一 憧れを抱いた日
祖父は『武士』だった。
兼光がそれを知ったのは、まだ幼い五歳のときだった。
初春の空に、樫の刃音が響きわたる。
音は道場のほうから聞こえてきた。祖母には「危ないから近づいてはなりません」と口を酸っぱくして言いつけられていた。けれども、湧きあがる好奇心には抗えず、兼光は見つからないようにこっそりと、軒下から中のようすをのぞきこんだ。
その先で、兼光は『武士』を見た。
とある武家屋敷。
その一角にある古びた剣術道場。
そこでは、なにやら仕合が行われているらしい。
戦っていたのは、クマのような図体をした筋骨隆々の大男。
対するは、ひょろりとやせ細った初老風の男――もとい、祖父だった。腕は枯れ木のように細く、身体から骨が浮き出ている。体格差はまるで倍。誰の目から見ても、祖父の不利は明らかだ。
「ふんぬっ!」
すると突然、大男は動いた。岩でも割らん勢いで、ぶおんと力任せに木太刀を振るう。
一撃では終わらない。まるで激しく打ちつける雨のように、矢継ぎ早に剣戟を繰り出していく。まともにくらえばひとたまりもない。
一見して、祖父に勝ち目などないかに思えた。
「――」
しかしどうだろう。祖父は、飄々と身をひるがえし、時には相手の攻撃をうけながしたりして、絶え間なく降り注がれる剣戟をすべて掻い潜っていく。その整然と研ぎ澄まされた動きには一切の無駄がない。
その姿を、気がつけば目で追いかけていた。
「ええい、ちょこまかと……ッ!」
大男の口から苛立ちの声がもれる。
大男は焦っているようだった。どれだけ剣戟を加えてもすべていなされ、じわじわと体力を消耗するばかり。よくよく見れば、大男の額にはびっしりと汗が浮かんでいた。一方、祖父は涼しい顔つきのままで、額には汗の一粒だって浮かんでいない。それどころか、苦しそうな息のひとつもあがっていなかった。
このまま仕合を続ければ、祖父に分があるのは明白。
そしてそれは、当然、大男とて理解しているだろう。すると彼は、余す体力すべてを使い果たす勢いで、イチかバチかの勝負に出た。
「うぉぉぉぉぉおおおおっ!」
けたたましい大音声。
ビリビリと全身が粟立つような気迫。
あまりの怒号に気を取られていると、突然、大男は一気呵成に飛び出した。頭の上でちょんまげのように柄を握り、三間(六メートル)ほど先でたたずむ祖父めがけ、真っ向に木太刀を振り下ろす。
早い、先ほどまでとは比べものにならないくらいに。
これには、さしもの祖父といえど反応できなかったらしい。まるで岩のように動かない祖父を見やり、しめた、と大男がほくそ笑む。
脳天めざして振り下ろされる刃。避けようにも、もう間に合わない。ついにそれは祖父の眼前まで迫り、もうダメか、と思わず目をつむりそうになった、まさにそのとき。
「『桜華』」
ふいに、声がした。
大男のものでも、まして兼光のものでもない。
いやに落ち着きはらった、しゃがれたような声だった。
――それは、鮮やかな一閃だった。
残影すら追えぬほどすばやく繰り出される、鋭い”突き”。
だん、と床を叩き踏む音が地鳴りのように響きわたった。
少し遅れて、祖父の背中を追いかけるように、一陣の風が吹き荒れる。
桜吹雪が乱れ舞った。
チカチカと目に焼きつくようなまばゆい一閃。
それは、まばたきをすればすべてを見逃してしまうほど、わずか一瞬の出来事だった。
そして気がつけば、祖父が繰り出したその切っ先は、大男の喉元を突き破らんとするすんでのところでピタリと静止していた。
「……すごい」
ふたりの武士による仕合。
その一部始終と、そしてなにより、あの鮮やかな一閃を目に映して。
兼光は、呆けたようにぼそりと、そんなことを口にした。
なにしろ、目に見えてわかるくらいの体格差がある相手だ。筋力にしろ体力にしろ、祖父が劣っているのは火を見るよりも明らかだろう。だというのに、祖父はそんな体格の不利などものともしない。
それどころか、自身より何倍も屈強な相手を、いともたやすく斬り伏せてしまった。
――まるで、ヒーローみたいな……。
わけもなく、そんな言葉が脳内に浮かんでくる。
そのとき、ふいに風が吹いた。
桜吹雪が蒼天を舞いあがる。
興奮して膨らんだ兼光の鼻頭に、そっと一枚の花びらが舞い降りた。
しかし兼光は、そんなことには目もくれない。
どうやら気がついてすらいないらしい。
そんなことにも意識が向かなくなるくらいに、時間が過ぎるのも忘れて、悠然とたたずむひとりの『武士』の姿を、ただじっと見つめていた。
(いつかぼくも、あんなふうになれたら……)
明智兼光、五歳の春。
その日、彼は初めて武士というものに出会い。
そして、武士というものに、痛烈なまでの憧れを抱いた。
2040年4月。
新緑の息吹が薫る、穏やかな風が吹く。
庭に伸びる落葉樹の枝には、人知れずひっそりと、しかしそこには確かに、若芽が顔をのぞかせていた。