23 見知らぬ女
クラリスは、キルケットの街中を東側から西側へ向かって歩いていた。
その時……
「最低ッ‼ ほんとに信じらんない‼」
一人の女が大声でそう叫んでいるのが聞こえてきた。
「?」
クラリスが思わずそっちの方を見ると、声の主は魔術師らしき服装の女だった。
そして、目があった。
「あ、クラリスちゃん‼︎ ちょうどよかった。ちょっとこっちにきて、ルージュと一緒に私の話を聞いてよ‼︎」
「えっ……誰?」
見覚えのない女に突然声をかけられ、クラリスは混乱するばかりだった。
「ケイトよ、ケイト。あなたの姉弟子。1週間くらい前にもお話ししたじゃん」
「そう、でしたっけ?」
その魔術師は、バージェスの弟子のケイトだと名乗った。
そして、半ば無理やりにクラリスを自分たちのところへ引き入れると、凄まじい勢いで自分の夫の悪口を言い始めたのだった。
どうやらケイトはクラリスのことを知っているようだったのだが……
クラリスにとっては全く見覚えのない相手なのだった。
→→→→→
「シュウったら最低なのよ⁉︎ 『互いに妻と夫は1人きり』っていう約束をしてたのに……」
ケイトは、クラリスともう一人の同席者であるパーティーメンバーのルージュという女に向かって、すごい勢いで夫の悪口を捲し立てた。
『一夫多妻』や『一妻多夫』が皇国の法律で認められているとはいえ、様々な面でのトラブルを避けるため『一夫一妻』の取り決めを交わしている夫婦は多いらしい。
そもそも、同時に二人以上の妻や夫を持つということは、それを可能にするような『財力』なり『権力』なり『魅力』なりがないと上手くはいかないものだ。
ちなみにケイトの夫はシュウという名前で、そちらもバージェスの弟子らしかった。
「ってかクラリスちゃん、シュウとも会ってたでしょ?」
「……そうでしたっけ?」
そもそもクラリスはこのケイトという女にも見覚えがなかった。
だからここで、さらに登場人物を増やされても訳がわからないだけだった。
「まぁいいや。それはそうと聞いてよ‼ シュウったら最低なのよ」
「は、はぁ……」
ケイトによると。
ケイトが買い出しに行っている隙に、夫のシュウが宿に女を連れ込んでいたらしい。
「私が買い出しから戻ったら宿屋のベットでことの真っ最中でさ。そのまま『彼女を二人目の妻として迎えることにした』とか言い出したのよ? ホントに信じらんない‼」
「……」
クラリスの身近には、3人の妻を持つ義兄がいる。
なので、複数の妻を持つこと自体はクラリスには何とも否定し難い案件だった。
とはいえ、ケイトの言い分もわからなくはない。
元々の約束を破られたこともそうだが、もしこの後クラリスがバージェスとそうなったとして……
二人目の妻を迎えるのなら、少なくとも事前に相談してほしいとは思った。
逆に、もし自分が二人目だった場合、少なくとも一人目の妻とはきちんと話を付けてもらってからにすべきだとも思った。
そう考えると、なんとなくケイトの気持ちが想像できる話ではあった。
「やることやった後に事後報告でそれを言い出すのは、確かに酷いかもしれないですね」
「そうなのよ‼ 全然そんなそぶりがなかったのに、本当に突然なのよ」
「シュウの相手は、どんな女だったの?」
ルージュがそう尋ねると、ケイトはいきなり黙り込んでしまった。
「?」
「それが、相手の顔をよく覚えてないんだよね」
目があったような気がしたが、顔はよく覚えていないらしい。
たぶん、窓に提げられた布で室内が薄暗くなり、それでよく見えなかったんじゃないかとのことだった。
「そういえば、そのシュウは今どこにいるのかしらね?」
ルージュはケイトに、さらにそんなことを尋ねた。
「ルージュ。今はあんな奴がどこにいようがマジでどうでもいいの‼」
「そう、確かにもうどうでもいいわよね。忘れちゃった方がいいわ」
そのルージュの物言いに、クラリスは若干引っかかるものを感じた。
「でも、もしもう一度シュウと会えたとしたら、ケイトはどうしたいの?」
「どうするもこうするも……もう離婚よ‼」
「でも、相手の女はただの遊びかもしれないわよ? それでも本当に離婚しちゃうの?」
ルージュは、まるでなにかを知っているかのような口ぶりでそんなことを聞いた。
「やることやっておいて、遊びも何もないでしょう?」
「あはは、ケイトはお利口さんなのね。ちゃんと法律を守ってる」
「何よそれ、おちょくってんの?」
流石に苛立ってきたのか、ケイトはルージュを睨みつけた。
「ごめんなさい。そんなつもりはないわ。疲れてるみたいだし、今日はもう宿に戻って休んだ方がいいんじゃない?」
そう言って、ルージュはなだめる様にケイトの背中を押して歩き始めた。
「あれ、そういえばあなた誰だっけ?」
「何言ってるのよ。パーティーメンバーのルージュよ。まだ忘れないでよ」
そう言いながら、ルージュが振り返った。
振り返ったルージュの視線と、クラリスの視線とが交差する。
「クラリスちゃんも……さようなら」
ルージュがそう言って、そのまま2人は歩き去って行った。
「あの……」
去って行く二人の背中に、クラリスは声をかけた。
それを聞いて、ルージュが振り返る。
「あら、どちら様?」
「はぁ? つい五秒前まで一緒に話してただろ?」
「あら、そうだったっけ? っていうか、私のことまだ覚えてるの?」
「だから……ついさっきまで一緒に話してたよな?」
クラリスは、ルージュの言葉の意味が分からなかった。
まるで、クラリスがルージュのことを覚えているのがおかしいような口ぶりだった。
「まぁいいわ。そういう相手は今までもいたしね。少し時間が経てば効いてくるでしょ……」
ルージュは一人で小声でなにか呟いた後、再びクラリスに向き直った。
「それで、私になんの用?」
「ええと、ルージュさんはシュウさんの相手が誰だったのか知ってるんですか?」
「あら、どういう意味かしら?」
「さっきの会話を聞いてたら、なんとなくそんな気がしたんだけど……」
「へぇ、会話の内容まで覚えてるんだ」
「?」
本当に、意味が分からなかった。
そしてルージュは、クラリスをもう一度じっと見つめた後、結局何も答えずに無言のまま立ち去って行ったのだった。
「聞いちゃいけない話だったのかな? あの二人、結局なんだったんだろう」
見知らぬ女にいきなり声を掛けられたことから始まって、もうわけがわからないことだらけだった。
二人が去った後、なんとなく胸元が暖かいように感じ、そこにしまっていた『エルフの御守り』を出してみた。
「ん? 少し光ってる?」
ほのかな温かみを帯びたそのペンダントは、おそらく何らかのスキルを発動させているようだった。
アマランシアから聞いた話では、可能性の高いスキルは『運強化』もしくは『呪い除け』だろう。
そして、不意にある会話が脳裏に蘇ってきた。
『その女は、魔眼を用いて人から自分や自分の行動に関する記憶を消し去ることができる』
確かこれは、セントバールの宿でビビと交わした会話だったはずだ。
誰についての話だったのかは思い出せないけれど……
もし本当にそんなことができる人間がいるのなら、忘れてしまっては警戒のしようもない。
ただ、今のルージュの言動は……
クラリスは背筋に悪寒が走るのを感じた。
ただ、今はとにかく足早に家路を急いだのだった。