第一話 「別れという名の出会い」
そもそも私がなぜこんな事になってしまったのか。
元々こうなるように伏線が張られていたのかもしれない。
原点は当家の血筋でございましょうか。
女系で短命の多い我が東暖家一族には何かがあると漠然とだが感じていた。
一番初めに気付いたのは母方の祖母の家だった。
祖母の家は、私の市内にある実家から車で約一時間の所にある山や田園が間近に見える綺麗な景色を見渡せる場所にあった。
祖母の家の裏には小さい山があり、そこの麓に大きめの岩があって、その岩に空いた窪みの前に小さな、小さな祠があった。
何の変哲もない穴の空いた岩をなぜ祀っているのか、とても不思議だったし、祖母はどんな時でも毎日お供えや掃除を欠かさずしていた。
そこにはどうやら本当に神様がいるようだった。
私は全く信じてはいなかったのだけど、祖母と一緒にいるのが大好きだったので、祖母と一緒によく祠で掃除やお供えの手伝いをした。
夏休みや冬休みなどの長期休暇になると必ず祖母の家に行き、両親が仕事で面倒を見れない時は休みの間中、ずっとここにいた。
長期休暇以外でも祖母の家に行くくらい好きだった。
ある日、母が私への愚痴を延々こぼし続けた。
ただ、その殆どが父への苛立ちによる八つ当たりのようなもので、それに我慢ならなくなった私は、
「じゃあ、私、この家の子じゃない方がいいよね?」
と翌日、学校が終わるとそのまま祖母の家に向かった。
当時、小学二年生だった私は電車とバスを乗り継ぎ、祖母の家にすんなりと辿り着く事が出来た。
電車にも殆ど乗らなかった私はなぜ間違える事なく辿り着く事が出来たのか。
それは道中、不思議にも私の耳元で声が聞こえてきたような気がして、それに素直に従ったからだった。
「次の駅で降りるんだぞぉ。」
「次に来るバスは、ばあさんの家には行けねぇから、その次のバスだなぁ。」
私は周りを見回したが誰も私に話しかけている人はいなかった。途中、駅前の商店街に寄る予定はなかったのだが、その声の人が、
「あそこの八百屋でみかんを沢山買ってくといぃ。ばあさんはみかんが大好きだからなぁ、これから家に邪魔すんなら買っていかないと駄目だぞぉ。これ大人の常識。」
「えっ、でもお金ないから…。」
「あぁ、それなら大丈夫だ。こう言ったらみかんをくれるからなぁ。」
と誰か知らない人から耳打ちをされた。
私は言われた通り、八百屋のおじさんに丁寧にお辞儀をし、祖母の名前を出して、自分の名前を言い、お使いに来たがお財布を忘れてしまい、『ツケ』にしてほしい、とお願いした。八百屋の主人はあまりに丁寧な挨拶と「ツケ」を知っている事に驚き、事情を信じているようではなかったが、カゴに乗っているみかんを全部くれた。
箱に入っているのもいくつかくれたが、なぜか「それはあまり甘くないから変えてもらえぇ…それは実が小せぇなぁ…。」
などとても注文が多かったのを覚えている。
気付けば祖母の家がある最寄りのバス停に降り、祖母に母との経緯を説明し、みかんを渡した。
祖母は何も言わず、ただ頷いて私の話を最後まで聞いてくれた。
その後、祖母はどうやってここまで来たのか、どうやってみかんを買ったのか尋ね、ありのままに説明した。
祖母は気の済むまで笑った後、みかんをツケ払いにしてくれた八百屋へお礼とお詫びの電話をした。
電話が済むと感慨深げに私にこう言った。
「みかんが大好きなのは私じゃないよ。そりゃ祠の神様だ。そうかい、きっと神様がここまで連れて来てくれたんだろうねぇ。だからそのお礼にみかんお供えしようかねぇ。」
と、話をしてくれた後、祖母と二人で祠へ行き、買ったみかんを全てお供えした。
その時、どこかから唾を飲み込む音が聞こえてきた気がした。
しばらくして母が迎えに来た。
祖母は母を叱った。
当然みかんの代金も母持ちとなった。
それを見て私はモヤモヤしていた気持ちが雲一つない空のようにすっきりしていくのを感じた。
いつだって、私にとって祖母は「正義の味方」だった。
その話を思い返す度にあの祠にいる神様は胡散臭い気がしてならなかった。
でも、それでも神様はいた。
そんな大好きな祖母の元へ引っ越してきたのが小学三年の時。
両親が交通事故で亡くなった六月、私は一人で祖母の家に来る事となった。
私の喪失感を癒してくれたのはこの町の人達と、優しくて穏やかなここの風景だった。
その頃からこの町を愛おしく思うようになっていった。
祖母との生活はとても掛替えのない大切な日々で幸せに包まれた毎日だった。
祖母は夜明けと共に起き出し、畑仕事をしてから祠の周りを掃除し、お供えしてから朝御飯が始まる。
私も毎日早く起きてご飯を作った。
その方が将来の役に立つからだそうだ。
確かに、当時は辛かったが、今は感謝している。
洋食も作れれば言う事なしなんだけど…。
祖母になぜ祠に向かって話しかけるのか聞いてみた。
祖母は遠くを見つめ、少しの間黙っていたが、ぼそっと、
「わしの初恋じゃったんじゃあ。」
と意味深かつ意味不明な言動をしたのだった。
普段は「私」とか「ばあちゃん」とか言ってるのに。
それ以上はいくら聞いても教えてはくれなかった。
祠に恋?と、疑問だったが、後に私も…。
祖母は美人だ。
頭も良いし、話も面白い。
今でこそシワが多いが、背中も真っ直ぐで動作に品の良さを感じる。
美人だというのは紛れもない事実だ。
三軒隣に住んでいる藤村のおじさんが言っているくらいだ。
おじさんは普段とても温厚でいつもニコニコ顔の優しいおじさんである。
そのおじさんに若かりし頃の祖母について訪ねてみた。
おじさんは急に真剣な顔つきになり、農具を置いて私にその場で待機するよう言い渡し、走って自宅へ戻っていった。
数分もしないうちにおじさんは戻ってきて、古いアルバムを開いて 見せてくれた。
「これがみっちゃんじゃあ。美人じゃろ?」
他人に自分の祖母を自慢されるというのは複雑な気分だ。
「みっちゃんは町中の人から好かれとぉてのぉ…。」
みっちゃんとは祖母の愛称で、美津子という。
祖母と同世代の人達は大抵「みっちゃん」と呼んでいた。
おじさんは写真の祖母を見つめながら話す言葉に段々と力が篭っていく。
最終的におじさんは泣きながら地面に崩れ、拳を強く握りしめて、
「みっちゃんはぁ!…俺たちのぉ!…マドンナだからぁ…誰も汚してはならないのにぃ…あの男だけはぁ…!」
と、祖母に対しての捻じれ曲がった愛情表現を始めた。
気が付けば「みっちゃん」という単語が聞こえたからか、通りすがりのおじさん達が三人くらい立ち止まって腕を組み昔の甘酸っぱい思い出を噛みしめるように大きくゆっくり頷いていた。
藤村のおじさんと一緒に泣き出す人まで現れた時はさすがに子供だった私も、この人達のようになってはいけない!と強く心に誓ったものだ。
藤村のおじさんは取り乱したのが急に恥ずかしくなったようで、立ち上がって涙を拭き、平静を装っていたが、泣き崩れて緩みきっていた顔からは鼻水や涎も垂れっぱなしで、そんな顔を近付けてきながらこのおかしくなった場の空気を正常に戻そうと、話題を祖母から私に変えてくれた。
「でも、真帆ちゃんもみっちゃんの若い頃にそっくりだから将来が楽し…。」
私は一目散に逃げた。
全速力で走って家まで逃げた。
今までの人生で一番速く走れた気がする。
家に入ると全部屋の鍵をかけに回り、雨戸も閉めた。
玄関の内側から木の棒を持って藤村のおじさんを待ち構えた。
祖母が何事か驚いて聞いてきたが、私は答えなかった。
ただ一言「おばあちゃんは私が守る。」
と説明にもならない返答をした。
祖母は何も言わずに台所へ戻って行き、晩御飯の時間になっても玄関から離れようとしなかったので、そっとおにぎりと味噌汁を置いといてくれた。
段々疲れてきた私は棒を置いて座り込み、おにぎりを口一杯に頬張った。
昆布も梅も大根の味噌汁もこれ程おいしく感じた事はない温かみのある味だった。
お腹いっぱいになった私はその場で眠り込み、気が付くと布団の中にいた。
きっと祖母が運んでくれたのだろう。
翌日、井戸水を汲んだバケツに入れて冷やしていたトマトをかじっていると、門の外から怒鳴り声と泣きわめく声が聞こえてきた。
藤村のおじさんが祖母にこっぴどく叱られ泣いていた。
きっと昨日の噂が祖母の耳に入ったのだろう。
あまりにひどい泣き顔だったので私は笑い出し、祖母に「もう大丈夫だからおじさんを怒らないであげて。」
と伝え、おじさんにも「また話し相手になってね。」
と伝えた。
するとたちまちおじさんは明るい笑顔に戻っていった。でも顔は汗から涙、鼻水、涎に塗れていて、それを近付けてきたので、私は食べかけのトマトを投げつけ顔を更にぐしょぐしょにさせた。
そんな事があっても藤村のおじさんはずっと大好きだった。
いつもニコニコと優しく話しかけてくれて、私の話を最後まで静かに聞いてくれた。
おじさんだけではない。
この町の人達も皆優しくて、楽しくて、たまにバカになるけど、正直で真っ直ぐな人達だ。
私は気が付けばそんな人達に囲まれたこの町がたまらなく好きになっていた。