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四 森といたずら少女



 ――カン、カン。


 どこからか、木を叩きつける音が響いていた。


 屋敷の裏手。滅多に人が寄り付かないその場所には、深い森が広がっていた。背の高い木々が空を覆いつくす。まるでとばりでも下りたみたいだ。


 そんな奥山には、なかにも一本だけ、ほかの木々に避けられるようにして幹を伸ばす立派な大樹があった。樹齢にして4、500年といったところか。



「956、957……――」



 その大樹のふもと。

 そこに兼光は立っていた。


 兼光は自身より何十倍も大きなクスノキを前にして、一心不乱に木太刀を振るっている。


 幹に木太刀を打ちつけるたび、カンカンと小高い打撃音が森中にとどろき、なるほど、先ほどから聞こえていた奇怪な音の正体はこれだったらしい。


 よくよく注視してみれば、大樹の幹の一部からは、ぼろぼろと樹皮が剥がれ落ち、幾重もの斬撃痕が刻まれている。言わずもがな、兼光がつくったものだろう。一朝一夕にできるものではない。なにせ、幹はくの字にくびれている。


 そしていまもなお、大樹の幹回りには、新たに無数の傷がつくられつつあった。



「997、998、999……――」



 それから、1000、と数えたところで兼光は打ちこみの手をとめた。


 ふぅ、とやり切ったような息をついて、滝のように流れる汗を道着の袖口で拭う。


 いま兼光がやっていたのは、大樹を相手にした打ちこみの稽古だ。


 日に一度、1から数えてきっかり1000回。

 七年前から欠かさずやり続けているそれは、兼光の日課となっていた。



「すぅ、はぁ。……よし」



 乱れた呼吸を整える。


 気を抜いたのはつかの間。

 すぐさま表情を引き締めると、兼光は再び木太刀を正眼に構えた。


 目を伏せ、ゆっくりと息を吐き出す。


 極限まで集中力を高めているからだろう。

 あたりがシンと静まりかえり、木々のさざめきや野鳥のさえずりがやけに大きく感じられた。


 やがて兼光は、ゆっくりと目を開く。



『――』



 すると、そこには。


 大樹を背にして、狐火のようにゆらりと立ちつくす宗次郎の姿があった。存在感が希薄なせいか、まるで柳の下にたたずむ幽霊のように見える。枝葉や茂みはまったく揺れていないというのに、宗次郎の道着の裾だけが風になびいていた。


 宗次郎は兼光と対峙して、おもむろに木太刀を下段に構える。


 さながら、かかってこいとでもいわんばかりに。



「っ」



 息を呑む。ぶるりと全身が震えた。


 わかっている、これは本物の(・・・)宗次郎(・・・)ではない(・・・・)


 兼光の想像が創りだした、いわばただの偶像だ。


 宗次郎に認められなければ、稽古をつけてもらうことはおろか、自由に道場へ立ち入ることすらも許されない。手合わせをする相手もいない兼光は、こうして想像上の宗次郎とともに一人稽古ばかりしていた。



「……」


『――』



 視線が交差する。

 思わず、木太刀を握る手に力がこもった。


 じんわりとした汗がつぅと頬を伝う。

 そよ風がそっと髪を撫でた。


 しかし、兼光は動かない。否、動けないのか。ジリジリと時間ばかりが過ぎていき、どちらも動きを見せないまま、永遠とも思えるようなにらみ合いが続く。このままずっと動きがないかに思えた、まさにそのとき。


 ふいに、風が吹いた。



「っ、ここッ!」



 瞬間、先に動いたのは兼光だった。


 力強く前足を踏みこむ。

 それと同時、後ろ足をばねのように蹴りだして一気に距離を詰めた。


 喉をビリビリと震わせるほどの大音声をあげ、真っ向から斬りかかる。



「はっ、ぁぁあっ!」



 狙うのは脳天。

 勢いをもって繰りだされる刃。


 だがその剣戟は、宗次郎には届かなかった。



(――ちがう)



 しかし、兼光の攻勢はそれだけで終わらない。


 後ずさる宗次郎を逃がさんとばかりに、続けざま、絶え間ない猛攻を繰りだす。左右の袈裟に斬りかかり、横一文字に一閃。そして逆袈裟斬り。どれもこれもが痛烈な一太刀だ、まともに喰らえばタダでは済まないだろう。


 しかし。

 それでも、剣戟は宗次郎には届かなかった。



(――っ、ちがう。これでもない……ッ)



 ぬらりくらりと身をこなし、剣戟をかわしていく宗次郎。このままでは埒が明かない。兼光はさらに追撃を加えようとして、しかしその瞬間、なにかを察知して大きく後方へ飛び退く。


 刹那、宗次郎の剣戟が風を刈りとった。



「……!」



 まさに間一髪。


 兼光は宙を舞いながら、危なかったと冷や汗を流す。あともう少し反応が遅れていれば、いまごろ無防備な足下にあれが炸裂していただろう。宗次郎は恨めしそうに、ふっと顔を持ちあげた。視線が入り交じる。


 その瞳は、人間らしさなんてどこにもない、血に飢えた修羅のように研ぎ澄まされていた。



「っ、はぁ、はぁ……!」


『――』



 距離を取り、再び構えをとる兼光。


 口からはすでに苦々しい息がこぼれだしている。脇腹は痛みを訴え、肺が張り詰めたように苦しい。すでに満身創痍な兼光に対し、宗次郎の額には汗の一粒だって浮かんでいない。


 ……まるで、壁だ。


 打てども叩けどもびくともしない、さながら分厚い壁を相手にしているかのようだ。



(あぁ、やっぱり……)



 兼光はそっと視線を下に落とす。


 胸にこみあげるのは絶望か、悲観か、それとも諦観か。


 だが兼光の顔に浮かんでいた感情は、はたしてそのどれでもなく。



「やっぱり、こんな刃じゃ届かないか……!」



 好戦的に笑う、ただただまっすぐな喜びだった。


 なにせ、兼光とて無謀ではない。


 かれこれ七年、何百何千と辛酸を舐めさせられた相手だ。


 実力差など百も承知。

 そう簡単に勝てるはずがないことくらい、やり合う前からわかりきっている。


 そう、だからこそ。

 もしも、宗次郎を打ち破ることができるのなら、アレ(・・)しかない。


 なにか確証があるわけではない。


 ただなんとなく、そんな気がしていた。



「はぁ……――」



 まぶたを閉じる。

 そして、呼吸を落ち着かせた。


 脳裏に思い浮かべるのは、いつか見た、あの乱れ桜のように美しい一閃。


 何度も焦がれ、憧れ、そして思い描いてきた。


 だからだろう。

 頭ではなく、身体がそれを覚えていた。



「――」



 やがて、兼光はふっと目を開いた。


 ゆっくりと、ひとつひとつ丁寧に、兼光は記憶をなぞる。


 世界から色が消えた。音が消えた。視野がぐっと狭まった。ただ、呼吸の音だけが聞こえてくる。まるで自分の身体じゃないみたいだ。兼光はただ、指先のその感覚に意識を集中させていた。



(これなら、いける!)



 不思議と手ごたえがあった。


 兼光は、あの鮮やかな一撃を繰りだそうとして。



「はぁぁぁああ――」


「兄さんっ」


「――っ?!?!」



 が、しかし。


 突然、背後からかけられた声に虚を突かれ、思わず刃の狙いがぶれた。


 すると木太刀は勢いをもってあらぬ方向へと振るわれてしまい、身体がつんのめる。


 なんとか前に倒れこみそうになる身体を支えようとする。が、抵抗むなしくどさっ、という音をたて、あえなく地べたに尻もちをついて倒れた。



「……」



 バツが悪そうな表情を浮かべ、誰だ、と恨みがましい目を向ける。


 兼光の視線の先。そこには、ある少女の姿があった。


 年は九つほどだろうか。小柄でちんちくりんな体躯、肩までかかる長い黒髪。アーモンド状の瞳はくりくりと丸みを帯びていて、ぱっちりと大きい。わずかに目尻がつりあがっていて、笑うとどこか小悪魔っぽい。


 背格好ゆえか、そこはかとない幼さを感じさせる彼女は、翡翠色があしらわれた着物に身を包んでいた。髪には広葉樹の葉をかたどった金属細工を留めている。彼女のトレードマークのようなものだ。


 そして兼光には、そんな少女の名に、ひとつ心当たりがあった。


 「兄さん」と呼ばれた兼光は、ため息まじりにその名前を口にする。



木葉(このは)か」


 その言葉を耳にして。


 名を呼ばれた少女――木葉は、まるでいたずらが成功した子どものように、ふふんと得意げな笑みを浮かべた。


 明智木葉。兼光とは2歳ちがいの妹だ。


 高慢ちきな性格をしていて、よくわがままを言っては屋敷の使用人たちを困らせている。いわゆるお嬢さま気質というやつだ。おまけにいたずら好きで、祖母の目を掻い潜っては屋敷を抜け出したりしている。


 よく言えば年相応の子どもらしく、悪く言えば生意気なおてんば娘だ。


 と、そんなことを考えているうちに、木葉は尻もちをついて倒れた兼光のそばに寄ってくる。目の前のところで立ち止まると、前屈みになって兼光の顔をのぞきこんだ。



「今のは少しダサかったなぁ、兄さん?」


「お前な……」



 からかっているのだろう。

 木葉は倒れた兼光を見下ろしてくすくすと笑っていた。


 誰のせいだよ、とは思ったものの、口にはしないでおく。

 言っても仕方のないことだからだ。


 言葉のかわりに、兼光はひとつ大きなため息をこぼした。



「まあいいや。それよりお前、何しに来たんだよ。ここには来るなっていつも言ってるだろ」


「何しに? ふふん、そないん決まってるやん……」



 訛りのある言い方で、にやりと不気味な笑みをつくる木葉。

 なんだかイヤな予感がする。


 すると彼女は、ない胸をこれでもかと張り、ビシッと伸ばした人差し指で兼光を指した。


 得意げな顔つきのまま、居丈高に言い放つ。



「特別に、兄さんをうちの遊び相手にしたる! どや、うれしーやろ!」


「断る」


「なっ、即答!? なんでやっ! うちの言うことが聞けへんのかっ!?」



 いや、なんでって言われてもな。


 ちみっこい背丈で必死ににらみつける木葉を見やり、やれやれと立ちあがりながら兼光は言う。



「あのなぁ。俺にはしなくちゃならねえことがあるんだよ、お前と違ってヒマじゃねえ。遊びたきゃそのへんでひとりで勝手に遊んでろ。俺は忙しいんだ」


「ぐ、ぐぬぬ……兄さんのくせにぃ」


「わかったらそこをどいてくれ。鍛錬できねえだろうが」



 兼光がそう言ってやると、渋々ながら木葉は半身を引いて道を開けた。


 脇をすり抜け、兼光は落とした木太刀を拾いあげる。大樹に向き合うと、再び木太刀を振り始めた。



「ふっ、ふっ」


「……むぅ」



 鍛錬に戻る兼光。

 集中しているのだろう、木葉には一瞥だってくれない。どうやらすでに意識の外らしい。


 その背中を見つめて、木葉は不満げな表情を隠そうともせず、まるでリスのようにぷくーっと頬袋を膨らませた。



「つまんない!」



 ぴしゃり。

 森中にこだまするような一声。


 続けざま、木葉はまくしたてる。



「口を開けば『鍛錬、鍛錬』って、兄さんってばいっつもそれ! そればっかりやんか! 少しはあたしとも遊びなさいよ、兄さんのばーか!」



 ぎゃーぎゃーと騒ぎ立てる木葉。


 うるさい。うるさすぎて、これでは鍛錬にならない。


 仕方がない、とでも言いたげなため息をつく。



「わーったよ。これが終わって、日が沈むまでの少しだけな」


「! う、うん!」



 ぱぁっと一面喜色を浮かべる木葉。


 だらしない顔になっていることに自分でも気づいたのだろう。


 すぐにはっとなり、恥ずかしさをごまかすように一言。



「べ、べつにうれしくなんかないんだからねっ!」



 どっちだよ。


 それから木葉は近くの倒木に腰かけた。どうやら兼光の鍛錬が終わるまで待っているつもりらしい。ごきげんそうに鼻を鳴らし、足をパタパタと動かしている。


 その姿を見ていると、なんだか毒気が抜かれるようで、何かを言う気も失せてしまった。



(まぁ、いいか)



 そう思いなおすと、兼光は鍛錬に戻った。



「ふっ、ふっ」


「――」


「……ん?」


「~~っ!」



 背後から視線を感じて振り向いてみれば、慌てて木葉が目をそらす。


 なにか後ろめたいことでもあるというのか。

 耳の先まで真っ赤に染まっていた。



「……?」



 どうしたのだろう、と思ったものの、すぐにかぶりを振って思考を消し去った。






「……兄さんの、ばーか」



 俯きがちに、木葉は笑っていた。


 そんなつぶやきは、風に乗って消えていった。


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