殺戮学園
この平和な日本のどこか、薩梨区という町がある。人口の優に八割が殺し屋をやっている殺し屋だらけの町で、中心部には全国に腕の立つ殺し屋を送り出している薩梨区高等学校という学校がある。冬休みが終わって最終学期が始まるころ、授業はいよいよ大詰め。これから学期末までの間は全て、次の学年に上がるための厳しい試験にあてられる。この試験を勝ち上がれるのは、クラスのうち、一人だけ。その選出過程は、――
「今日から、この三年間の締めくくりとして、皆さんには殺し合いをしてもらいます」
正真正銘の殺し合いで行われる。
「これまでも、幾度となく実技の殺しを授業でやってきた」
教壇から朗らかな笑みを投げかけるずんぐりむっくりの男も、この学校の教師であるからには、立派な殺し屋だ。全盛期は人を殺すのに忙しすぎて、眠りながらでも人を殺していたぐらいだ。
「娘の彼氏、その前の彼氏、その前の前の彼氏、そしてその前の彼氏とその彼氏に黙って付き合っていた別の彼氏とセフレ……、たくさん人を殺してきた君たちでも、これまで共に学んできた友を殺すのは、躊躇するだろう。だが、君たちがこの試験を円滑に進められるよう、助言する。――殺し屋になるような奴は、ろくでもない奴だから殺していい」
なるほどその通りだ。教師が私怨で殺害対象を選んでいるんだから。
樒綾香は、一番後ろの席で、長い髪を指先に絡ませながら心の中で頷いた。
が、それに異を唱えようと手を挙げる生徒が一人。
「なにか質問でもあるのか? 彼岸くん」
彼岸零也、集団殺人では、樒とよく一緒になる男子生徒。殺しの腕も優秀な上に、笑顔の爽やかな好青年だ。
「今までは無抵抗な人間ばかり殺してきましたが、いきなり互いに殺し合うことが分かった上で手練れと殺し合うのは、少しレベルが上がり過ぎかと」
「実際の殺しの任務では、標的が無力な民間人であるとは限らない。殺し屋よりもよっぽど恐ろしい暴力団の差し金として使わされることもよくある。そこで初めて、授業で習ったことがすべてではないと知るのは、遅すぎる」
「だとしても、その対象が、今まで協力してきた学友というのは。ここは、間を取って、殺しの道を引退した太った腹の老いぼれ――」
にやり、と彼岸が口角を釣り上げた瞬間、銃声が数発鳴り響く。コンマ数秒の間に教師と彼岸が、懐から取り出した拳銃を互いに構え合っていた。
ほどなくして、彼岸の左胸から血がじわりと流れだして、白シャツを真紅に染めていく。僅かに先に引き金を引いていた教師が、彼岸を仕留めたのか。生徒の誰もがそう思っていた一方で、教師は彼岸の足元にからりと転がった銃弾を一瞥して青ざめていた。次の銃声は、彼岸の右手に握られたものから放たれた。
「先生がうってつけじゃないんですかね?」
銃弾は教師の左肩を貫く。急所である心臓を外しているが、彼岸にとっては、一発さえ身体に当たれば隙が作れるから、どうでも良かった。続けざまに、数発叩き込めば、相手がいくら経験豊富な殺し屋としても立っていられなくなる。
彼岸は、冷徹に、一発、また一発と教師の肥え太った身体に穴を開けながら、教壇まで歩みを進めていく。それは狙いを定めているというよりは、相手の動きを奪ったうえで、絶命までの時間をわざと稼いでいるようだった。
「す、素晴らしい。みずからの左胸に血のりを仕込んで、私の一瞬の油断を作り出そうとは――、その非道さこそ、殺し屋に相応しい」
「今更、評価はいりませんよ。先生からの評価を稼いだところで、生き残らなければ意味がない」
最後の銃弾は、真っすぐに教師の心臓を貫いた。
「俺には、三年前にこの試験で殺された兄がいる。――だから、この試験がいかに厳しい殺し合いかを知っている。標的を迷っている暇はない」
亡骸となった教師の腹を踏みつけながら、彼岸は生徒の方へと向き直る。
「さあ、次はいったい誰を殺す?」
彼岸の一連の行動は、教室を戦場に変えるのに充分過ぎるものだった。皆が皆、懐やら胸ポケットやらから銃器を取り出して構えていた。得物も、リボルバー、サブマシンガン、日本刀等、十人十色だ。だが、その得物が指す先は、ずっと机の下に蹲っていた樒の方を向いていた。
「なるほど、このクラスの中で一番弱そうな奴から殺すというわけか。乱戦となると、自分の命を守るのは難しい。共通の対象を作るのは賢明な判断だ」
樒を指す銃口が、もう一つ数を増やす。彼が怯える様子は、一般人なら無理もないのだが、殺気しかないこのクラスの中では異様だ。いよいよ引き金が引かれて、彼の命もここまでか、というところで彼岸が回し蹴りで教卓を薙ぎ倒した。
突然のことで皆が狙いを狂わせて、樒は命拾い。隙を見て彼女は、机の下に潜り込む。その瞬間、教室の窓ガラスに風穴が開いて、リボルバーが床に転がった。銃声は聞こえない。ガラスに穴が開く音と、風を切る音、床を血が濡らして、それに数秒遅れて人が倒れこむ鈍い音。この状況の中での最適解は、彼がそうしていたように身を屈めて床を這うことだった。匍匐前進で教室から這いずり出るまでに、狙撃手に撃たれてもなお、まだ辛うじて生きている生徒が、三人ばかしいたが、冷静にナイフで頸動脈をかっ裂いて処理した。
「怯えていたくせに、殺す時は冷静なんだね」
その声の主、彼岸は、仮面に描かれたような笑顔を浮かべていた。樒は、よくペアになるとはいえ、苦手な相手を前に、露骨に顔を歪める。
「そう、嫌な顔をするなよ」
「別に……」
――と言いながら、樒は眉間に皺を寄せて、手元の亡骸の肉を抉っていた。
「嘘つけ、手元は正直だぞ」
心中を見破られたので、開き直って舌打ちをした。彼岸から、やれやれと言った笑みが返される。
「ペラペラな笑顔よりは、呆れた顔の方が見ていられる」
「意外と毒舌家なんだな」
教室から這いずり出たところで、男が現れて二人に刀で斬りかかる。樒は斬撃をかわすと、男の手元を捉えて、肘を鳩尾に鋭く喰い込ませる。緩んだ手元から、からりと日本刀が転げ落ちる。その隙を見て、彼岸がゼロ距離で脳天を撃ち抜く。男は鮮血を額から噴き上げて倒れた。
「なあ、俺とコンビを組むってのはどうだ?」
「正真正銘の殺し合いを謳っておきながら、徒党を組もうというの?」
「お前は狙撃者の存在を知っていた。――違うか?」
樒は首を横に振る。
「嘘をつけ。じゃあ、なんであのとき、身を屈めていた。俺はこの試験に狙撃手がいることを知っていたから、わざわざ芝居をうって試験開始のタイミングをずらし、死角である教卓の付近に移動した。――だが、お前はそれよりも早く、机の下にもぐっていた」
彼岸には確信があった。クラスの中で、誰よりも早く身を屈めたのは、殺伐とした教室の雰囲気に怯えたからではないということに。
「私には弾道が見えた。それだけのこと」
「弾道?」
「ちょっとした透視能力が有ってね。どんなに遠くても、自分を狙ってくるものでも、他の人間を狙ってるものでも、弾道が見える。私はこの能力のおかげで、ドッジボールで毎回最後まで残っていたわ」
「いや、その喩え、すごいのかすごくないのか、よく分からないから……」
裏情報を知っていると睨んで、束の間の同盟関係を結ぼうというのが彼岸の魂胆。読みは外れたが、樒が特殊能力を持っているとなれば、むしろ願ったり叶ったりの状況だ。
「お前に透視能力が有るなら、それで俺に敵の居場所を教えてくれ」
とここで、彼岸が樒を壁に追い詰めて、彼女の瞳を覗き込む。彼女の顎を指先で突き上げて、顔を向き合わせる。所謂壁ドンからの顎クイだ。
「で、俺はお前のボディガードをするというわけだ。これでお互いの生存確率が上がる。悪くないだろ?」
しかし、樒は彼岸と目を合わせようとはしない。彼女は、彼岸の左肩の上の空間に視線を注いでいた。そう、彼女は、彼岸の背後から人影が現れることを予期して、ナイフを投げた。ナイフはしゅるしゅると風を斬りながら回転し、放物線を描いて、彼岸の背後に忍び寄っていた男の眼玉に突き刺さった。
「別に守ってもらうほど、弱くはないけど。乗ってあげてもいいわ」
「――そのナイフ、投げるんだ」
ぶっ倒れた男の喉仏を踏みつけると同時に、ナイフの刃先をねじる。視界と気道を絶たれて苦痛に喘ぐ男の首を両足で挟み込んで、へし折ってとどめを刺した。
「実はドッジボールは、投げる方も強いのよ」
「だからドッジボールで喩えるな」
ボディガードを買って出るはずだった彼岸だが、これでは樒に命を救われたことになってしまう。おまけに樒は、彼岸を置いてすたすたと死体が転がる廊下を歩いていく。
「おい、待てよ。どこに行くんだよ」
「狙撃手がいるのは、中庭を挟んだ向こう側、B棟の屋上でしょ?」
「それはそうだが――」
おまけに意外と足が速い。彼岸も早歩きで追いつくのがやっとぐらいだ。
「おい、待てって」
渡り廊下の先、屋上へと続く階段に足を踏み入れる。横倒しになった机が、あちこちに無造作に転がっていて、天板にはところどころ穴が開いている。踊り場等、障害物がないところには息絶えた亡骸が横たわっていた。
「これは――?」
「屋上までの道は、バリケードとその陰に隠れる殺し屋が守っている。狙撃手は、学校教員の血縁関係者であることがほとんどで、そいつが金で他の生徒を買って防衛線を張っている。正真正銘の殺し合いが聞いて呆れる。これじゃ、ただの根回し合戦だ」
彼岸が乾いた笑みを漏らしたところで、銃撃の雨が階段をなぞる様に降り注ぐ。二人は慌てて廊下に退避した。
「まさか機関銃まで持ち出してくるとはね」
「屋上に上るまでに、機関銃を装備した奴の他に、あと三人いるわね」
「そこまで、見えるのか?」
「手榴弾も飛んでくるかもしれない。あと階段のところどころに地雷が仕掛けられてるみたい」
「まさに戦場だな……。ここを抜ける方法は、分かるか?」
「本当に屋上に着くまで、手を出さないというなら、協力しても良いけど。――そのかわり、私の言うとおりに動いてくれる?」
もともと彼女の能力を利用して生き延びようとしていた彼岸は、あっさりと頷いた。
この防衛線を抜ける為には、決まったルートと手順を踏まなければならない。まずは、階段をわざと下る方向に向かって壁づたいに移動する。踊り場に設置された機関銃は威嚇射撃の意味合いが強く、下り方面にまで銃弾は届かない。下り方面にも一人、殺し屋がいるが、軽装備の為、仕留めるのは容易い。そいつから手榴弾を奪ったら、上の階に投げる。それで機関銃を装備した奴が、落ちればラッキー。落ちなければ爆風を隠れ蓑に奇襲する。そこで相手側は猛攻に出るだろうが、踊り場まで辿り着ければ、屋上は目前。地雷の位置をカモフラージュするために被せられたブルーシートをずらし、相手が自らの地雷を踏むのを誘う。こちらは能力で地雷の位置を把握できるから、背後にぴったりとくっついていれば問題ない。最後の一人は、何があっても屋上のドアの前から動かないから、真正面からやるしかない。
「ーーけど、俺がいればイケるだろ」
「どうだか。ちゃんとついて来れる?」
たんっと、敷居を飛び超えて、階段の下り方面へ。すぐさま機関銃による威嚇が始まる。
「姿勢を低く、壁から数十センチの空間に身体を納めて」
言われた通りに身を屈めて、捻るように移動する。銃撃は爪先からわずか数ミリを掠めていく。樒と合流したところで、いきなり彼女が、彼岸の頭をひっつかんで、羽交い締めにする。銃弾が彼岸の背中、僅かに膨らんだ上着に穴を空けた。
「合図で脇を締めるからそこで壁を蹴って」
返事を待たずして、樒は彼岸を小脇に抱えて、階段をかけ降りて三段目でジャンプする、と同時に脇を締めて彼岸の頭部を圧迫。彼岸が壁を蹴った力を利用して、二人は空中で翻る。この動きを、階下で銃を構える男が、捉えきれるはずもない。撃ち込まれた三発の銃弾が全て空を斬ったところで、樒は男の後頭部に向けてドロップキックをお見舞いした。男の頭蓋が階段の段に食い込んで砕ける。もうそのままでも、直に屍になるだろうが、安らかに眠れるよう、脛椎にナイフを刺しこんで息の根を止めた。ぴくぴくと動いていた手が、だらりと垂れたのを確認してから、男の衣服に手を入れて手榴弾を引っ張り出す。
「はい、パス」
「危ねえな。落としたらどうすんだよ」
「落としたときのことは考えてないわ」
樒が、あっけらかんと返すものだから、彼岸は乾いた笑みを漏らす。
「そいつを上の階の踊り場に向かって投げて」
「お前が投げた方が近いだろ」
「私、肩弱いから」
「さっき、俺を小脇に抱えてたよな」
肩が弱い、というのは冗談で、彼岸のいる位置から投げた方が、機関銃を装備した奴の死角になりやすいから、ということだった。
ピンが抜かれた手榴弾は、放物線を描いて、機関銃の足元に着弾。凄まじい爆風をかわすべく、樒は階下にいる彼岸の胸に飛び込んだ。二人は抱き合う格好になって、ごろごろと転がった。
「これで行程の半分は完了したわ」
「急に落ちてくるなよ。びっくりするだろ!」
「受け止めなかったときのことは考えてない」
「リスクヘッジを弁えようか」
「受け止めてくれると思ったから、と言ってみたりなんかして」
気まぐれに放った言葉で、彼岸が動揺するものだから、思わずくすりと笑ってしまう。なんとか押し殺して、一足先に、粉塵の中を突っ切っていく。
もし、奴を仕留め損ねていたら、視界が悪い今のうちに、奴の懐に潜り込む必要がある。まずは、機関銃の土台を蹴落とす。これで万が一、奴が爆風を免れていても丸腰の状態だ。粉塵が晴れて、奴が肉塊になり果てていたことを確認して、樒は安堵する。
しかし、ため息をつく間も無く、彼女の背後で銃弾が火花を散らした。上の階で男が銃を構えている。が、その男の爪先が階段を覆うビニルシートに置かれていることを、樒は見逃さなかった。銃弾の軌道も見えていれば、ブルーシートの下に地雷が隠されていることも見えている。樒は力任せにブルーシートを手繰り寄せた。足元を掬われて、バランスを崩した男の身体は崩れ落ちる。男の膝が地雷に触れた。瞬時の判断で樒は、身を伏せる。数多の肉片が、彼女の背中の上を飛び越えて散った。これで残る敵は、屋上に続くドアを塞ぐ、筋骨隆々とした男と、屋上で待ち構える狙撃手の二人のみ。
樒が歩いた導線を伝って、彼岸が合流した。それでもなお、ドアを塞ぐ男は、一歩たりとも動かない。ならば、恰好の的だ。彼岸の拳銃が火を噴いた。しかし、いとも容易く避けられる。男はようやくドアの前から移動して、脇に無造作に重ねられたパイプ椅子の山から一つ持ち上げて構える。彼岸が何発か銃弾を撃ち込むも、全てパイプ椅子の座面で受け止められた。
「あいつは一筋縄じゃいかない。私が特攻するから、隙を作ってくれ」
樒がナイフを振りかざして階段を駆け上がる。男の懐に潜り込もうとしたところで、パイプ椅子で薙ぎ払われる。それを受け止めようとするも、細い彼女の身体は押しきられて、壁に打ち付けられた。打ち身を負った彼女の頭部に、パイプ椅子の座面が振り下ろされる。あまりにもの衝撃で、彼女の視界は真っ赤に塗りつぶされた。ナイフを振りかぶって応戦するも、パンチドランカーを起こした彼女の太刀筋は全て見切られてしまう。
隙を作ってくれ。そう言われていた彼岸だったが、あれほどまでの快進撃を見せた樒が、目の前で一瞬のうちに伸びてしまっていることに狼狽えてしまっていた。だからといって、彼女が自分を頼ってくれたことに応えないわけにはいかない。ちょっとくらい、こっちが手柄を立ててもいいはずだ。目を皿にして、男の隙を作る手立てを探す。――彼岸の眼は、ドアの横に設置された消化器を捉えた。
男に視線が悟られるまでに、彼岸は引き金を引いた。穴の開いたボンベは、白い煙を吐いて暴れまわる。予期せぬ事態に、男が動揺した僅かな瞬間を狙って、樒がナイフを喉元に抉り込ませた。
「これくらいでは、こいつは止まらない! 私ごと撃つ気で撃て!」
その言葉通り、首元から鮮血が噴き出ようとも、男は樒の喉元を引っ掴み、その屈強な掌で彼女を締め上げる。もはや、男が息絶えるのが先か、彼女がの首が締まりきるのが先か。全ては銃を構える彼岸の腕にかかっていた。二の腕、脇腹、太腿、背中に穴が開いたところで、辛うじて男の腕の力が弱まる。樒は男の鳩尾に膝を喰い込ませた。やっとのことで男が体勢を崩してよろけて後ずさり。次に彼岸が放った銃弾は、男のこめかみを貫いた。流石にこれは致命傷だったようで、倒れた男はぴくりとも動かなくなった。
「マジで化け物みたいな男だったな」
「まだ屋上に一人いる。気を抜くな」
そう言う樒は、さっきまでパンチドランカーになっていたのが噓の様にピンピンしている。
「さっき、やられていたのは芝居だったのか?」
「半分はね。あとのもう半分は、本気でヤバかった」
「――どうだかね」
呆れ調子で呟く彼岸を尻目に、樒は屋上のドアを開ける。平らなコンクリートの床が広がっていて、高い柵は無く、僅かな段差の向こう側が空に溶けている。殺風景で人の気配は感じられない。こちらが屋上に辿り着くまでに、敵は身を隠したのだ。樒はドアから出るや否や、壁に背中をぴったりとくっつける。それより一歩先に踏み出そうとした彼岸の服を引っ掴んだ。そこで彼岸も状況を理解する。狙撃手は、入り口の真上の屋根に張り付いていたのだ。ドアから壁伝いの位置は、相手から死角。そこを一歩でも踏み出せば、それは死を意味する。しかし、互いに攻撃が届かない硬直状態をいつまでも続けるわけにはいかない。
この状況を打破すべく、まず動いたのは樒だった。彼女はドアから見て左手側の壁に回り込み、屋根に向けてナイフを放り投げた。しゅるしゅると空中で回転したナイフに気を取られ、屋根の上に立っていたとこのライフルの先が迷う。そこで彼岸が、壁を蹴って後ろ飛びをする。拳銃の先が、真っ直ぐに男の身体を指す、コンマ数秒、その瞬間を彼岸は逃さなかった。銃弾は脇腹に穴を開ける程度だったが、男がバランスを崩して屋根から転げ落ちるにはそれで充分。落ちてきた男が呻いている間に、樒が左胸を刺して仕留めた。
これで、この試験に参加していた生徒も、駆り出された狙撃手と、そいつを守っていた男どもも皆、殺された。残ったのは、樒と彼岸の二人、うち一人だけ、生き残った方が、この薩梨区高等学校の卒業生となる。彼岸の拳銃が、樒の左胸に向けられる。二人の束の間の同盟関係も終わりを迎えたというわけだ。
「……、すぐ撃てばいいのに」
「撃つ前に、ちょっとくらいお喋りをしたっていいだろ。俺は、お前と組んだおかげで、ここまで生き延びてこられた。本当に感謝している。けど、ここまで来て、これから自分がどういう殺し屋になるのか、俺は何も考えれていないんだよ。兄を殺したこの学校が憎くて、意地でも生き残ってやるという気持ちだけだった。だから、お前を撃つ前に、聞くだけ聞いておこうと思ってな。――お前は、どんな殺し屋になりたい?」
樒の得物は、刃渡り二十四センチのナイフ。拳銃を装備した彼岸に対しては分が悪い。あとは引き金さえ引けば、樒はあの世行き。彼岸が圧倒的に有利な状況だ。
「別に。私も深くなんて考えてない。身寄りがない私を拾ってくれるのが、この学校しかなかっただけ。それよりも、この状況でわざわざ私と無駄話をしようなんて、殺し屋に向いてないんじゃない?」
「そっちこそ向いてないんじゃないか。いつ銃口を自分に向けてくれるか分からない俺を、頼り過ぎだ」
樒は口をへの字に曲げる。――図星だったのか。彼岸がそう思いかけた途端に、上目遣いの困り顔が向けられる。急にしおらしくなった彼女の表情の変化に、少しばかり気が緩む。それが命取りだった。
樒は姿勢を低くして、彼岸の懐に潜り込み、鳩尾を突き上げる。この屋上に、転落を防ぐための高い柵は無い。せいぜい膝の高さまでの段差が有るのみだ。彼岸は中庭に投げ出されてしまった。
「あなたよりは、よっぽどマシよ」
――こうして、薩梨区高等学校の卒業生は、樒 綾香、たった一人に絞られた。
一か月後、薩梨区高等学校の卒業式が開催された。いつもは鮮血が降り注ぐ校庭も、この日ばかりは、満開の桜が咲き誇る。奇麗な桜の下には、死体が埋まっているというが、この学校の桜の下に埋まっている死体の数は尋常ではない。
会場である体育館には、日本全国から暴力団関係者が集結し、卒業生である樒を険しい顔で睨みつけていた。一流の殺し屋として、通用しそうか品定めをしているのだ。
「樒 綾香さん、卒業おめでとう」
白いひげを蓄えた、禿げあがった頭の校長から、樒は卒業証書を受け取る。これまでは殺し屋に似つかわしい強面の男が、卒業証書を受け取るのが常だったが、樒のような麗人がそれを受け取る光景は、物珍しかった。
「それでは、卒業生を代表して、一言」
代表しても何も、樒以外の生徒は死んでしまっているわけだが。
樒は、参列している在校生や、保護者、暴力団関係者の面々を一瞥して、深呼吸をする。
「――私には、この学校の卒業試験で、この手で殺すことが出来なかった生徒がいます。生き延びることは出来ましたが、自分が定めた獲物を仕留めなかったというのは、殺し屋を目指すものとして、怠慢と言わざるを得ません。こんな私が立派な殺し屋になるとは思えない。その資格が私には無いのでしょう」
樒から在校生に送られた言葉は、死地をくぐり抜けてきた戦歴に相応しくないネガティブな内容だった。顔を歪めて隣の席とひそひそ話をする参列者の面々など、気にも留めずに樒は続ける。
「私がこの学校を去った後、皆さんは最後の学年を迎え、直に卒業生の座を巡って殺し合います。そのときに、私のように、甘えた結果を残さないでください。そのためには、常に獲物には目を光らせておくことを忘れないでください」
仕留め損ねた獲物が、何なのか。その答えは濁されたまま。張り詰めた雰囲気のまま、卒業式は幕を閉じた。
卒業式が終わり、校門を出たところで、樒を迎える男が一人。薩梨区高等学校の卒業生となれば、暴力団関係者が、殺し屋をスカウトしようと出待ちしているのは当たり前。しかし、彼はどうも様子が違った。身体中を包帯でぐるぐる巻きにして松葉杖を突いていた。まるで高いところから落ちて、奇跡的に命を取り留めたかのような出で立ち。
「いいのかよ。殺し屋になれば、金銭的には安泰。なのにそれを投げ出すような発言をしちまって」
「私も向いてないなって、あなたに言われて気づいたの。まあ、あなたよりは、よっぽどマシだけど」
そして、樒が彼に送る表情には、親しみが込められていた。この場で初対面の男には決して見せない、共に戦った戦友に送る笑顔。それは鏡に映したように、男の顔にもうつった。