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二 夢を追いかけて



 山々に囲まれた京都の北西部。


 都市部を離れ、山間(やまあい)を走る山岳鉄道に揺られることおよそ二時間。そこは、雄大な自然に覆われた小さな田舎町だった。見渡すかぎり田畑が広がっていて、コンクリート造りの建物はおろか、コンビニすらどこにも見当たらない。


 そんな限界集落を見下ろす山の中腹に、ある武家屋敷があった。


 見るものすべてを威圧するようにそびえる長屋門。厳かなたたずまいの門前には、達筆な文字で『明智(めいち)神道(しんとう)流 本家』という文言が刻まれている。


 まだほんのりと肌寒さを残す春風。


 しかし、その朗らかな陽気とは裏腹に、道場内は汗も蒸発するような熱気に包まれていた。



「はぁぁあっ!」



 瞬間、道場中に快活な声が(こだま)する。


 その声の主は少年だった。齢十二ほどだろう。藍の綿道着に身を包んだ五尺三寸(一六○センチ)は、揺るがすような声をあげ、鉄砲玉のように勢いよく前に飛び出した。


 狙いをつけていないわけではない。少年の目には、黒の道着を身に纏う“もうひとりの武士”を捉えている。



「――」



 その武士は、初老然とした風貌の男だった。


 男は木太刀を下段に構えたまま、瞳を伏せ、身じろぎひとつしない。一見するとそのまま眠りこくっているようにみえる。


 だがしかし、男が身に纏わせるピリピリとした殺気が、そうではないぞと雄弁に物語っている。


 ――近づけば、斬る。


 男の静かな気迫は、言外にそう告げているようだった。


 だが少年はひるまない。むしろ、足を早めていく。


 なぜなら少年には、目の前の男を斬りつけるビジョンが見えていた。イメージは完璧に固まっている。あとはこれを現実でなぞるだけだと、少年は勝利を確信して不敵な笑みを浮かべた。



(今日こそは、いける!)



 その瞬間、少年は勢いよく男に飛びかかった。


 脳天めざして木太刀を振り下ろす。男は動かない。否、動けないのか。やがて少年の手から飛び出した刃は、吸いこまれるように男に迫り、ついにその身をかすめようとしたまさにそのとき。



「くたばれ、クソ親爺(おやじ)ィ!」


「……甘い」


「な、っ――!?」



 おもむろに、男は固く閉ざした口を割った。


 なにが、と最後まで口にすることはできなかった。それもそのはずである。なにせ、男のしわがれ声が耳に届いたころにはもう遅い。


 気がつけば、眼前に刃が迫っていた。


 まずい、と脳は激しく警鐘を鳴らす。がしかし、避けようにももう間に合わない。刃が身に到達するまでの数秒間、少年にできたのは精々、目を閉じて来たる衝撃に備えておくことくらいだった。



「ぶべしっ!?」



 ガン。脳髄が揺さぶられるような衝撃。


 歯を食いしばった少年の顔面に、痛烈な一撃が打ちこまれる。その勢いのまま、身体はきりもみしながら道場の遥か後方へと吹き飛ばされてしまった。水切り石のように何度も床の上を跳ね転げる。ようやく勢いがおさまるころには、少年は板張りの床と熱いキスを交わしていた。



(い、つぅ……!)



 全身が痺れるように痛い。身体へ思うように力が入らない。


 あまりの激痛に、泣き言のひとつでも吐き出したくなる気持ちは山々だったが、それらをぐっと喉奥に飲みこむ。それでもと踏ん張り、なおも立ちあがろうとする少年。


 だが男は、そんな少年の踏ん張りを無意味だと嘲笑うかのように、鼻先へ切っ先を突きつけた。



「ま、参りました……」


「ふん」



 つまらなそうに鼻を鳴らす初老の男。


 すると男は、地べたを這う少年を見下ろして、凍てつくようなまなざしを差し向けた。


 厳かな雰囲気のなか、やがて男はその重々しい口を開く。



「……七年経てどもその程度か。その様子なら、弟子入りまでにもう七年はかかりそうだな」



 その男は、名を明智(あけち)宗次郎(そうじろう)


 ここ『明智神道流』を教える剣術道場の、第十三代目師範をつとめるその人だ。


 枯れ木のように細い腕、骨が浮き出るくらいにやせこけた身体。その外見からはとてもじゃないが強そうには見えない。しかし、その様相には鬼気迫るものがあり、さながら鬼かバケモノのよう。


 加えて、その実力はホンモノだ。



「……おい、いつまでそこで寝ているつもりだ。さっさと起きろ、兼光(かねみつ)


「っ、大人げねえよ親爺! 俺を殺す気かっ!」



 思いきり顔面をぶっ叩かれ痛みに悶える少年――兼光は、非道な仕打ちをしておきながらなんとも思ってなさそうな宗次郎に抗議の声をあげ、いまにも飛びあがらんばかりの勢いでがばっと起きあがった。


 明智兼光(かねみつ)、十二歳。


 江戸以前から続く武士の家系・明智家。その長男にして、宗次郎の孫にあたる。


 恨みがましい目を向け、グルルと敵意をむき出しにする兼光。しかし宗次郎は、そんな兼光とは対照的に、涼しい顔つきのまま眉のひとつだって動かさない。


 やれやれとばかりに「ふん」と鼻を鳴らし、おもむろに口を開いた。



「たわけ。武士道に大人げなんぞあってたまるか。ここでは勝ったやつがすべてだ。弱い者は武士ではない。優勝劣敗、それがここの絶対律だ」


「ふざけんな! なーにが優勝劣敗だこのクソ親爺! 武士道だかなんだか知らねえが、遠慮も手加減もなしに俺の顔面ぶっ叩きやがって! 少しは孫に対する思いやりってもんがねぇのか――って、いででででッ!」


「……クソ親爺、だと?」


「ぐぁぁあッ! 俺の頭蓋骨からメリメリって聞いたこともないような音がぁぁッ!!」



 頭を片手で掴まれたまま宙に持ちあげられ、じたばたと足を暴れさせる兼光。だが床から浮きあがった足は空を切るばかりでなんの意味もない。


 心にもない謝罪を口にしたところで、ようやく地獄のアイアンクローから解放された。


 頭蓋骨の形が歪んでいないかしきりに確かめる兼光を尻目に、宗次郎は呆れた息をつく。



「やれ、やかましいやつめ。……大体、いつも言っているだろう。真剣道とは元来、命のやり取りのために生まれたもの。生き残るための殺生の剣だ。生半可な覚悟で握っていいものでは断じてない」



 言いながら、宗次郎はそっと目を伏せた。



「もしも、てめえがいま手にしているこいつが、ただの木太刀や模造刀(にせもの)などではない、本物の真剣であったなら――」



 と、宗次郎は一度そこで言葉を区切る。


 すると次の瞬間。


 ぶおん、と風切り音をあげ、勢いよく木太刀を振り抜いた。


 紫電(しでん)一閃(いっせん)

 目にもとまらぬ一撃が鼻先をなでる。


 そのとき、果たしてなにが起きたというのか。兼光には、その太刀筋はおろか、抜刀する動きすら捉えることができなかった。


 ただ一瞬、ほんのまばたきの間に風が吹き。


 気がつけば、眼前に刃が突きつけられていた。



「――死んでいたのは、お前だぞ?」


「っ」



 宗次郎の、鋭い刃物のような視線が突き刺さる。


 おそらく、これを殺気と呼ぶのだろう。あまりの気迫に気圧され、まるでヘビに睨まれたカエルのように、あるいはネコの前のネズミのように、なにも言えなくなって押し黙った。


 宗次郎は、そんな兼光の様子を値踏みするようにじっと見つめていたが、やがて興味を失ったのだろう。つまらなそうに「ふん」と鼻を鳴らし、その突き刺すような視線をまぶたの奥にしまいこんだ。



「……まぁいい。なんにせよ、勝負は勝負だ」



 突き出した木太刀を再び腰のわきに納めながら、宗次郎はそんなことを口にする。


 勝負とはもちろん、先ほどの、宗次郎との仕合のことを指していた。


 日曜の午前。まだ特撮のヒーロー番組も始まらないような早朝から、こうして宗次郎とふたり、木太刀を打ち交えているのは、なにもただの親子のスキンシップというわけではない。


 兼光の弟子入りを認めてもらうための、大事な認定試験が行われている最中なのである。


 七年前、宗次郎の刀に魅せられた兼光は、その日のうちに道場の門を叩いた。


 しかし、当時の兼光はまだ五歳。それに刀の心得もないときた。すると宗次郎は、兼光の弟子入りに際して、ひとつある条件を出した。


 その条件とは『一度でも宗次郎の身体に木太刀を当てること』。


 それからというもの、兼光はこの七年間、欠かさず木太刀を振るい続けた。雨風に吹きさらされようが、病に身を冒されようが例外はなく、刀を握らなかったことはただの一日だってありはしない。


 だがしかし、それでも兼光は、未だこの条件を達成できていないのであった。



「0勝10000敗、いや、今朝の1敗も合わせて10001敗といったところか。やれ、いい加減懲りないやつだな、お前は」


「なっ、サバ読んでんじゃねえ! まだたったの9889敗目だ!」


「どちらもそう変わらんだろうが」



 呆れたようにもらす宗次郎。


 すると彼は、先ほどまでの刺々しい雰囲気から一変、急に突き放すような冷たい口調になって、兼光に言った。



「……兼光、お前が武士の道を志してからもう七年になる。だがお前は、それだけ月日が経とうども、てめえの身体に一太刀浴びせるどころか、触れることすらできていない」


「っ」


「もう十分わかっただろう。お前には刀を握る才能はない。いい加減、武士になるなんてバカげた夢、諦めてしまったらどうだ」



 淡々とした宗次郎の声が、午前の道場に重く響いた。


 途端、分厚い雲が空を覆い、仄暗い影が差しこむ。


 七年。


 その言葉の重圧が、重石(おもし)のように両肩にのしかかった。



「……」



 宗次郎の言葉はもっともだった。


 沈黙があたりに満ちる。


 静寂(しじま)を破り、兼光が口にしたのは――。



「いやだ!」



 重苦しい空気を打ち破り、力強く張りあげる一声。


 それと同時、兼光は俯いていた顔を持ちあげた。眉間にシワを寄せて引き締まった顔つき。頬は逆上したように上気している。そのこぶしは、ぎりぎりと爪が食いこむくらい固く握られていた。


 しかめた表情を崩さない宗次郎を見据え、兼光は続けて言い放つ。



「諦めてなんかたまるもんか! 俺は絶対、武士になる!」



 揺らぎない、まっすぐなまなざしで、ぎっと宗次郎をねめつけた。


 視線が交差する。一秒、二秒、三秒――やがて、先に折れたのは宗次郎のほうだった。根負けしたように目を伏せる。兼光の気迫に圧されたか、あるいは、そんな言葉が返ってくることをある程度予想していたのだろう。


 宗次郎はつまらなそうに鼻を鳴らした。



「ふん、強情なやつめ。お前がなにを言おうが勝手だが、武士になりたければ、まずはてめえの身体に一太刀浴びせてから言うことだな。再三言うように、そうでなければ、お前を武士とは認めない」


「わかってるよ、親爺」



 ぶっきらぼうに告げる宗次郎。


 兼光はもう聞き飽きたとばかりに生返事をした。



(……あぁ。わかってるよ、それくらい)



 自分に才能がないことくらい、ほかの誰でもない、自分自身が一番よくわかっている。何度も挫折し、つまずいて、くじけそうになって、そのたびにまた立ちあがってきた。立ちあがる勇気をくれたのは、いつだってあの大きな背中だった。


 いまはまだ、憧れは遠く。


 いまの実力では、たとえ逆立ちしたって届かないことくらい、兼光とて当然のように理解していた。



「……」



 けれど、それでも。


 だからといって、そう簡単に夢を諦めきれるはずがない。


 いつか、あの背中に追いつくために。



(俺は、絶対に……!)



 決意を胸に、兼光はぎゅっとこぶしを固く握りしめた。


 ちなみに、そんなやり取りが繰り広げられていた後方では、その一部始終を見ていた門下生の間から「先生、いくらなんでもお孫さんにだけ厳しすぎないか」「明らかに本気度が違うでしょ」「あんなの奥伝の俺でも当てらんねえわ」などと話しては、宗次郎のひとにらみによって黙らされていたのだが、しかしそんなこと、当の兼光は知る由なんてなかった。



「ほら、今日はもう十分だろう。気が済んだならとっとと母屋に戻れ」


「もう一回!」


「……やれ。まったく、諦めが悪いやつだな、お前は」



 兼光は宗次郎の脚にまとわりついてまで懇願した結果、このあとさらに七戦して全敗。暑さと疲労から、さすがに目を回したところで、道場の外へと蹴りだされてしまった。

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