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五 灰色



 夏が過ぎ、紅葉も終え、古い葉は散り落ちて、また新しい緑が芽吹いた。

 季節はめぐり、兼光は三つ年をとった。今年で十五歳になる。


 されど、未だに宗次郎は打ち破れていなかった。


 この三年の間に、兼光の身長は一七〇にまで届いた。声も一段と低くなり、可愛らしいくりくりとした瞳から一変、鋭く突き刺すような凛々しい顔つきに成長を遂げた。


 夏もそろそろ締めにかかり、セミの合唱も小さくなろうかという八月暮れの午前。


 その日の降水確率はゼロパーセント。雲や陰り一つない晴天が、青天井の空一面に広がっている。


 しかし、そんなのどかな空模様とは対照的に、道場内は今朝も大荒れだった。


「はぁっ!」


 樫の刃音が響きわたる。

 兼光は畳みかけるように鋭い攻撃を放ち、次々と宗次郎に斬撃を与えていく。その太刀筋には一切の淀みもない。一撃一撃がつねに致命傷だ。


 だがしかし、宗次郎はその幾重にもなる斬撃を、すべて完璧に受け流してみせる。ほんの少しでも判断を誤れば大ケガは免れないだろう。ケガをするのが怖くないというのか、宗次郎の動きには微塵の乱れもなかった。


 バケモノめ、と兼光は内心で舌打ちを鳴らす。


 だが守ってばかりでは勝てないというのが道理というもの。それは宗次郎も当然理解しているのだろう。兼光が横薙ぎに木太刀を振るうと、宗次郎は後方へ大げさに跳ぶようにしてこれを躱す。


 すると兼光の放った刃は空を斬り、二人の間に大きく距離が開く。


 これで仕切り直しだ。


「……」

「くっ」


 目が合う。

 二人の武士の間に言葉はなかった。


 呼吸はおろか、まばたきすら憚られるような緊張感が場を支配する。一秒が、まるで永遠のようにすら感じられた。ジリジリとした睨み合いが続く。


 額に浮かんだ汗が流れ落ち、顎を伝ってぽたりと滴り落ちる。


 わずか数瞬のこと。

 されど、確かに気をとられた、ほんのわずかな隙の糸。


 それを、宗次郎は見逃さなかった。


「は――っ!」


 瞬間、宗次郎は脱兎のごとく後ろ足を蹴りだす。

 だん、という力強い足音とともに、宗次郎は一気に兼光との距離を詰めた。


 一瞬にして兼光の視界から宗次郎の姿がかき消える。


(なっ、はやい!)


 あまりの速度に兼光は思わず面食らう。


 だがそれも一瞬だった。兼光はすぐさま冷静な頭で思考をめぐらせて、その動きを目でとらえるのは不可能だと悟ると、咄嗟に木太刀を前に突きだして防御の構えをとった。この間、わずか数瞬のことである。


 次の瞬間、重い衝撃が兼光の腕を襲った。


 ガン、金づちで脳天を思いきり叩き割られるような衝撃。


 刃は交わり、視界に激しく火花が散った。


(いっ、てぇ……!)


 あまりの衝撃に苦悶の表情が浮かぶ。

 意識が飛びかけ、思わず木太刀を手放してしまいそうになったが、歯を食いしばってなんとか堪えた。しかしその腕は今もまだジンジンと痺れている。


 兼光は、反動で身体を大きくのけ反らせながら、弾かれた刃のほうを見やり、戦々恐々と内心でつぶやく。


(っぶねぇ……っ!)


 正直、生きた心地がしなかった。

 今の一撃を受けきれたのはほぼ奇跡のようなものだ。もう一度同じことをやれと言われてもできる自信はまったくない。もうここで終わってもいいんじゃないか、と心のどこかでやり切ったような気持ちが浮かんでくる。


 だが宗次郎の攻撃はこれで終わらなかった。

 むしろ、身体をのけ反らせた兼光を見やり、好機とみたのか、攻撃の手を速めていく。


 カン、カン、カン。激しいつばぜり合いが続く。兼光は間一髪のところで攻撃を受け流していくが、のけ反った身体では立て直すことも叶わない。そのままジリジリと後方へ追いやられてしまう。


 凌ぎきるのに精一杯で、まったく息をつく暇もない。

 戦況は防戦一方の展開を呈していた。


「ふ、っ」

「……くっ」


 苦しげな声をもらす。

 木太刀を交えるたび、自分のなかで、なにかがゴリゴリと削れていくような感覚があった。

 肉体的にも、そして精神的にも追い詰められる兼光とは対照的に、相対する宗次郎の顔には汗の一つだって浮かんでいない。それどころか、むしろ涼しげな表情すら浮かんでいるようにみえた。


 追いつけない。どうしても。

 兼光は攻撃を凌ぎながら、ついそんなことを考えてしまう。


 まるで、二人を分かつ実力という名の壁が、メリメリと音をたてて広がっていくようだった。


 にじり、にじりと退かされていく。

 まるで押し相撲でもとっているかのように、身体はなんの抵抗もできずに追いやられ、ふと気がつけば、兼光は壁際のほうまで追い詰められていた。あんなに広かったはずの道場が、今はどういうわけかとても手狭にみえる。


 もう後ろへ下がることはできない。

 前方には絶え間なく襲いかかる宗次郎の姿。


 文字どおり、八方塞がりであった。


「……腕をあげたことだけは認めてやろう」

「っ」

「だが、これで終わりだ」


 言いながら、宗次郎は木太刀を真上に振り上げた。

 兼光の顔に暗い影が落ちる。逃げようにも身体は動かなかった。

 大きく見開かれた双眸は、揺れる瞳孔に、ゆっくりと近づいてくる木太刀をただじっと映しだしていた。


(……負けるのか。また、こんなところで)

 

 兼光は問いかける。

 悔しいと思うと同時、心のどこかではやっぱりと思う気持ちも湧きあがってきた。

 激しい剣戟の応酬で、いまもまだ腕はジンジンと痺れている。この苦しみから早く解放されるのであれば、と敗北を認めてしまいたくなる自分もいた。


 だらんと肩から力が抜け落ちる。

 そのまま、ゆっくりと目蓋が落ちようとして――。


 だがしかし、その瞬間、なにやら声が聞こえてきた。

 心の奥底から、悲痛に叫ぶような声が。


 ――いやだ、諦めたくない!


 なんてことはない、子どもじみたただの駄々だ。

 だが満身創痍の兼光を奮い立たせるのには、どれだけ丁寧に飾り立てた言葉なんかよりも、諦めたくないという、そんなバカみたいな言葉だけで十分だった。


(諦めてなんか、たまるもんかよ)


 兼光は木太刀を握る手に力をこめる。

 閉じようとしていた目を、再びかっと開き直した。


「……」


 冷静になった頭で、兼光は改めて周囲を見やる。


 絶望的な状況はなにも変わっていない。


 あの刃が振り下ろされたころには、兼光はしばらく立ち上がることができなくなっているだろう。今さら足掻いたところで、いずれにせよ、負けの未来は変わらないかもしれない。


 だが、それでいい。


 どうせ負けるのだとしても、自ら命を差し出すくらいなら、諦めず最後まで戦って死にたい。


 後悔なんてしないように、最後の最後まで、生き意地汚く悪足掻いてみせる。


 たとえ、宗次郎の刃が頭を貫いたとしても構わない。


 だからせめて、一発だけでも!


「せあぁぁあっ!」


 捨て身の攻撃。

 兼光は横薙ぎに木太刀を振るった。


 普段なら、こんな攻撃など、なんの危なげもなく返されてしまうだろう。


 だがこと今に至っては。絶対的に有利なものが、噛みつかれるなんて微塵も思っていないような敵に、予想だにしていない反撃を喰らったとなれば。そしてその勝利条件が『一発でも攻撃を当てること』であったのならば。


 それは、あまりに効果絶大だった。


「――っ」


 カン、激しい音を立てて木太刀は激突する。


 宗次郎は思わぬ反撃に、躱すことも受け流すこともできず、咄嗟に繰りだした木太刀の柄で兼光の攻撃を受けとめた。反動で宗次郎の身体は後方へと吹き飛ばされる。宗次郎は体勢を整えると同時、おもむろに兼光へ目を向けた。


 ――やってくれたな。


 宗次郎の視線には、そんな言葉がこめられているかのようだった。


 だが、兼光は止まらない。


 宗次郎が見せた大きな隙。それをそう易々とは見逃さない。


 宗次郎が吹き飛ばされたときにはすでに兼光は駆け出していた。後ろ足を思いきり蹴りだし、一気呵成に飛びかかる。失うものは何もない。全力全身、捨て身の兼光は鬼気迫る勢いで宗次郎に襲いかかった。


「はぁぁぁああっ!」

「……っ!」


 追い詰める。

 はじめて宗次郎の顔に汗が浮かんだ。


 まだ完全に立て直しに成功したわけではない。わずかに後方へ背が倒れこみ、極めて不利な姿勢だった。形勢逆転である。今度は兼光が追い詰める番だ。


 追いかけるように、逃がさんとばかりに、攻撃を繰りだしていく。


 どこからそんな力が湧いてくるのか、兼光にも理解できなかった。

 頭で考えるよりも先に身体が動いていた。まるで、独りでに動く身体に操られているかのようだった。


「はぁあっ!」


 と、そのとき。

 逆袈裟に振るった攻撃が、カンと大きな音を立て、宗次郎の刃を大きく弾いた。

 宗次郎が兼光の前では一度だって崩すことのなかった仏頂面にも、ほんのわずかにだが動揺が走る。反動で身体が大きくのけ反った。


 またとない、絶好の好機。


(ここしかない!)


 そう内心でつぶやいて。

 兼光は一度、力強く前足を踏みこんだ。


 決めるのは、ありったけの一発。


 今まで兼光が積み重ねてきた、何年も、何十年も、ただひらすら練習を繰り返してきた剣。


 真正面から放つ袈裟斬り。


「はぁぁぁぁぁあぁぁぁあああッ!」


 兼光は、体内にあるすべての余力をかき集め、渾身の一撃を放つべく、木太刀を真上に振り上げた。視線はまっすぐに宗次郎の胴を捉えている。受けが間に合うはずがない。


(今なら、いけるっ!)


 兼光の手から離れた刃は、まるで吸い寄せられるように、鮮やかな剣筋を描きながら宗次郎に迫った。


 初めて武士に憧れたあの日から、ずっと。

 何年も、何十年もずっと、兼光はこの瞬間に焦がれてきた。


 努力は実らず、それでも諦めず、辛酸を舐めるような日々が続いた。


 だが、そんな日ももうすぐ終わる。


 そんな努力が、いま、ようやくすべて報われようとして――。


 ――しかし、カン、と。


 おおよそ人間の肉体に触れた音とは違う、そう、それはまさに、木太刀同士を打ち鳴らしたような音が道場中に響きわたって。


 恐るおそる、兼光は顔を持ちあげた。


「……やはり、な」


 すると、そこには。

 兼光の放った渾身の一撃を、なんてことはない、柄尻のみで受け止めた宗次郎の姿があった。


 正気の沙汰じゃない。数センチだってずれていたら受けることなんて不可能だったはずだ。こんなもの、卓越した剣技というより、むしろ曲芸といったほうが良いくらいだろう。常軌を逸していた。


「な……、ど、どうして!?」


 兼光は問う。

 宗次郎はいつにも増して厳かな表情で、おもむろに口を開く。


「……お前の刀は、まっすぐすぎる。だから勝てないんだ」


 まっすぐすぎる。

 その言葉が、何度も兼光の脳内に反芻した。


 兼光にとって、先ほどの、宗次郎に放った剣は、紛れもなく、十年という長い時間をかけてようやく大成させることのできた、いわば努力の証であった。


 だがそれを、否定された。

 こともあろうに、降って湧いた絶好の機会をふいにして。


「……っ」


 そのうち、兼光の胸中には、悔恨や悲痛といった声にもならないような負の感情があふれかえり、顔を俯けて閉口する。


 まるで、今まで費やしてきた努力をすべて否定されたような気分だった。


 やるせない思いを胸に、兼光は道場を後にする。

 ふいに天を仰ぐ。今朝に見た空は、あんなに蒼かったはずなのに、いまはどういうわけか、掃きだめ色の雲に覆われていた。午後には一雨来るだろうか。天気予報も案外あてにならないなと兼光はひっそり毒づく。


 視界に映る景色は、いつもと変わらないはずなのに、いまだけは、なんだか灰色に濁って見えた。

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