8話 決別
空間を震わせる音の残響が消える頃、斎藤の体に掛かっていた圧が消えていた。
それは、散々悩まされていた結界が破壊されたことを示していた。
「んだよ。ハナッからそれでよかったじゃ、ねェか……」
尻すぼみになるのは、日向の場違いな笑みのせいだ。
どこを見ているかもわからない目で、鼻歌でもうまいそうなくらい楽し気に、雷と風と戯れている。
無意識の内に握りこんだ短刀を日向に向かって構えていれば、黒い炎が短刀を溶かし、黒い影が日向に歩み寄る。
「結鬼」
現れた黒鬼を見上げ目に写せば、日向は慌てたように顔を下した。
「頭痛くない!?」
「……あぁ。結界は破壊されたようだからな」
「そ、そうなんだ……記憶が、無いけど、壊れるものだったんだ……だったら、最初から壊せばよかったんじゃ……」
寝起きのような浮遊感に、少し重い瞼で瞬けば、妙に耳をつく足音と騒ぎ声。心地の良い感覚を邪魔する音に、恨めしそうに視線を向ければ、日向は目を見開いた。
「うぉっ!? 暴れんじゃ、ね、ェ!! よっ!」
なぜか牛のような形をしたカクリモノに跨り、大きく肥大した角をハンドルのように握っている斎藤。手や足で叩いては、どこかに誘導したいらしい。
だが、なかなかうまくいかないのか、こちらに向かってくる牛のカクリモノ。
「ちょっ……なんでこっちに――」
黒鬼に抱えられ先で、目の前を通りに抜けていく黒い物体。
「おい! 鬼、シュート!」
「……」
抱える腕の強さが強くなったと思えば、次の瞬間、斎藤の慌てる声と何かがぶつかり壊れる音。
そっと黒鬼の腕から顔を出せば、出口のあった方で土煙が上がっていた。
土煙の中、咳き込む声と細い影。
「お、開いたな」
土煙の晴れた先には、斎藤とその足元に牛のカクリモノが倒れていた。
無茶苦茶だと思いながらも、斎藤に目をやっていれば、斎藤もこちらを満足気に見ては、すぐに口端を落とした。
*****
結界が破壊については、土屋も気が付いていた。
完全に壊れたわけではないが、致命的に破壊されている。
誰がやったのか。それも想像がつく。だが、彼女が何の目的をもってやったのかは想像がつかなかった。
少なくとも、目の前の彼を助けるためにやるようなタイプではないはずだ。
「……」
ならば、警戒すべきは、目の前の彼だ。
呻くことしかできなくなった九条に、一度式神たちの攻撃をやめさせる。
「全く……君には毎回手を焼かされるね」
負けるなんて経験、数えられる程度にしかない。
生まれてから、蝶よ花よと可愛がられたわけではない。恐れに似た何かで、何も知らない人間、会ったこともない人間からも媚びを売られ続けた。
そんな中、自分を九条恵として見ていたのは、土屋道山だけだった。
「もう、人の平和のため、なんて、クセーセリフ言わねェ、のかよ?」
土屋家当主として相応しい考えに理解できないと、子供ながらに否定しても、彼はただ九条家を継ぐのなら理解しろと答えただけだった。
そうやって反論すらできるのは、一部だけだった。
人は、俺を恐れていた。
「まだ私に夢を見ているのかな?」
一歩近づく土屋は、九条をあの日と同じように見下ろした。
「言っただろ。『守るものは決めた。だから、君の味方にはもうならない』」
あの日と同じ言葉。
土屋が、力を持たない九条家の使用人たちを虐殺して去ったあの日と同じ。
何もできず、何もわからず、ただ見上げることしかできないあの日と同じ。
「同族だよ。私も、お前も」
辛そうに、悔しそうに、恨めしそうに、見下ろすアイツ。
本当は、最初から理解している。
洗脳みたいな毎日の念仏が、常識で言葉を偽ることを教え込んでるだけ。
カクリシャは危険だとうるさいくらいに騒ぐくせに、物心ついたばかり子供にすら当たり前のように縋りつく同じ顔をした連中。
理由もわからず、自分たちを否定するそいつらを守れと、納得なんてできやしない。
だから否定した。
同じだ。根っこは、アイツと同じ。
だから、同じように耳障りなアイツらを心のままに殺してしまえばいい。
弱肉強食の世界になったとして、俺は生きている。
消える視界の中、荒れた地獄を想像した。
そこに立ち続ける自分。
容易に想像がついた。
でも、それじゃあわからない。
否定していた念仏を聞き入れなければ、アイツが自分の前から去った理由はわからない。
「――もし、お前が私の仲間になるというのなら、お前を助けよう」
もう一度、差し出された手を、今度こそ取れば、幼い想像は実現するだろう。
このまま死ぬくらいなら、その手を――――
「断る」
叩いた。
「死んでもテメェの仲間にはならねェ」
土屋の歪んだ表情に、腹の底から笑った。
決別だ。
手を取らなかったあの時から、もうその手は取らない。取れないと理解していた。
――俺は、土屋のように優しくはない。
「……そうか。残念だよ」
ひどく冷めた視線が見下ろす。
「ハッ! 優等生の思考なんて知るかよ!」
心残りがないといえば、さすがに嘘になる。だが、きっと大丈夫だろうという確信も妙にあった。
そっと目を閉じれば、騒がしい声と音が近づいてくる。
「おっまえっ!! マジでいい加減にしろよ!?」
「ハァ!? 誰のおかげで助かったと思ってんだ!?」
「それを甘く見積もって九割お前のせいだ!!」
目を開ければ、そこには心残りがいた。それから、大量のカクリモノまで後ろから追いかけてきているようだ。
その多さに九条も土屋も動揺し、すぐに思い至った発生源と理由。
「護衛する人間置いてくバカがどこにいる!?」
「誰がテメェの肉壁なんてすっかよ! 護衛の意味調べて来い!」
「お前がな!!」
結界の機能が弱くなった今、強力なカクリモノを封じ込める力は結界にない。空へ飛んで行ったものに、こちらに向かっているもの、軍や警察、天ノ門が見たら発狂ものだろう。
だが、周辺の住民を心配するのは、ここでは少数派だった。本来心配する側であるはずの九条ですら、その光景に乾いた笑いしか漏れ出てこなかった。
「ゲ」
「あ」
九条と土屋に気が付くと、互いに声を上げ、足を止める。そして、斎藤が「バレたよな?」と確認するようにふたりを指し、日向は「諦めろ」と首を横に振った。
斎藤の存在がバレたことより、鬼に抱えられていることより、背後の惨状の方が問題なのだが、このふたりが理解しているはずもない。
もはや色々開き直ったのか、黒鬼から降ろされた日向は、誰がどう見ても重傷な九条を見下ろすと、
「めっちゃかっこつけたくせに死にかけてる」
「そーですねェ!!」
無邪気に笑った。
九条も否定できず言い返すこともできないが、また現れたカクリモノに口を閉じる。
その数、三匹。
「無限湧きかよ!?」
「なんでぇ……」
「「「そりゃ、ユーキ(お前)が」」」
精霊と人間の視線を集めた日向は、本気で驚いたように声を漏らし、否定した。
「ちが、違うって! とどめはコイツだし! っていうか、みんなは味方してくれても良くない?」
「うんうん。そだねー」
「ガクのせいだもんねー」
何も言わないが、静かに息をついた黒鬼。
「よっしっ4対1!」
「ざけんなよ」
斎藤の怒り任せな攻撃で倒すが、まだまだ出てくるカクリモノ。
加えて、ほぼ破壊されているとはいえ、結界は辛うじて機能しており、土屋は健在。
だというのに、状況が見えていないのか、言い争うふたり。
一匹が、多数決で勝ったと腕を上げる日向に火を噴く。しかし、日向に届く前に、炎は何かにぶつかったように霧散して消えた。
「……ありがとう……?」
驚き半分に腕を下しながら、瓦礫に体を預け、印を組んでいた九条に礼を言えば、睨み返される。
「もういい。お前らは逃げろ」
勝てる算段がない。
力も、あと数回術を発動できる程度しかない。それでも、ここからふたりを逃がすことくらいはできるだろう。
それくらいは、巻き込んだ人間の責任だろう。
「参ったな……鬼って、彼の事か」
つくづく因縁というものは恐ろしい。
「悪いが、そういうことなら事情が変わる。大精霊と鬼だけ置いて行ってもらえるかい?」
何も知らない人間が見れば、簡単に騙されてしまいそうな微笑みで、拒否権のない問いかけをする。
「やだよ」
だが、当たり前のように即答する日向に、困ったように眉を下げた。
「人の物を盗むのは犯罪だよ?」
日向を守るように前に出る黒鬼を不思議そうに見上げるが、聞こえてきた言葉に土屋に目を向ける。
その目に笑みは無く、口元だけに作られた笑みは妙に気味悪く見えた。
「ぅえ?」
土屋が印を組めば、突然雷鬼に鎖がまとわりつき、落ちてくる。
慌てて雷鬼をキャッチした日向の手の中で、足だけをパタパタと振っている雷鬼。
「敵も味方も決められない君が使うより、私の方がずっとうまく使える」
雷鬼をじっと見つめる日向は、何も返さない。そんな日向の前に、風鬼が日向を守るように翼を広げる。
「君たちも学ばないね。いや、今度は逃げずに向かってくるのだから、愚かになったのかな?」
「会ったことあったか? お前と」
風鬼の記憶にはなかった。
精霊にとって、長い時間の中で、個人の人間など特別なことがなければ、記憶になど残ってはいない。
「ねぇ、こういうのって個人で違ったりするの?」
捕まった雷鬼を見せながら日向が、九条へ質問をする。その場違いな質問に、九条も眉を潜めるが、妙に淡々としている不気味な声に答えることにした。
「流派による。大精霊をサクサク捕まえる奴なんて、そういねェけどな」
「そっか」
人も同じだ。精霊ひとりひとりを見分けるのは、ほとんどできない。
土屋はそういう意味で、目が良かった。多くの式神、カクリモノ、精霊を使役するために培った目は、精霊の差異を見分けることができた。
九条が術を見分けることが得意なように。
しかし、怪異に対して触れてこないで、そんな努力をしてこなかった日向はただ、目の前の記憶にある見た目の鎖が、本当に思い描いている人物のものかを判断がつかなかった。
確信はない。
でも――
「別にどうでもよくない?」
誰に聞くでもない疑問を口にする。心はひどく冷め切っていた。
雷鬼を捕まえる鎖を握る。
「愚か? 違うね。必要ないのさ」
想像は力。
具現化する術は強力だが、同時に日向にとっては都合が良かった。
「師匠! そいつの鬼は、あの――――」
走ってきた石蕗の叫びをかき消すように、日向が触れた鎖が粉々に砕けた。
あの時と同じように。
「黒鬼」
違うのは、雷鬼を傷つけた犯人が目の前にいて、まだみんなを傷つけようとしている。
それだけで、日向にとって十分だった。
「あいつを”殺せ”」
怒りと憎悪を流し込んで固めたような黒い炎が山を包み込んだ。