六 異変
視界に映る世界はすべて掃きだめ色に濁ってみえた。
道場を後にした兼光は、あてもなく歩き続けた。あのままじっとしていたら、胸の奥底から湧きあがる負の感情に押しつぶされてしまいそうで、特に目的地なんかも決めているわけではなかったが、ただ無心に足を動かし続けた。
「……」
ふいに兼光は立ち止まる。
ここはどこだろう。俯いていた顔を持ちあげると、そこは大樹の前であった。
どうやら無意識でも、兼光の足はここまでの道順を覚えていたらしい。
結局、どこまでいっても兼光の頭のなかは刀のことばかりであった。
まったく、自分のことながら呆れてしまう。
兼光は自嘲気味に笑った。
「バカだなぁ、俺」
存外、兼光のことを刀バカだと揶揄する風子のことを笑えないかもしれない。
兼光はそのまま大樹のそばまで歩み寄る。今までだってつらいことはあった。苦しいこともあった。だが刀を振るっているうちに、悩みも不安もほとんどすべて吹き飛んでいた。
だからきっと、いま胸中にわだかまるこのもやもやとした負の感情も、いつものように刀を握ればすぐに忘れられるはずだろう。
そう思い、兼光はいつものように木太刀を構えた。
「はぁ――」
息を吐く。
集中力を研ぎ澄ませる。
兼光の視線の先には、やはりというべきか、想像上の宗次郎の姿があった。
呼吸を整え、間合いをはかる。
ひらりはらりと空を舞った緑葉が、やがて地面に舞い落ちた。
「……」
だが、兼光は動かない。
いや、正確にいえばその言葉は適当ではない。
兼光は、動けなかった。
よくよくみれば、正眼に構えられた木太刀の先はぷるぷると震えている。
付け加えて、なんだか無性に息苦しい。ただ木太刀を握っているだけなのに、兼光の口からは、まるで短距離走でも走り終えた後のように、短い呼吸が上がっていた。
原因はわかっていた。
本当は、怖いのだ。
また、やってきたことを否定されることが。
本当にこのまま鍛錬を続けていて良いのか。
そろそろ現実も受け入れるべきなのではないか。
今までの努力は、本当にすべてムダだったんじゃないか。
そんなネガティブな思考ばかりが、ぐるぐると頭を駆けめぐる。
そうして気がつくと、兼光は刀が振るえなくなってしまった。
「……くそっ」
悪態を吐き、ガンと額を幹に圧しつける。
何が間違っていて、何が正しいのか。
本当にこのまま努力を続けるべきなのかも、ほかの方法に切り替えるべきなのかも、現実を受け入れるべきなのかも、夢を追いかけるべきなのかも。
ついに兼光には、なにもわからなくなってしまった。
「兄さん?」
と、そんなとき。
突然、背後から、兼光を呼ぶ甲高い声が聞こえてきた。
その声には聞き覚えがあった。
きっと、頭に浮かんでいる人物で間違いないだろう。
兼光は一つため息を吐き、震える吐息を整えてから、一瞥もしないまま、平然をよそおって絞り出すような声をあげる。
「……木葉、か」
そのつぶやきに対して、その人物は否定の声をあげなかった。
やはり、木葉で間違いなかったらしい。
兼光は「最悪の気分だ」などとぼやきながら、しきりにため息をこぼす。
沈んだようすの兼光に反して、どこからそんな元気が湧いてくるというのか、はつらつとしたようすの木葉は弾むような声音で兼光に語りかける。
「珍しいね。兄さんがこんな時間にここにいるなんて」
「まあ、な」
「それで?兄さん、今朝の結果はどうだったの?」
「……」
「ふーん、ま、それはそうだよね。そもそも勝ってたらこんなところにいないだろうし」
「……」
「それで? 一つ気になったんだけど。兄さん、今日は刀を振らないの?」
「っ」
息を呑む。
その言葉が兼光の琴線に触れ。
一も二もなく、兼光は口を開いていた。
「……お前も」
「え?」
「お前も、俺をバカにするのか……?」
言いながら、兼光は木葉のほうを振り返った。
鋭いまなざしで木葉を睨みつける。
気がついたときにはもう止まらない。
歯止めもきかず、皮肉が、恨みが、鬱憤が、堰を切ったようにあふれ出す。
「お前は昔からそうだ。どうせお前だって、必死になって刀を握ってる俺を見て、ムダな努力をしていることにも気づかない俺を見て、滑稽そうな顔をして笑ってたんだろ? 陰で笑ってたんだろ! くすくす嘲笑ってたんだろ!!」
必死な剣幕で責め立てる兼光。
八つ当たりをしている自覚はあった。
だがしかし、それでも兼光には、言葉の逆流を止められなかった。
「どうせそうだ! みんなそうだ! みんなみんな、俺を見て、バカなことやってるって嘲笑って! 見下されて! なれるはずがないと決めつけて!」
「兄さん、どうしちゃったの……? どうしてそんなひどいこと言うの? いつもの兄さんは――!」
「いつも!? いつもの俺ってなんだよ!」
「ひっ」
凄みのある顔で睨み返される。
小さく怯えた声をあげる木葉。
「聞きたくねぇよ! もう一人にしてくれ!」
とどめとばかりに、兼光は言い放つ。
一方的に好き放題言われて、激情をぶつけられて、憂さ晴らしのための道具にされて。
木葉は目尻に涙をためて、吐き捨てるように口を開く。
「意味わかんない! 兄さんなんて大っ嫌い! もう知らないっ!」
木葉は涙を振りまいて、駆け足でその場から立ち去っていった。
それからまもなく、あたりに静けさが満ちる。
先ほどまで怒鳴り声を上げていたせいだろうか。
どういうわけか、その場がやけに静かなように感じられた。
(……最低だな、俺)
ぼそりと。
そんな静寂の中で、兼光は内心でつぶやく。
胸中にわだかまる感情をすべて吐き出して、先ほどまで胸のあたりにあったはずのもやもやとしていた負の感情は、気がつけばすっかりなくなっていた。
だが兼光の心は晴れない。
わだかまりが解けたことよりも、それ以上に、木葉に対してやってしまったという罪悪感のほうが上回った。
しかし、いまとなってはもう後のまつりである。
後悔してももう、遅い。
「……」
いつしか雨は降りだしていた。
空が零した涙の粒は、しとしとと兼光の髪を濡らす。
兼光は動けなかった。
自分の弱さを知り、自分の情けなさを知り、自分という人間の矮小さを知り。
悔しくて、悲しくて、恥ずかしくてたまらなくなって。
冷たい雨に叩きつけられながら、冷静になった頭で、兼光は自省する。
土砂降りの雨は、一晩経ってもやみそうになかった。
〈※〉
木葉と別れたあと、あれからどれくらいの時間が過ぎただろうか。
できることならば兼光は一生そこに佇んでいたかったが、人間の身体とは都合の良いもので、時間が過ぎればそのうちぐぅと腹の虫が鳴く。自分の情けなさをつくづく実感しながら、しかし空腹には逆らえないもので、兼光はとぼとぼと帰路についた。
「……ん」
しかし、その途中で、兼光は屋敷の異変に気づく。
屋敷のほうが明るい。それに、なにやら騒がしくもある。
屋敷に誰か来ているのだろうか。
こんな日に珍しいこともあったもんだ、などと楽観的なことを考えながら、兼光は玄関門をくぐる。
だがそんな考えも、一瞬で吹き飛ばされた。
「――坊ちゃんっ!」
「うぉっ!?」
門をくぐってすぐ、兼光の身体は風子によって抱きかかえられる。
風子は、兼光を抱きとめたまま、涙ぐんだ声をあげた。
「よかった……! 無事で、よかった……っ!」
どうやら心配をかけていたらしい。
風子はいつもの藤色の給仕服に身を纏ったまま、和傘を差し、提灯を片手に握っていた。
いや、よくよくみれば風子だけではない。
屋敷中の使用人、目視で確認できるだけでも十数人が、風子と似たような恰好をして雨天の外を練り歩いている。
これが只事ではないことは、兼光にも瞬時に理解できた。
「風子さん。この騒ぎ、一体何があったんですか」
「……実は」
伝えようか迷っているのだろう。
数秒の逡巡ののち、やがて風子の口から紡ぎだされる。
その言葉は、あまりに衝撃的な内容であった。
「木葉さんが、まだ屋敷に帰ってきてないんです」