七 武士として
昨日は投稿できませんでした。ごめんなさい。
代わりに今日は量が多いです。よろしくお願いします。
「木葉さんがまだ屋敷に戻ってきていないんです」
わずかな逡巡ののち、やがて風子は言葉を紡ぎだす。
まさか、と頭に最悪の考えが浮かんできて、兼光は息を呑みこんだ。
胸が苦しい。様々な可能性が兼光の脳内を駆けめぐり、そのうち、めまいがするような感覚に襲われた。
薄暗い森の中で迷子になっていたらどうしよう。
下を向いていたせいで、間違えて森の奥深いところまで潜っていってしまっていたらどうしよう。
いろいろ考えているうちに、兼光の脳内には、先ほどの、涙を振りまきながら走り去っていった木葉の後ろ姿が思い出された。あのとき止められていたら、あるいは追いかけていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。
「……俺の、せいだ」
「はい?」
思わず口に出てしまっていた。
木葉に対する罪悪感が、まるで大きな重石みたいに、兼光の腹のあたりにどっとのしかかる。
一度湧きあがった罪悪感はおさまることを知らず、むしろどんどん大きくなっていくばかりで、やがて全身を覆うころには、兼光はずぶ濡れた身の着のまま、一も二もなく駆け出そうとしていた。
「俺、探しに行ってきます!」
「ダメですっ!」
くるりと身を翻し、鍛錬で鍛えた瞬発力で飛びだそうとする兼光。
だがしかし風子は、兼光が今までに一度も耳にしたことがないような大声をあげ、どこにそんな力があるというのか、兼光の腕をぐっと掴んで制止させた。
「うぎっ……」
ピーンと腕が伸び、まるでリードを引っ張られた犬みたいにのけ反ってしまう。
出鼻をくじかれる兼光。するとそのとき、風子はがっと兼光の顔を両手で掴み、力づくで顔を合わせられた。目が合う。柄にもない風子の行動に驚愕する兼光をよそに、彼女は大声で兼光を叱りつけた。
「どうして坊ちゃんはそうやっていつもいつもそんな危険なことばっかりするんですか! いなくなった木葉さんを探しに行って、坊ちゃんまでどこかへ行ってしまったらどうするんですか! もうこれ以上、私に心配をかけさせないでください!」
「ふうこ、さん……」
風子は泣いていた。
いや、泣いていたのは今だけのことではない。
風子の目尻には赤く腫れた跡があった。
きっと、兼光が風子と言い合いをする前にも、もし本当に兼光がいなくなってしまっていたらと心配しては、人知れず涙をこぼしていたのだろう。
――風子さんは、俺のことを本気で心配しているんだ……。
そのことに気がついた瞬間、兼光は自分のことを思いきりぶん殴りたくなった。
そして先ほどの、木葉にやってしまった八つ当たりのことを思い出し、なんてことをしでかしてしまったんだと途端に自分が恥ずかしくなる。
怒りと羞恥と喜びで、兼光の内面はどうにかなってしまいそうだった。
(……だけど。甘えちゃ、だめだ)
本当は、子どもみたいに抱きついてわんわん泣きたかった。
本当は、後のことはすべて大人にまかせて楽になりたかった。
本当は、本当は、本当は……。
欲が募る。
だがそれを、兼光の持つ正義感が、決して許しはしなかった。
もし、ここで弱みをみせてしまえば、兼光の知らぬところで大人たちがどうとでもきれいに片づけてくれるだろう。明日にはまたもとの平穏が戻っているかもしれない。
だがそのときには、兼光はもう武士ではいられない。
困っている人を、苦しんでいる人を、見ないふりをして、知らないふりをして、ごまかして、ほかに誰かが助けてくれるだろうなんて他力本願な考えに頼るのは、そんなのはもう武士ではない。
だから、兼光は行かなければならないのだ。
「ごめんなさい、風子さん」
「……」
「俺の行動は、風子さんをもっと悲しませるものだっていうのは理解してます。だけど、それでも行かなきゃいけないんです」
「……それは、木葉さんに対する罪悪感からですか」
風子は、確かめるような目で、兼光を見据えてそう尋ねた。
兼光はただ静かに首を振る。
そして、今までそうであったように、そしてこれからもそうであるように、兼光はそう、その言葉を口にする。
「――だって俺は、武士だから」
兼光はまなざしに力をこめて、まっすぐに風子の目を見つめ返した。
兼光の目には強い信念がこもっていた。ちょっとやそっとのことでは決して折れることはないだろう。
先に目を伏せたのは風子のほうだった。
風子は「やれやれ、この刀バカは」とでも言いたげな息を吐く。
「……坊ちゃんが、どれだけ真剣なのかというのは、わかりました。ただし、三つだけ約束してください」
すると風子は、雨粒に濡れた顔をやさしく拭うように親指でなぞり、兼光の右手に傘を握らせた。
「一つ目は、すぐに帰ってくること」
次に風子は、力んで握りこぶしをつくった兼光の左手を解きながら、開いたその手に提灯を握らせて、言う。
「二つ目は、決してムリをしないこと」
「……」
両腕が埋まり、気になった兼光は、風子に尋ねる。
「三つ目はなんですか」
すると風子は、兼光の言葉を耳にして、口元ににこりと笑みを浮かべる。着物が雨に濡らされるのも気にしないで、風子は腰を四十五度ほど折り曲げると、見送りの言葉を口にする。
「三つ目は、必ず生きて帰ってくること、です。――兼光様。どうか、ご武運を」
それを目にして、耳にして。
兼光は、口をきゅっと一文字に結ぶと、振り返り、一目散に駆けだした。
風子は、兼光の背中が米粒のように小さくなっても、門を抜け、とっくにその姿が見えなくなっても、変わらず、深々と腰を折り曲げたまま、ただじっとそこにたたずんでいた。
「……」
そして、屋敷のほうには。
そんな二人のようすを、物陰から、ひっそりと見つめる影があったのだが、そんなこと、すでに駆けだした兼光には、当然知る由なんてなかった。
〈※〉
「はっ、はっ――」
走る。走る。走る。
不思議と身体が軽かった。今ならどこまでだって走れそうだ。
兼光は来た道を引き返し、念のため、大樹のふもとのほうに戻った。もしかしたらまたいつもみたいに木葉が切り株にちょこんと座っているんじゃないか、なんて考えだったが、やはりというべきか、そこに木葉の姿はなかった。
「木葉……っ、くそ!」
悪態をつく。
ここにいない。
となれば、残る可能性はあと一つ。
兼光は頭を上のほうに持ちあげて、傾斜になっている森の奥のほうに目をやった。ただでさえ厚い雲が空を覆っているというのに、木々が屋根になっているせいでその先はさらに暗い。
兼光が普段足を踏み入れているのは森といっても浅いところで、ちゃんと人の手入れが行き届いており、道もしっかり舗装されていれば、危険な害獣が出てくる心配は皆無と言っていいだろう。
だが、この奥は別だ。
最後に人が入ったのはいつかと聞かれれば、みんな顔を見合わせて正確には答えられないだろう。
そのくらい、野生のままで。
そのくらい、危険な場所なのである。
「……」
間違っていてくれ、なんて思いながら、兼光は地面を見る。
雨が降っているせいだろう、ぬかるんだ地面には、動物のものにしては少々大きく、そして大人のものにしては随分と小さすぎる足跡が残されていた。当然、兼光のものではない。
間違いない、木葉のものだ。
「木葉……っ!」
その事実を確認して、一も二もなく足を踏み出そうとした矢先。
ふと兼光の脳内に、いつぞやの風子の言葉が蘇ってきた。
『裏手の森には入ってはいけませんよ! 野生の獣がでますからね!』
その瞬間、兼光は二の足を踏む。
それも仕方のないことだ。
なぜならこの先には、人を襲う獣がいるということなのだから。
「……くっ」
一寸先も見えない闇。
その中へと飛びこむのには、思っていた以上の勇気が必要だった。
兼光は目を閉じる。すると、まぶたの奥には、先ほど目にした木葉の泣き腫らした顔ばかりが浮かんできた。
木葉はきっと、今もまだ、涙を流し続けているのだろう。
人知れず、兼光はこぶしを握りしめる。
その顔は、兼光を森へ進ませる勇気を与えるには十分すぎるものであった。
「待っていろ、木葉……!」
兼光は走る。ぐんぐん走る。
いつしか傘は捨てていた。提灯と、腰に差したままの木太刀だけで、兼光はみるみる森を進んでいく。
「木葉っ! どこだ、木葉っ!」
もうどのくらい走っただろうか。
大声をあげながら進んでいると、なにやら、遠くのほうから声が聞こえたような気がした。なぜかはわからないが、その声が木葉のものであると、兼光には直観的に理解できた。
(そこか!)
声が聞こえてくるほうめがけて足を進める。
脇道に逸れ、腰の高さまである茂みを掻き分けながら森を進む。
しかし同時に、兼光の胸には、このまま進めば兼光も迷って帰れなくなってしまうかもしれないという不安が湧きあがってきた。それにもしかしたら、この先を進んでもいないかもしれない。
それでも兼光は足をとめなかった。
考えるよりも先に身体が動いていたからだ。
しばらく草音を掻き分けて進むと、段々と声が近づいてくる。
兼光は、確信にも似た感情を胸に、力強く足を踏みこんだ。
そして、ついに兼光は――。
「見つけた……!」
草むらが薄く、少しだけ開けた場所。
そこで兼光は、木の根元に腰をもたれ、足を抱えたまま小さく縮こまり、汗と鼻水で顔をぐしょぐしょに濡らす木葉の姿をその目にとらえた。
木葉は怯えたように肩をびくんと跳ねあげさせ、恐るおそる、首をこちらに回す。少し驚いたような表情で、木葉は言った。
「ひぐっ……に、にぃさん……?」
一も二もなく、兼光はすぐに木葉に駆け寄ると、頭の後頭部を持ち、ぐっと胸に圧しあてて、雨に濡れた小さな身体を温めてやれるくらいに力強く抱き締めた。
最初はきょとんとしていた木葉も、そのうち、兼光の胸に顔をうずめて、堰を切ったように泣きだした。
「にぃさん……、にぃさん……っ!」
「ごめん木葉。ひどいこと言って、ごめん。一人にして、ごめん。寂しい思いをさせて、ごめん。悲しい思いをさせて、ごめん」
「バカ! にぃさんのバカバカバカ! 謝ったって、許さないん、だからぁ……!」
最初は我慢をしていた木葉も、そのうち、声をあげて泣き崩れる。
兼光はただ、木葉の背中をやさしく撫でながら、ささやくように、何度も言い聞かせるように、耳元で小さくつぶやく。
「もう大丈夫、大丈夫だから安心しろ。俺がいる」
「うぅぅううぅ……っ!」
しゃくりあげる木葉。
ようやく木葉が落ち着いたころには、すっかり雨はやんでいた。
涙もおさまり、とりあえずもう大丈夫そうだ判断した兼光は、木葉に言う。
「さぁ、屋敷に帰ろう」
「で、でも……」
言い淀む木葉。
揺れる視線の先は足に向いていた。
そこでようやく、木葉が足を捻ったらしいことに気づく。
提灯がなければ何も見えないような暗がりの中だ。きっと何かにつまずいてしまったのだろう。
そう思い、兼光は腰をかがめると、木葉に背を向けた。
「ほら。これならいいだろ」
「……うん」
木葉は、変わらず不安げな表情で頷く。
おそらく他にも心配事はあったのだろうが、それよりも早くこんなところから出たい気持ちのほうが勝ったのだろう。
木葉を背負おうとしたそのとき。
ふいに、茂みのほうから、ガサガサと揺れる音がした。
「ひっ!?」
その瞬間、木葉は喉奥から声にもならないような悲鳴をあげ、硬直した。
兼光の背中をぎゅっと握り締める。手が震えていた。
「木葉?」
「あ、ぅ……」
カチカチと歯を鳴らす木葉。
怯えている、というのは兼光にもわかった。
だがしかし、ならば木葉は、一体何に怯えているというのか。
そして、その答えは、すぐに兼光も知ることができた。
「グルルルル……」
「……最悪だ」
ぼそりとつぶやく。
茂みの奥から現れたのは、薄汚れて黒っぽい毛並みをした、犬のような獣であった。
山に生息しているから山犬と呼ぶべきだろうか。体長は一メートルといったところで、山犬はヨダレをボタボタと垂らしながら、刺すような目でこちらに睨みをきかせている。
「――っ!」
木葉はあげそうになった悲鳴を、自分の手で押さえつけてこらえていた。その代わり、喉奥から風を切るような、声にもならない悲鳴が漏れでてくる。
なるほど。木葉がこんな道を逸れた場所にいたのは、足を挫いていたのは、茂みの音にやたら敏感に反応していたのは、すべて山犬に襲われたせいなのかもしれない。
兼光はとっさに立ちあがると、木葉を背にして前に立った。
木太刀を抜く。これで引いてくれればいいが、なんて思ったが、そう甘くはいかないらしい。
(戦うしか、ないのか)
木葉は不安なのを隠そうともせず、きゅっと兼光の足を両手で握った。これでは戦いづらい。しかし、足をケガしているせいで木葉だけを逃がすことも難しい。それどころか、兼光がその場を動けば餌食となるのは木葉だ。
額に汗が流れる。
兼光は提灯を無造作に投げると、そのまま木太刀を正眼に構えた。
本当は怖い。戦いたくない。逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、背に守る木葉の存在が、兼光の足に杭を打つ。
「木葉、大丈夫だ」
「に、にぃさん……」
「大丈夫。俺が、絶対にお前を守ってみせる」
木葉の不安を和らげるために声をかける。
すると木葉は、少し安心したのか、道着を握る手の力を緩めた。
よかった、少しは効果があったみたいだ。
そうして兼光は、改めて山犬を見やる。
兼光は戦々恐々としていた。なにせ普段の稽古とは勝手が違う。今回ばかりは命がかかっているからだ。
絶対に負けられない。
「っ」
恐怖を押し殺し、兼光は動揺した心を無理やりに抑えつけ、じっと山犬を睨み返す。目が慣れてきたせいだろうか、眼前に四足で立つ山犬の顔つきから体つき、その体毛の一本一本に至るまで、はっきりと視認することができた。
風が兼光の頬を撫でる。
音はない。跳ねる心臓の鼓動だけが、ただ兼光の耳に響いていた。
そのとき、山犬が動いた。
ぎらりと不揃いの鋭い牙をみせ、真正面から飛びかかってくる山犬。
「すぅ――」
兼光は息を吸う。
そして、吐きだすと同時、勢いよく木太刀を放った。
「はぁぁぁあっ!」
「キャン!」
兼光が放った刃は、まっすぐに、山犬の顔面を殴打した。
地面に叩きつけられる山犬。
上々の手ごたえ、なかなか良い感じだ。
「グルル……」
さすがに警戒心をもったのか、山犬も一度距離をとって睨みつけてくる。
だが、何度きてもやることは変わらない。変わらず同じことをやるだけだ。
そう思い、兼光は再び木太刀を構える。
そして、また山犬のほうから動いた。
今度は飛びかかろうとはせず、地面を蹴って迫ってくる。
こうすれば先ほどのように顔面を当てられないと考えたのだろう。なるほど、どうやら畜生なりに頭があるらしい。
(けど、所詮は犬畜生だ)
兼光はひざを深く踏みこむ。
そして、山犬めがけて横薙ぎに斬りかかった。
「はっ!」
兼光が放った攻撃は、鈍い感覚とともに、確かに山犬を斬りつけた。
そこまでが、兼光の思惑通りで。
そこからが、兼光の思惑を外れていた。
何故なら山犬は、攻撃を当てられても止まらず、それでもなお、兼光に襲いかかってきたのだ。
「なっ――」
まずい、という声が脳内で反芻する。
だが山犬は止まらない。山犬はギラリと牙をみせ、あんぐりと大きく口を開くと、刃を放ち、伸びきったままの兼光の右腕めがけて、思いきり噛みつきにかかった。
「ぐぁぁぁぁああああぁああっ!」
絶叫。たとえようのない痛みが右腕に襲いかかる。
柔らかな二の腕に立てられた無数の牙は、何の抵抗もなく、顎の力で、兼光の肉をブチブチブチと噛み千切った。細胞が裂ける感覚が脳をよぎる。その痛みを、苦しみを、あえて一言で表現するのなら、まさに地獄であった。
「う、ぁぁぁあぁあッ!!」
半狂乱になって叫ぶ兼光。
兼光はがむしゃらに木太刀を振り、その一発が腹のあたりに当たったことで、なんとか山犬を振り払うことに成功する。
再三睨み合う兼光と山犬。
山犬は口を真っ赤に染め、なにかを咀嚼し、ごくりと喉を鳴らして飲みこんだ。
もしや、と思って兼光は左手を腕に当てる。
するとそこには、先ほどまであったはずの腕が、腕の肉が、無残にもなくなっていた。
「はぁ、はぁ……」
荒い息を吐く。
額に脂汗がにじむ。
兼光は知らなかった。負ければ死ぬ、命がけの勝負とはなにかを。
死に物狂いなのだ。たとえ内臓を刃物で貫かれたとしても、動ける限り、相手の命を奪い合う。顔を斬りつけても、胴や腹を斬りつけても止まらない。
互いに相手が絶命するまで、その勝負は終わらないのだ。
(……怖い)
腕の震えを抑えながら、率直に兼光は思った。
それでも、戦わなければいけない。
たとえ腕がもがれても、足がなくなっても、心臓を噛み千切られても――。
「にぃさん、右ぃッ!」
「っ!」
瞬間、木葉の叫ぶような声が兼光の鼓膜を震わせる。
慌てて前を見る。すると、確かに山犬は、兼光めがけて飛びかかっていた。目が合う。
怯えた目をする兼光とは反対に、山犬の目は爛々と輝いているように見えた。
「ぁぁぁぁぁあああっ!」
声を荒げ、兼光は木太刀を振るう。
間一髪、木葉の声に助けられ、なんとか山犬に木太刀を当てる。
ほとんど脊椎反射だった。もしも木葉の声が少しでも遅れていたら、間違いなく首筋に噛みつかれていただろう。兼光は背中にびっしゃりと冷や汗が流れるのを感じていた。
今この瞬間、目の前に立つ山犬が、恐ろしくて仕方がなかった。
「……っ、くるなら、こいっ!」
虚勢を張り、兼光は口にする。
ギラギラと目を輝かせる山犬は、たまらず、ぼたぼたとよだれを垂らしながら、一気に兼光に飛びかかった。
襲いかかる山犬。
真正面からくるのはわかっていた。
(覚悟を、決めろ)
山犬は、死に物狂いの覚悟で戦っている。
ならばこちらも、それ相応の覚悟で戦わなければ、敵わないのは明白だろう。
「――」
そこで、兼光は瞳を伏せた。
息を吐きだす。やがて、おもむろに眼を開いた。
木太刀を正眼に構える。極限まで研ぎ澄まされた集中力で、目の前の山犬を見た。
――来る!
そう認識したときには、すでに身体は動いていた。
兼光は放つ、渾身の一撃を。
何度も、何年も、宗次郎に憧れ、焦がれ、練習し、鍛え上げた技を。
何度も何度も繰り返してきた、袈裟斬りを。
「はぁ――っ!」
刹那、一閃。
兼光の放った木太刀は、鮮やかに、きれいな残像を描いて、山犬に直撃する。
ゴッ、と鈍い音を立てて直撃した刃は、山犬の頭蓋を砕いたかのような手ごたえがあった。
「キャイン!」
山犬は、甲高い声をあげ、まるで水切りでもするように、何度も地面を跳ね転げる。ようやく動きがとまったころには、山犬はとうとう立ちあがらなくなっていた。
(やったか……?)
兼光は構えを崩さないまま、恐るおそる、倒れた山犬に目を向ける。
しかし、山犬はしぶとく、まだ生きていた。
身体は満身創痍。がくがくと震える手足で、おもむろに身体を持ちあげる山犬。それでも逃げようとせず、命を賭してまで立ち向かってくるのは敵ながらあっぱれといえようか。
対する兼光のほうも、かなり限界に近づいていた。
痛みはまだ癒えない。血か少なくなっているせいか、心なしか、頭がふらふらしてきていた。いまいち目の前のことに集中できない。どうみたって今の兼光は万全の状態とは言い難い。
(でも、あと一発)
兼光は、山犬を見据えて言う。
(それなら、いける!)
そう、兼光が思った矢先。
突然、山犬はあさっての方向を向き、けたたましい声をあげ、咆哮をあげた。
――ウォォォォオオオオン!
凄まじい威圧感だ。
しかし一体、なんのために。
その答えは、すぐにわかった。
それからまもなく、茂みの揺れる音がして、新たに山犬が姿を現した。
それも、今度は一匹どころではない。
「ガルルルル……」
「グゥ……」
「グルル」
茂みの向こうから現れたのは、三匹の山犬であった。
「は。はは……」
渇いた笑いがこぼれる。
ついに兼光は、だらんと木太刀を握る手を下に垂らした。
笑った。笑うしかなかった。
ただでさえ限界が近い身体で、三匹もの新手と戦うだなんて、どうやったって勝てるわけがない。
終わった。目から光が消えていく。
「……っ」
するとそのとき、木葉が兼光の道着をきゅっと強く握りしめた。そんな木葉の行動に、兼光ははっとさせられる。思い出す。兼光は一体なんのために木太刀を握っているのかと。
(守るんだ。何がなんでも、俺が、木葉を……!)
それからすぐ、兼光はばっと両腕を広げた。
山犬それぞれ一匹一匹の顔を見て、目を合わせ、睨みつけていく。
「くるなら、こい……」
ヤマイヌはにじり、にじりと迫ってくる。
それでも、兼光は動かなかった。
たとえ、ここで兼光が死んだとしても、絶対に木葉だけは逃がしてみせる。そうすれば、もしかしたら木葉だけでも、なんとか助かるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に抱きながら、兼光は目を閉じる。
目の前からは、三匹が一気呵成に飛びかかってきていた。
防ぐすべは、もう、ない。
もう終わりか、と兼光は自らの死を観念して、諦めようとしたまさにそのとき。
「――諦めてんじゃねぇ、兼光!」
怒声のような、力強い声が耳柔を震わせた。
ほぼ反射に兼光には顔を持ち上げる。すると、兼光のわきをぬって、宗次郎が駆け抜けた。走りながら、宗次郎は山犬に斬りかかる。
そのうち、一匹は標的を変え、ぎらりと鋭い牙を剥き、宗次郎に襲いかかった。
「ふっ!」
だがしかし、無残にも、その山犬は宗次郎によって簡単に斬り伏せられてしまう。
続けざま、兼光を狙っていたあとの二匹に対し、宗次郎は逆手で頭を殴り、続けざま、横薙ぎにして地面に叩き落とす。
最後は、兼光が手負いにして、その場から動けずにいた四匹目に対して、無情にも木太刀を振り下ろし、兼光が苦戦した相手を、一瞬のうちにして、これらをすべて片づけてしまった。
(あぁ……)
そこで、兼光は知る。
本当の武士とはなにか。
あの日、兼光が憧れた、真の武士の姿を。
(親爺は、やっぱすげぇや……)
魅せられるような刀だった。
あのようになりたいと、再び兼光は強く思った。
と、そんなことを考えていた矢先、唐突に兼光の意識が朦朧とし始める。
(あ、れ……)
そして、ふらっと。
宗次郎が来たことで、ギリギリのところで保っていた兼光の意識はプツリと切れ、そのままばたりと、兼光の身体は地面に倒れこんだ。
「にぃさん……? いやっ、にぃさん死なないで! にぃさんっ! にぃさぁぁんっ!!」
薄れゆく意識のなか、木葉の、泣き叫ぶような声がただ響いていた。
兼光はケガ一つない木葉を見やり、安心したように口許を緩ませる。
(よかった……俺はちゃんと、木葉を守れたんだ)
安心して、やりきったような笑みを浮かべる兼光。
その姿を、宗次郎はただの一言も語らず、ただじっと、冷淡なまなざしで、兼光のことを見下ろしていた。
それから兼光は、深い、とても深い眠りについた。