三 面と向かっては言えないけれど
「うぅ、頭が痛い……」
気だるさに全身を包まれ、仰向けに寝転がる兼光はうめくような声をもらした。
「自業自得です」
と、頭上から窘めるような声が降ってくる。
母屋の縁側。そこで兼光は、藤色の給仕服に身を包んだ老年の女性にひざまくらをされながら、パタパタとうちわを扇がれていた。
「いいですか坊ちゃん。修練に励むのは良いことです。が、何事にも限度というものがあります。ロクに休憩も挟まず水分もとらず、一体何時間やっていたんですか、まったく」
呆れたようにそう口にする女性。
兼光を『坊ちゃん』と呼び、手にしたうちわで風を送るその人は、名を嘉瀬風子。ここ明智家につとめる家政婦のひとりだ。
彼女は兼光が生まれるよりずっと昔から、変わらずこの屋敷に身を置いているらしい。いわゆる古株というやつだ。
風子を一言で言い表すなら、まさに完璧超人という言葉がぴったり当てはまる。慣れ親しんだ経験がものをいうのか、彼女の仕事はどれも丁寧でかつ素早い。
そんな彼女が、どうしていま兼光をひざまくらしているのかというと、その答えは単純明快。兼光のお目付け役だからである。
「大体、坊ちゃんは無理が過ぎます。いつもいつも無茶ばかりして、少しは亡き奥さまからお世話役を賜っているわたくしの気も知ってください。心臓がいくつあっても足りませんよ。本当に。今朝だってそうです。廊下の真ん中で坊ちゃんが倒れていると耳にしたときには、わたくしもう卒倒するかと……って、ちゃんと聞いてますか坊ちゃん?」
くどくどと苦言を垂れながら、風子は言う。
しかし当の兼光はといえば、当然、そんな風子のお節介などまともに聞き入れるはずもなく。先ほどの仕合を思い返しているのだろう、まわりの声も届かないくらいに没頭しては、呪詛のようにぼそぼそと恨み節をこぼしていた。
「……チクショウあのクソジジイめ、なんの手加減もなしに俺の顔面ぶっ叩きやがって。ほんとに人間の血が通ってんのかよ。人の心はねぇし反応速度はいかれてるし、握力ゴリラだし。人外って言われたほうがまだ説得力あるぞ。あんなバケモノ相手にどうしろっていうんだよ……ぶつぶつ」
「……はぁ」
やれやれ、この刀バカは。
そうこぼさんばかりのため息をついて、風子はこめかみのあたりを指で押さえた。
「どうやら今朝は、よほど手痛くやられてしまったみたいですね」
「手痛く、なんて生易しいもんじゃないですよ! あれは鬼です、悪魔です! 妖怪です! 人間という型枠を超越した、なにか異形のバケモノに違いありません!」
突然がばっと身を起こし、熱弁を振るう兼光。
言い切るや否や、思い出したかのように頭痛を訴え、再びひざの上に戻っていく。
「……その言葉、もしも大旦那さまの耳に入っていたなら、げんこつどころではすまなかったでしょうね」
風子は苦笑してつぶやいた。
それにしても、である。
いくら血縁関係とはいえ、この屋敷の当主に対してあまりにもあんまりな言い草だ。
本来ならば、小言のひとつでも言って、兼光の物言いを諫めるべきなのだろう。
だが風子はそれをしなかった。
兼光は口でこそそんなことを言ってはいるものの、それが決して本意でないことくらい、風子とて当然のように理解していたからだ。
宗次郎は厳しい。
なにせ、己の剣術にはひたすらまっすぐな男だ。そこに対する妥協はない。
そんな宗次郎のことだから、兼光が口を開くたび、あの冷血漢に対する恨みつらみが堰を切ったようにあふれだすのはいわば当然のことといえよう。
だがしかし、一体なぜだろう。
そんな宗次郎のことについて語る兼光の瞳は、果たしてどういうわけか、キラキラと宝石のように輝いてみえた。
「ふふっ」
「……どうして、笑うんですか」
「いえ、ごめんなさい。坊ちゃん、素直じゃないなぁと思ったものですから」
不服そうに口を曲げ、風子に抗議の目を送りつける兼光。ふいに目が合った。俯きがちに、兼光の顔をじっとのぞきこむ風子は、陽だまりのようにやさしく微笑んでいた。しわくちゃな手のひらがそっと兼光の髪をなでる。
「大旦那さまのことを話されているときの坊ちゃんは、目がキラキラと輝いていて……なんだか、とっても嬉しそうです」
(うっ……)
やさしげな目を向けられ、思わず言葉が詰まった。気恥ずかしさをごまかすようにそっと目をそらす。
その目を向けられると、弱い。なんだか内心を見透かされている気分になる。たとえ仮面で顔を覆っていようと、彼女のその目を前にしては、きっとどんな隠しごとも通用しないにちがいない。なぜそう思ったのかもよくわからなかったが、なんとなく、そんな気がした。
「……親爺は、俺の憧れなんです」
だから、だろうか。
気がつけば兼光は、心の内に溜めこんでいた思いを、思うさまに吐きだしていた。
「憧れ、ですか」
「えぇ、はい……――」
言いながら、兼光は目を伏せる。
まぶたの裏に浮かんできたのは七年前の記憶だった。
忘れもしない、桜吹雪が蒼天を舞うある春の日のこと。「道場のほうに近づいてはならない」という祖母の言いつけを破り、こっそりとのぞいたその場所で、兼光ははじめて『武士』に出会った。
あの日の剣戟はいまもこの目に焼きついている。
まだ正義のヒーローというものに本気で憧れていた当時の兼光にとって、惚れ惚れするほど鮮やかな剣を振るい、どんなに強大な敵にも臆せず、勇敢に立ち向かっていくその姿は、テレビに映るどんなヒーローよりもまばゆい輝きを放っているようにみえた。
あんなふうになりたい。
あんなふうに、刀を振ってみたい。
そう思うのは、あるいは必然だったのかもしれない。
「……どうしようもないくらいの、憧れです」
兼光は名残惜しそうに、ゆっくりとまぶたを持ちあげる。しかしその内面は、湧きあがるような興奮に身を焦がされていた。
宗次郎のようになりたいと思った。
宗次郎の大きな背中を超えたいと思った。
いつしか、そんな憧れは夢へと変わっていた。
兼光は天井に向けて手を伸ばす。
その手のひらは、剣だこや潰れた血豆まみれで、決してきれいなものではない。だが兼光には、それらが努力の勲章のように思えて、なんだかとても誇らしかった。
「俺は武士になりたい。いまはまだ届かなくても、いつかきっと、親爺みたいな、いいや、親爺のあのでっかい背中を超えられるような、そんな立派な武士に――!」
言いながら、兼光は握りこぶしをつくった。
いつか、その手に夢を掴み取れる日を夢想しながら。
(そうだ。なにを弱気になっているんだ。こんなところで休んでなんていられない。こんなところでくたばってなんていられない。もっともっと研鑽を重ねて、立派な武士になってやるんだ!)
と、そんなことを考えているうちに、兼光の身体は抑えきれぬほどの高揚に包まれた。どうしても刀を振るいたい。いますぐに動き出したくて仕方がない。
ついに兼光は、いてもたってもいられなくなり、唐突に立ち上がって言った。
「俺、ちょっと鍛錬に行ってきます!」
「そうですか、ちょっと鍛錬に……あれ、鍛錬?」
兼光の話を聞きながらうんうんと頷いていた風子の動きが止まった。
少し遅れて、再起動する。
「いやいや、ちょっと待ってください。鍛錬って、まさか今からですか? 今しがたバテて倒れたばかりじゃないですか! わたくし、先ほど『無茶をするな』と言ったばかりですよね? 先ほどのお話、ちゃんと聞いていましたか!? あぁ、いや、そういえば聞いていませんでしたっけ……って、そうではなく!」
「それじゃあ行ってきます! 夕飯までには戻りますから!」
「えっ!? あ、ちょっと! 坊ちゃん、まだ話は終わって――って、あぁもう」
風子がとやかく言っている間にも、下足を履き、庭に飛びだした兼光は、木太刀を片手に走りだしていた。慌てて風子は呼び止めようとするが、当然、兼光がそれを聞き入れるはずもなく。駆けだした兼光の背中はみるみる小さくなっていき、気づけばすでに米粒くらいになっていた。
これではもう、なにを言っても無駄だろう。
そう悟ると、風子は眉を八の字に曲げ、諦めたような息をついた。
「まったく、誰に似たのやら。……ホント、揃いも揃って刀バカなんですから」
門のほうへ吸いこまれていく後ろ姿を見送りながら、風子は仕方がないと笑っていた。
一度やると決めたことはまっすぐ最後まで貫き通そうとするところは兼光の長所であった。その一方で、人の話をまったく聞かないというどうしようもない短所も持ち合わせているのだが……まぁことさら言うことでもないか、と風子は内心つぶやく。
それに……と、風子はまだほんのりとぬくもりが残るひざの上をなぞる。それから彼女は、愛しげにそっと目を細めた。
「……あら」
ふいに、春風がそよぐ。
風はしゃらんと風子の髪をなびかせた。
天を仰げば、澄みきったような紺碧の空には、ほうきで掃いたような雲が広がっていた。遠くの空はずっと高い。おだやかな風が頬をなでる。
春らしい陽気の空を見上げて、絶好のお洗濯日和かしらんと内心ひとりこちる。
――こんな日が、ずっと続けばいいですのに。
一筋縄にいかないことはわかっていたが、そう願わずにはいられなかった。