いうなれば慈愛に満ちた表情で小さく笑っているようにみえた。

 その顔を見ていると、なんだか胸を強く締めつけられるようで、兼光はどうにもその顔が脳裏にこびりついて忘れられそうになかった。




 やがて食事が終わり、開かれた障子戸からのぞく縁側をぼぉっと眺めていると、風子からどうぞとほうじ茶の淹れられた湯呑みが差し出された。兼光はそれを受け取ると、さっぱりとした風味で喉を潤す。一仕事を終え向かいの席に腰かけた風子は、急須で淹れた水出しのほうじ茶を口にしてほぅと一息つく。


「ところで」


 すると、風子は尋ねた。


「坊ちゃんは今日から夏休みですよね。今年の夏休みは、何か予定はないんですか?」

「予定、ですか」


 言われて考える。 

 去年はいろいろと忙しく、そんなこと考える余裕もなかった。

 今までどうやって夏休みを過ごしていたろうかと考えて、そういえば刀の鍛錬ばかりで普通の学生らしいことは何もしていなかったことに気づく。

 どうやって過ごそうかと考えて、なにも浮かばない。


「坊ちゃん、意外と寂しいんですね」

「……」


 ぐさりとなにやら鋭利なもので心臓を貫かれたような気分だった。

 からかって楽しんでいるのだろう、風子はくすくすと笑っている。


「ごめんなさい、ただの冗談です。今年の夏休みは予定がありますものね」


 そういって、風子は壁に掛けられているカレンダーに視線を向けた。

 2050年のカレンダーには、ちょうど今日の日づけのところに、赤ペンで大きく丸印と文字が書かれていた。


「もう二年ぶりですか。あの子と会うのは」


 何故だろう、風子の瞳にはなにやら憂いの感情が渦巻いているように見えた。

 一体どうしたのだろう、と兼光は尋ねようとして、するとそんな兼光の言葉を遮るように、ちりんと玄関の方から小さく鈴の揺れるような音がした。


「噂をすれば。どうやら来たみたいですね」


 言われて風子の顔を見やると、どうやら先ほどまでの感情はどこかへ消えてしまったらしい。


 どうしてあんな顔をしていたのかは気になったものの、すました顔で湯飲みを傾ける風子にその理由を尋ねるのはためらわれてしまい、今のは一体何だったんだろうと思いつつも、玄関に向かうべく兼光は席を立ちあがった。

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