八 絶望
――白い。
兼光がぱっと目を覚ましたとき、最初に思ったことがそれだった。
白い天井、白いベッド、白いパーテーション。
そして、右腕に括りつけられた大仰そうな包帯と、小難しい横文字が並ぶ点滴袋を目にして、そこではじめて、兼光はいま病院にいるのだということに気がついた。
ではなぜ、こんなところにいるのだろう。
朦朧とした頭で記憶をたどる。すると兼光の脳裏には、断片的に、昨晩の衝撃的な情景の数々が思い起こされた。フィルムのように記憶は流れる。ついに右腕が噛み千切られようとして、兼光は慌ててかぶりを振った。
「っ!」
あの、ブチブチという不快な感覚を思い出しそうになって、兼光はその記憶ごと忘却の彼方へ追いやる。
あんな思いをするのはもう、こりごりだった。
すると、そのとき。
突然、病室の入り口のほうから、パリンと陶器が叩き割れるような音が響いた。
驚いて兼光は音がしたほうへ目を向ける。するとそこには、目を大きく見開き、吃驚したような顔を浮かべ、まるで時間が止まってしまったかのようにピタリと静止して動かない、老年の女性の姿があった。
藤色の着物を身に纏う女性の足元には、叩き割れた花瓶の残骸があった。おそらく彼女が手を滑らせてしまったのだろう。
彼女は薄紅色の唇を、ゆっくりと、そして丁寧にかたちづくる。
「ぼっ、ちゃん……?」
老年の女性は、兼光のほうを見て、絞り出すようにそんな言葉を口にした。
そして兼光は、そんな女性の姿に心当たりがあった。
「おはようございます、風子さ――っぷ!」
「坊ちゃん!」
すると風子は、脱兎のごとく駆け出して、兼光を胸に抱きしめた。
短い息遣いが聞こえてくる。ふいに、ぽろっと、風子の目尻から涙の粒が零れ落ちた。
どうやら、また心配をかけてしまったらしい。
十秒ほどはそうしていただろうか。やがて落ち着いたらしい風子は、兼光の背中に回していた手を解く。向かい合って風子は、なにを言おうかと逡巡しているようすだったが、やがて言葉を見つけたのか、華が咲くような笑みをみせて兼光に言った。
「……おかえりなさい、兼光坊ちゃん」
「……はい。ただいま帰りました」
つられて兼光も、微笑を浮かべて言葉を返す。
陽だまりに当てられるようで、なんだか少しくすぐったかった。
それから兼光は、二言、三言ほど風子と話をした。
風子によると、どうやら兼光は二日間眠りっぱなしだったらしい。眠っている間に手術も終わっていて、麻酔が効きすぎちゃいましたかね、と風子は可笑しそうにくすくす笑っていた。
積もる話はもっとたくさんあったが、花瓶を割ってしまったことでそれどころではなく、ついでにお医者様を呼んできますね、と一度病室を後にする風子。
「……」
一人になり、兼光は手のひらを見つめた。
兼光の右手には、まだ、山犬を討ったあのときの感覚がそのまま残っていた。
目を閉じる。するとまぶたの奥には、宗次郎の、あの美しい太刀筋が今もまだ目に焼きついていた。
――あんな剣を、振るってみたい。
そう、兼光は強く思った。
気分が高揚しているせいだろう、手のひらは震えていた。
兼光は、わずかに汗ばんだその手のひらで、固く握りこぶしをつくる。
何かを、掴めたような気がした。
――コン、コン。
すると、扉のほうから、軽いノックの音が聞こえてきた。
どうぞ、と声をかけると、横開きの扉がガラガラと開かれる。
そこにいたのは、眼鏡をかけ、ひざにかかるくらい長丈の白衣を身に纏う、いかにも医師然とした外見の男性であった。その少し後ろを、カルテを手にした女医が追従する。
「ごめんね、兼光くん。ちょっと時間もらえるかな?」
そう言って、医師は兼光の指先に触れ、痛くないか、どこか変なところはないかなど、質問を重ねていっては、もれなく紙に書きこんでいく。
触診を受け、問診を受け、問題ないと判断されたらしい兼光が解放されたのは、ものの五分くらいのことであった。
「うん、この数値なら大丈夫そうだね。手術が成功したみたいでよかった。これならすぐにでも皮膚が定着しそうだよ。あとはもう少しだけ入院して、経過観察のほうを――」
「あの」
「うん?」
医師の言葉を遮って、兼光は尋ねる。
「あと、どのくらいで退院できますか。俺、今すぐにでも刀を握りたいんです。掴んだ感覚を忘れないうちに。あのとき見た、親爺の剣を忘れないうちに――」
「……」
期待に満ちた表情を浮かべる兼光。
だがしかし、医師から返ってきたのは、重い沈黙だった。
あたりは凍りついたように静まりかえっていた。なにやら物々しい雰囲気が漂っている。
まさか、と思う気持ちはあった。
いやだ。やめろ。聞きたくない。
しかし、そんな兼光の言葉とは裏腹に、医師の言葉は紡ぎだされる。
眼鏡を光らせた医師は、いやに真剣な表情で、トンと兼光の両肩にやさしく手を置く。
「いいかい、兼光くん。落ち着いて聞いてくれ」
そうして告げられた言葉は。
兼光にとって、事実上の、死刑宣告のようなものだった。
「きみはもう、二度と、刀を握ることはできない」
〈※〉
二〇四八年。
明智兼光、十五歳の夏。
正中神経麻痺によって、兼光は、右手の握力のほとんどを失ってしまった。
日に日に衰弱していく握力。
それでも兼光は、決して諦めようとはせず、懸命に木太刀を振り続けた。
兼光には刀しかなかった。今まで刀に縋って生きてきた。
いまさら、別の生き方ができるほど、器用な人生は歩んできてはいなかったからだ。
しかし、そんなささやかな抵抗も、終わりの時は訪れる。
夜。月明かりのみが照らす道場には、満身創痍の身体で、無様に地面を這いつくばる兼光と、そんな彼を見下ろして、凍てつくようなまなざしを向ける宗次郎の姿があった。
「はぁ、はぁ……」
「――」
やがて宗次郎は。
ついに立ち上がることもできず、ナメクジのように地面を這うばかりの兼光に対して、威圧的な態度で、厳かな顔つきのまま、淡々とした声音で、重々しく口を開いた。
「明智兼光。お前に、勘当を言い渡す」
とどめの一言。
その言葉をきっかけに、折れかかっていた兼光の心は、とうとう耐え切ることができず、まるで砂糖菓子のようにポックリと折れた。
濁流のようにあふれる悲愴の感情に、当然、兼光の折れた心は耐えられるはずもなく、いつしか兼光はうつ病を患い、治療のために高校進学とほとんど同時、遠方の分家へと引き取られた。
それからの日のことを、兼光はあまり覚えていない。
抜け殻のように空虚な日々を送り、そしていつしか、世界は薄暗い灰色に濁って映るようになっていた。
かわり映えのない日々が過ぎ去り、セミの鳴く声が響きはじめる。
あの日、兼光が握力を失ってから二度目の夏を迎え。
――そして、運命が変わろうとしていた。