第三話 「祖母という名の昔話」
祖母は延命治療を断固拒んだ。
痛み止めを打ちながら自宅で最期を迎えたいと。
私は祖母とゆっくり落ち着いた時間を過ごした。
祖母はいつも以上に明るく元気だった。
そしていつも以上に藤村のおじさんが尋ねてきた。
毎日山のように果物やゼリーを持ってくるので断ってはいたが、それでも持ってくるのをやめなかったので、
「こんなに沢山おばあちゃんが食べれる訳ないでしょ!腐っちゃうから持って帰って!!」
と叱るとしゅん…となりながら、
「真帆ちゃん…何かみっちゃんに似てきた…。」
と、ブツブツ言うので、「それは光栄です。」
と返す。
翌日から花を沢山持ってくるようになった。
しかし、お見舞いに来る人の数の多さには驚いた。
大半が男性だけど…。
近所の農家さんから、しばらく市内や都会へ出て行った会社員の方、職人さん、この町の警察署長さんや町長さんまで来た時にはどんだけ顔が広いの?と脱帽していたが、誰にも分け隔てなく楽し気に話す祖母を見ると納得してしまう。
そのうち家が見舞い客でごった返してきたので「みっちゃん特攻部隊」の方々の中から選び抜かれた精鋭が列を管理し、一日お見舞い出来る人数・面会時間を決めた。
お見舞い開始時間が朝の十時。
先着順で中に入れるため、庭の前の一本道から門まで良い年したおっさんの大群が走り寄ってくる様は異様であるそうだ。
結局、おじさんは大量の果物を持参し続け、それを史香ちゃんが来客者に先着順で配っていた。
それはそれで喜ばれていて、やはりおっさんがニタニタしながら女の子から果物を受け取る様はアイドルのお渡し会さながらである。そっちの方が目的なんじゃ?と思うような人も見かける時もあった。
祖母も疲れている様子はなく、楽しそうに見舞客と談笑していた。
お見舞いの最後におじさんがやって来て、今日の報告をする。
門の前に何人並んだとか、走り寄ってくる時に誰がコケたとか、他愛もない話ばかりだったが、誰と話す時よりも楽しそうだった。
お見舞いの忙しい合間に史香ちゃんが家から紅茶を作って持って来てくれていた。
ちゃんと私の好きなのを知っていて、労をねぎらってくれる史香ちゃんが天使に見えた。
一緒に飲みながら「おいしいね。」と笑顔で言ってくれる史香ちゃんに癒されていた。
これほど心細い時期に笑顔を向けてくれる存在がいるだけでかなり救われた。
万札を払いたくなるおじさんの気持ちがわかってきてしまった気がした。
そんなゆったりした楽しげな時間も長くは続かなかった
ある日、ふと藤村のおじさんが私にこっそりと耳打ちしてきた。
「ここ何日かで顔色が悪い日が増えてる。見舞い客も先週よりかなり減らしているけど、それでもかなりしんどいかもしれん。明日は誰も通さないようにするから二人でゆっくり過ごしたらどうだ?」
私はそれを聞いて怖くなった。
今までどこかそんな日か来るのはまだずっと先なんじゃないか、と思っていた。
毎日色んな人が来てバタバタしてる中であまり深く考えないでいられたからかもしれない。
きっと二人でいたら不安で、怖くて何も話せないと思う。
きっと涙も止まらないんだろうな。
私は正直、今だに祖母の死とは向き合えてはいなかった。
それをおじさんがそっと私の背中を押してくれようとしている事に気付いた。
私は少しばかり俯いた後、意を決して顔を上げて「そうしてみる。」とおじさんに返答をした。
笑顔にはなれなかったけど、なぜだか気持ちは晴れやかになっていた。
翌日、私は祖母と二人の時間を過ごした。
初めはそわそわしてたけど、思っていたよりかは普通に話す事が出来た。
祖母も私と色々話せて安心したようだった。
午後、痛み止めの注射を打ってもらい、しばらく横になっていた祖母が苦しそうだった。
「おばあちゃん、お医者さん呼ぶ?」
「大丈夫、最近もう痛み止めが効かなくなってきてて…。」
私は祖母の体を横にずらし、背中をさすった。
気休めくらいにはなっているようだった。
祖母はこちらの方へ顔を向けず、枕に顔を押し当てていた。
少し泣いていた。
「ごめんね。こんなみっともない姿見せちゃって…。」
「ううん、そんな事ないよ。」
「真帆ちゃんが二十歳になるまでは頑張るつもりだったけど、もう駄目みたい。」
「そんな事言わないで。私の事は心配しなくていいから、今は自分の事だけ考えてて。」
「大丈夫だから…私なら…大丈夫だから…ほら、私…強いんだよ…。」
祖母がこちらを向いていないのを良い事に私も泣き始めてしまった。
何とか明るくなる会話をして、少しでも気を紛らわせてあげたかった。
「一人にしちゃって…ごめんね…。」
「ううん、一人じゃないよ。この町には一人だって思わせない人がいるから。」
「…たっちゃんね。」
「この前も『近付かないで!』って怒ったら『じゃあ、俺はこれから何を楽しみに生きていけばいいんだー!!神様ー!私に生きる喜びを、生活に刺激をお与えくだされー!』って、急に泣き出すし。」
「たっちゃんらしいねぇ…。」
「そしたら急に雨雲が出てきて、おじさんの近くにある木に雷が落ちた時は死ぬかと思った。おじさんも『そこまでの刺激は…』って腰抜かしてた。」
「ふふふ、きっと祠の神様が面白がっていたずらしたんだろうねぇ。」
私は正直胡散臭いと思っていたあそこの神様ってそんな事出来るんだ!?と驚いてしまった。
「そういえば史香ちゃんに口聞いてもらえなくなった時があって、おじさん三日間、ほとんど何も食べられなくなって、家族が心配して病院に連れて行った時、おじさんが経緯を話したら『恋煩いですね。』って言われて追い返されたらしいよ。いい年した孫もいるおじいさんが恋煩いって、面白すぎ。」
「ある意味病気よねぇ。」
おじさんの話をしていると少し祖母は元気になったようだった。
「そういえば、たっちゃんが学生の時、他校の女学生が川で遊泳するのを覗きに行ったのが見つかって酷く叱られたのよ、道端でふんどし一丁のままでね…jb。」
「当時から手に負えなかったんだね。」
その後もしばらくおじさんの「残念武勇伝」で話が盛り上がった。
祖母も痛みが紛れたのか、穏やかな顔つきだった。
「何でだろうねぇ、たっちゃんの事になると話題が尽きないなんてねぇ。」
「わからない、おじさんが変態だからじゃない?」
二人は大いに笑い合った。
私は思い切って以前から薄々感じていた事を聞いてみた。
「ねぇ、おばあちゃん。昔、藤村のおじさんの事好きだったでしょ?」
目を丸くした祖母の顔が途端に赤くなるのがわかった。
「何言ってんだい。これから死にゆく老いぼれをからかうんじゃないよ!」
「おじさん、格好良いもんねぇ。」
私はあまりふざけた口調では話さなかった。
その方が祖母も茶化さずに話してくれると思ったから。
いつもこんな事、お互い恥ずかしくて真剣になんて話さないのに、今日は何だか特別な気がしていた。
「誰があんな男…好きでいられないはずないじゃないか。」
「えっ!?今もなの?」
「しっ!聞こえたたらどうすんだい。」
「藤村のおばさん結構嫉妬深いもんね…。」
「違うよ、たっちゃんに。あの人すぐつけ上がるから。」
「そうだね、すぐテングになるもんね。それで、いつから?」
祖母は少しためらっているようだったが、話し始めてくれた。
「さっき話した覗きの話、覗かれたのが私達の学校でね。当時、丁度私も泳いでたんだけど、その時足が攣って溺れちゃって、でも誰も気付かなくて…、そんな時たっちゃんだけはすぐに気が付いて飛び出してきて、見つかるのも承知で私を助けてくれたのよ。しかも仲間と何人かで来ていたのに自分一人しかいなかったって事にして。先生が何度然りつけても決して仲間の名前は言わずに全部の罰を一人で受けてたわ。」
「後半だけ聞くと物凄く格好良いね!」
私は素直にそう答えた。
「もしかして真帆も惚れちゃってるのかい?」
「まさか…でもおじさんがもし独身で年が近かったら完全に惚れてた。」
私は更に素直にそう答えた。
それを聞いて感慨深そうに祖母は続けた。
「それにしても血筋なのかねぇ、まさか親子三代で惚れちゃうなんて…。」
「えっ!?お母さんも好きだったの?」
「まぁ、小学生までだけどね。おじさんと結婚するって聞かなくて…たっちゃんもデレデレで、気持ち悪いったらありゃしない。ただ、中学ニ年生くらいから『あんな気持ち悪い生命体に近付きたくもない』って毛嫌いしてたけど。」
「えー、お母さん、男見る目ないんだね。」
「私達の方が毒されちゃってるのかもよ。」
私は「確かに」と言いながら笑い合っていた。
それは突然だった。
私の後ろが輝いているように見えたが、それは気のせいではなく、祖母も感じていた。
祖母の目が急に輝きを増した。
「真帆、すまないけど、ちょっと…お茶のおかわりお願いできる?」
私はさっきお茶っぱ取り替えたばかりなのに…と不思議な感じがしたが、急須を持って部屋を出て史香ちゃんが作ってくれた紅茶の入った水筒を取りに台所へ向かった。
祖母の部屋の前を離れる時、祖母の声がした。
祖母の声はいつもより、高く『お客様用の声』になっていたのだが、話し方が何か無邪気な様子で 、まるで恋をしている乙女かのように楽し気だった。
急須を洗い茶葉を取り替えて
自分用の紅茶も持って戻ってくると今度は祖母のすすり泣く声が聞こえてくる。
私はたまらなく不安になった。
「まだ…死にたくない…でも…これ以上みっともない姿を…見せたくないんだけど…それでも真帆と…もっと一緒に…いたい…。あんな良い子を一人にしちゃうなんて…ぜったいに嫌…絶対に嫌なのに…私の命が…待ってくれないの…あと少しだけでいいから真帆
…真帆と…。」
私は祖母の部屋から聞こえてくる言葉に寂しくなったり嬉しくなって泣いてしまった。
普段、お互いに本音では話さないので、こうやって口に出されると恥ずかしいけど、祖母がそんな風に思ってくれていたというのがわかって、とても嬉しかった。
しばらくすると落ち着いた口調で私の名前を呼ぶ声がして、再び祖母の部屋へと入っていった。
「真帆、ちょっと私のお願い、聞いてもらえる?」
祖母は先程とは違い、キリッとした顔で問いてきた。
私もさっきまでとは違う祖母の雰囲気に驚いていたが、気を持ち直してしっかりと頷いた。
「ここはこれからあなたの家よ。あなたがしっかりと守ってちょうだい。」
中学一年生の私にとってはとてつもなく重い事だったが、祖母に心配されないようしっかりと頷いた。
「それと祠へのお供えと掃除も怠らないようにね。今までもちゃんとやってくれてるから心配はしてないけど、念のため。」
祖母はとても信仰心の高い人である。
私は自信をもって頷いた。
「あとみかんに限らず果物は何でも大好きだけど、あまりお供えしすぎないようにね。あの神様、出された物はぺろっと食べちゃうんだけど、やっぱり食べすぎは良くないから。」
何か庭にペットを飼っているかのような言い方だったが、それも私は頷いた。
「それとねぇ、もし神様に会っても決して、『悪魔』と呼んでは駄目よ。」
私はそれだけは頷く事が出来ず、聞き返してしまった。
「えっ、おばあちゃん神様に会った事があるの!?神様なのに悪魔って呼びたくなる方なの?神様ってどんな方なの?」
他にも色々と疑問に思った事を質問してみた
どれだけ質問しても疑問が湧き上がってくるくらい謎だった。
祖母は目を閉じ、鼻挑灯を膨らませていた。
完全に狸寝入りだ。
私は祖母を揺らして起こそうとすると、祖母は苦しそうに咳き込んだ。
しかし、顔は一切苦悶の表情を浮かべておらず、話題を変えたいのだと悟った。
この時、私は初めて大人の汚い部分を知った。
それから数日もしないうちに祖母は逝った。
最後に聞いた言葉は、
「何か凄く困った時は裏の祠に一生懸命お願いしなさい。」
と、
「真帆ちゃん、ありがとね。」
だった。
数日もしないうちに慌ただしくお通夜と葬儀が執り行われた。
お通夜の参列者は長蛇の列を作り、地元の新聞社がその様子を記事にしたくらいだ。
私は祖母の持っていた喪服を来て、姿勢を正し、この家の新しい当主としての最初の責務を果たした。
と言っても私がしたのは挨拶くらいで細かい事は殆ど史香ちゃんのお父さんがしてくれたのだけど。
藤村のおじさんは堪えていた。
涙が出るのを歯を食いしばって我慢していた。
きっと私が泣いていなかったから、一番辛い人が泣いていないのに自分が泣く訳にいかないという責任感でもあったのだろう。
ただ、私が泣かずにしっかりと葬儀を執り行う事が出来たのには理由がある。
それは史香ちゃんのおかげだ。史香ちゃんは私の横で大泣きしていた。わんわんと大声で泣いていた。それにつられるように参列者も泣きに泣いた。
これだけ泣いてくれる人がいるのだから私は泣かなくても大丈夫だ、と思えた。
史香ちゃんはきっと私に代わって、私の分まで泣いてくれたんだろうな。
理由はどうあれ、史香ちゃんの気持ちが心に染み込んで、私はたまらなく幸せな気持ちになれた。
そして、葬儀が終わってようやく一人になれた私は、人知れず毎晩泣き続けた。