21 『とあるエルフの詩唄い』②
それは巨大な人型の魔獣だった。
おそらくはゴブリンの亜種なのだろう。
緑色の肌をした巨大な魔獣を、闘技場の支配人が「最後の巨獣オルグボス」だと紹介した。
それは少女に死を与える、最後の魔獣の姿だった。
圧倒的な戦闘力を持つ魔獣を前にして、少女は一瞬にして武器を失った。
そして右足をつぶされて両足で立つことすらもできなくなった。
巨獣オルグボスは、抵抗できなくなった少女の身体を人形のように弄び、床に叩きつけ、放り投げた。
やがてそれにも飽きたのだろう。
オルグボスは、地面に転がる少女にゆっくりと近づいた。
そしてその頭を踏みつけにしようと、大きく脚を振り上げたのだった。
観戦させられている奴隷たちの絶叫が響く。
そんな中、少女は少し安堵していた。
これで終わる。
これで終われる。
長く短い、戦いと後悔の記憶しかない少女の物語は、これで終わり。
そんな少女の頭に最期に浮かんだ光景は、枕元にあぐらをかいて座る昨日の青年の姿だった。
本当に、本当にどうでもいい光景だ。
もっとこう、忘れてしまった故郷の景色とか、思い出せなくなってしまった両親の顔とか、そういうのが見たかったなぁ。
「聞いただけの物語を語るやつは偽物、か。俺はそんなことないと思うけどなぁ」
ふいに、そんな言葉が頭に蘇った。
それは、夢現に聞いたあの青年の言葉だった。
熱に浮かされるようにして語った少女の懺悔に、勝手に返した言葉。
『私はただ、人から聞いた物語を繰り返しているだけ。だから本当の私は空っぽで、私の言葉も物語も本当は全部が偽物なの』
「そうだとしても、その物語に希望見出した奴らがいる以上、そいつらにとってあんたの詩は間違いなく本物だったんだと思うよ」
その言葉を思い出し、少女の胸がトクンと脈打った。
死に逝く者達に、少女はありもしない希望の物語を吹き込んだ。
そのことを、ずっと悔いてきた。
彼らの結末は凄惨な死でしかないとわかっていても、少女は求められるがままに希望の詩を唄い続けた。
そのことを……、ずっと悔いてきた。
だけど彼は、その詩が『彼らにとっては本物だった』と言った。
例えそれが、死に逝く少女に向けた『偽りの慰めの言葉』に過ぎなかったとしても……
その言葉は、少女の中で本物の救いとなっていた。
ああ、そうか……
死に逝く者は、偽りでも救われるんだ。
『全て空っぽな私が、偽物の詩で偽物の希望を振りまいている』
「それが本当に心から望むことだったんなら、救いに偽物も本物もないだろう」
ありもしない希望の物語を吹き込まれて、ありもしない希望に縋って。
でもその瞬間、彼らの中には救いが存在していた。
例えそれが偽りの物語だとしても……
本当は聞く方だって全部わかっていたとしても……
自分が信じたいから、信じるんだ。
私の詩にすがったみんなも。
もしかしてこんな気持ちだったのかな?
「う……くっ…」
踏み抜かれた巨獣の足を寸前で回避して、少女は再び立ち上がった。
『その空っぽさが、とてもとても悲しいの』
「じゃあ、本当のあんたは何を望んでいたんだ?」
それは本当に、本当に酷い問いかけだった。
そんな言葉を聞かなかったら、こんな無様なことをせずにさっさと頭を踏み砕かれて終わっていた。
少女が本当にしたいこと。
そんなことを思い出しさえしなければ、少女の物語はとっくに終わりになっていたはずだった。
少女が、心から望むこと……
『わたしは、世界が見てみたい』
振り抜かれた棍棒の一撃をギリギリのところでかわし、オルグボスの足に短剣の斬撃を当てた。
そして、少女は再び地面に倒れ込む。
『人から聞いただけじゃない世界を、私のこの目で見たい。この耳で聞き、この肌で感じたい……』
それは、ずっとずっと押し殺し続けていた少女自身の願いだった。
それを望んだからこそ。
少女はあの日、一人で故郷の森を抜け出したのだった。
そして、叶わなかった奴隷たちの無数の願いの物語を……
その耳で聞くほどに。
その口で語るほどに。
虚ろだった少女が本心から欲し、そして心のうちに押し込め続けた強烈な元々の願いだった。
心の奥に押し殺してきた思いが、やがて喉の奥から咆哮となって迸る。
そして、再び立ち上がった。
こんなところで死にたくない。
私は、この目で世界を見るために故郷の森を出たのだから……
「まだ、死にたくない……」
死にたくないから、立ち上がる。
だが、ここで立ち上がることにたいした意味はなかった。
ただ数秒、迫り来る死の瞬間を遅らせただけに過ぎなかった。
それでも少女が立ち上がったのは……
きっと、積み重ねられた数々の物語を知ってしまったから。
それを語ってしまったから。
夢を見てしまったから。
見せられてしまったから。
みんなが望んだ世界を。
みんなが見てきた世界を。
私も見たい。
「う……あぁっ‼」
その瞬間。
忘れていた故郷の森の景色が少女の脳裏によみがえってきた。
森の木々の間を縫って走り抜ける少女。
そして言いつけを破って森から飛び出した少女の眼前には、見たこともないほどに広大な無尽の草原が広がっていた。
私は、このままどこまでだって行ける。
希望に満ちて踏み出した。
その歩みの……
その先へ……
どこまででも歩いて行きたい。
行きたかった。
生きたかった。
ならばこの命の火が消える最期の瞬間まで……
この希望に縋って足掻いていたい。
自分の心の望むまま、希望に向かって進み続けたい。
それは、時間にすればたったの数秒だった。
もうあと数秒もすれば、少女は再びオルグボスの一撃に倒れるだろう。
それで、今度こそ本当に終わってしまう。
そのはずだった。
だが……
少女が自らの意志で繋いだその数秒は、少女の運命を左右する決定的な数秒となったのだった。
→→→→→
突然、ゴゴゴゴゴという地鳴りが響き、闘技場の足元が崩壊した。
そして、巨獣オルグボスの足元から突然に、巨大な顎が出現した。
その巨大な顎はオルグボスの下半身に食らいつき、それを一口で食いちぎったのだった。
何がどうなっているのかわからない。
崩れて傾く足場の上で、下半身を失った瀕死のオルグボスが少女に向かって倒れ込んでくる。
一心不乱に振り上げた少女の短剣は、オルグボスの喉元の急所を深々と抉り、その命の最後の灯火を刈り取った。
誰も彼もが全く状況を掴めないままに、闘技場は轟音と悲鳴に満ち満ちていった。
もうもうと舞い上がる土煙の中、少女の眼前にはオルグボスの十倍はあろうかという、信じられないほどに巨大なモンスターが立ちはだかっていた。
未だその半身は地面の中。全体像すらも掴めないほどの巨体。
少女は恐怖ですくむ足を奮い立たせ、なんとか後ずさろうとした。
だが、度重なる戦闘の連続で少女の身体はとうに限界を迎えていた。
再び倒れ伏し、立ち上がることも叶わずに少女は地面を這いずり回る。
闘技場の壁が崩れ、呪縛から解き放たれた魔獣たちが観客や奴隷たちに襲い掛かり始めていた。
悲鳴と絶叫が響く阿鼻叫喚の地獄絵図の中、周囲のあちこちで戦闘の気配がし始めていた。
そんな中で少女は、どこからか飛び出して来たあの青年によって抱き上げられた。
「誰か、この子を頼む‼︎ エルフだっ、まだ生きてるぞ‼︎」
青年はそのまま走り出し、やがて何人かのエルフの剣闘奴隷の集団を見つけだして少女の身柄を預けると、再び粉塵の中へと戻っていったのだった。
去り際に放った、青年の最後の言葉。
「人間に復讐したいのはわかる。だけど、今はその子のために……ここから逃げてくれないか?」
怒りに満ちた目で剣を握りしめていたエルフ達は、その青年の言葉で剣を収め、代わりに少女の身体を大切に抱きかかえた。
そして混乱する闘技場から走り出て行った。
そうして、エルフの奴隷少女は闘技場から外の世界へと逃れ、やがてエルフの隠れ里へと辿り着く。
その後、長い長い回復の時を経て、エルフの少女は世界をめぐる旅人となった。
旅先で知る新しい世界と体験、そして新しい物語。
「エルフの少女は、今もどこかで唄っていることでしょう。あの日出会った、名前も知らなかった青年と、いつの日にか再会することを夢に見ながら」
→→→→→
あの日、闘技場の地下から突如として出現したのは『土魔龍ドドドラス』という強大な力を持った魔龍であった。
そのことを、エルフの少女が知ったのはずっとずっと後のことだった。
それはその事件の数週間前。
周辺の地下遺跡を調査していた白魔術師の一団が、闘技場のほぼ真下の地層で休眠状態にある『土魔龍ドドドラス』を発見したことに端を発していた。
永らく地中に潜んでいたその土魔龍は、調査隊に発見されたことで徐々に活動を再開し、やがて完全に眠りから覚めて暴れ出したのだった。
その責任を問われた調査隊の長は、『完全な休眠状態にあったはずの土魔龍を、何者かが強制的に覚醒させたのだ』という主張をしたが、その主張は誰からも認められなかったという。
土魔龍ドドドラスは、闘技場に姿を現した直後に、調査隊の護衛として雇われていた『黎明獅子団』によって討伐されることになる。
そして当時はまだまだ無名に近かった『黎明獅子団』は、闘技場を観戦していた多数の貴族の前でその圧倒的な実力を示したこの一件により、皇国中に一気にその名を知られることになるのだった。
「勇者ライアンの英雄譚のその裏で、人知れず奴隷の身分から解放されて世界を巡る旅に出た『とあるエルフの詩唄い』の始まりの物語でございました」
そう言って、アマランシアはその詩を唄い終えた。
それを聞き終えたアルバスは、しばらくアマランシアの顔を見つめた後。
やがてハッとしたように身体を震わせ、口をパクパクとさせはじめたのだった。